第205話 春の料理
勝海舟から、物資調達の倉庫と作業場、そして春の住居を兼ねた場所として、使われていない武家屋敷が提供された。
これで今までよりも効率的に作業ができる。
だがそれ以上に、広い厨房で存分に調理ができるのが、春には何より嬉しかった。
その翌日から、源之助は仕事のためにやって来た。
「……で、これが荷受け帳。こっちが問屋への支払い記録。まずはこれを突き合わせて、計算が合っているか確認して。……言っておくけど、寸分の狂いも許されないんだからね」
春は、山のように積み上がった大福帳とバラバラの書き付けを、源之助の前にドサリと置いた。
正直なところ、嫌がらせに近い分量だ。
いくら読み書きができると言っても、武家の学問と商売の勘定は別物。丸一日はかかるだろうと踏んでいた。
「承知した。……ふむ、なるほど」
源之助は昨日までの抜けた表情を消し、スッと背筋を伸ばした。
その横顔は「食べ方を知らない浪人」とは別人のように冷徹で、知的な色香を漂わせている。
彼は迷いのない手つきで筆を執り、墨を磨り始めた。
(……何よ、格好ばっかりつけて)
春は鼻を鳴らし、自分の仕事に取り掛かった。
だが……
カチ、カチカチカチッ。 小気味よい音が響く。
源之助が算盤を弾く音だ。その速度が尋常ではない。
指の動きが速すぎて、春の目には残像すら見えた。
さらには、筆を走らせる音。
迷いがない。
一刻(約二時間)も経たないうちだった。
「春殿、終わったぞ」
「はあ? 何が?」
「この山の分の照合だ。不備が三箇所。問屋側が端数を余分に乗せているようだ。あと、こちらの記録漏れが一点」
源之助が差し出した書面を見て、春は言葉を失った。
そこには、春が丸一日かけて整理する予定だった数字が、非の打ち所のない美しさと正確さでまとめられていた。
(……うそ。この流れるような筆跡、それにこの整理の仕方……!)
武士の教養として学ぶ御家流の文字でありながら、実務に即した見事な書式。
何より、あんなに山積みだった書類が、まるで魔法のように片付いている。
「どうした? ……やはり、私のような者では役に立たなかったか?」
源之助が少し不安そうに、ひょいと首を傾げた。
その瞬間、仕事モードの「鋭い男」から、またいつもの「便りのない若者」の瞳に戻る。
「…………」
その落差に、春の心臓が不意に跳ねた。
さっきまでの、あの凛々しい立ち振る舞いは何だったのか。
正直言って、期待はしていなかった。
だが、ここまで仕事ができる男だとは……。
春は絶句するしかなかった。
「……あ、あんた。これ、誰に教わったのよ」
「紀州にいた頃、勘定方の手伝いをしておったのだ。数字は嘘をつかぬから、扱っていて心地が良くてな。ただの嗜みにてござるよ」
そう言って、源之助は照れくさそうに笑った。
(なによ、その天然ぶりは……)
春は内心で毒づきながらも、顔が熱くなるのを隠すように、慌てて大福帳をひったくった。
「……ま、まあ、合格よ! 悪くないわね。でも、調子に乗らないでよ。まだまだ仕事はあるんだから!」
突き放すような言い方になったが、書類を持つ春の手はわずかに震えていた。
(ちょ……なによこれ。あんな顔して、あんなに仕事ができるなんて……反則じゃないのよ!)
春の胸の内で、昨日とは違う意味での「ざわつき」が、さらに大きく広がっていた。
横須賀では、着々とビルマ出発の準備が進んでいた。
春の仕事は、調達した物資を汐留川の桟橋に待機する、
坂本の所有する蒸気エンジン付き帆船に積み込むところまでだ。
この作業もあと三日間ほどで終了する予定であった。
荷積みの人足を寄せ場で雇い入れ、作業の指揮も源之助に引き継ぐことができたのは大きい。
やはり、こういう場では男の方が話がスムーズに流れる。
「今日の作業はこれで終わりよ」
大きく伸びをして、春は源之助を見上げた。
春よりも頭一つ分ほど高いところに、彼の顔があった。
「春殿、今まで女だてらにこのようなことまでやっておったのか?」
「仕方がないでしょ。他に誰もいなかったんだから」
「某は役に立っておるであろうか?」
「はぁ?」
何を言っているんだ、この男は。
それが正直な感想だった。
彼の仕事ぶりは、恐らく優秀な商人の三人分は優にこなしている。
「まあまあよ」
「そうか! それは嬉しいな。本当に、嬉しい」
そう言って輝くような笑顔で、源之助が春の顔を覗き込む。
あまりにも率直な歓喜。
春の胸は高鳴る。
(な、なんなのよ。この男、仕事といい、顔といい……反則じゃないのよ)
必死に心の動揺を悟られまいとするのに精一杯だった。
「今日はよくやったわ。夕餉の支度をするけど、あんたさえよかったら特別に食べさせてあげる。あんたなんかが食べたことがないような、珍しい料理よ」
「ほお、私が食べたことがない……この日ノ本でか?」
「そうよ! 当たり前じゃない。紀州の田舎侍には食べられない料理よ」
実は春、オリバーから秘伝のレシピをいくつか伝授されていた。
その中で今日は「鶏の唐揚げ」を作るつもりであった。
夫婦でもない男女が一つ屋根の下で食事をすること自体、この時代では許されざる行為であることは分かっていたが、春は「これも仕事」と割り切ることにした。
一方で源之助もそれを気にした様子はない。
この男の天然ぶりは、ちょっと異常としか言えなかった。
厨房に立った春の胸は、期待にときめいていた。
「唐揚げ」を初めて食べた時の衝撃は忘れられない。
要するに鶏の腿肉に下味をつけた天ぷらなのだが、食感、旨味、すべてが新感覚で衝撃的だった。
(見てなさい!)
春は挑戦的に笑う。
今日は一日、源之助に振り回された。
だが、「最後に振り回すのは私だ!」と、源之助の驚く顔を思い浮かべながら、春はほくそ笑んだ。
厨房に響く、パチパチという軽快な油の音。
醤油と生姜の香ばしい匂いが、屋敷の静寂を塗り替えていく。
春はオリバー直伝の「二度揚げ」の技法を駆使し、鶏の身に閉じ込められた肉汁を極限まで高めていた。
(よし!)
春は満足げに頷く。
「さあ、お待たせ。これが私の切り札よ」
運ばれてきたのは、狐色に輝く塊が山をなす一皿。その傍らには、千切りにされた瑞々しいキャベツ。
そして、謎の「黄金色をした泥のようなソース」が添えられている。
「ほう……これが。……だが春殿、これはただの『揚げ出し』に見えるが?」
源之助は余裕の笑みを浮かべ、箸を伸ばした。
まずは何もつけず、その塊を一口。
――カリッ、ジュワッ。
静かな広間に、衣が弾ける小気味よい音が響いた。
その瞬間、源之助の動きが止まる。
噛み締めた瞬間に溢れ出したのは、これまでの焼き物では決して味わえなかった、暴力的なまでの肉の旨味。
「っ……! な、なんだこれは。衣の歯触り、そして内の身の瑞々しさ……。これは本当に鶏なのか!?」
「驚くのはまだ早いわよ。次は、このソースをつけて食べてみて」
春がニヤリと笑い、白いソースを指差す。
源之助は、疑い深くそのソースをたっぷりとつけ、再び口に運んだ。
その刹那、源之助の目がこれ以上ないほど見開かれた。
卵の濃厚なコク、酢の爽やかな酸味、そして油が渾然一体となって舌の上を滑り、鶏の脂を気品ある旨味へと昇華させている。
「……っ、春殿。これは……一体何だ。滑らかで、それでいて力強い。舌の上で淡雪のように溶け、鶏の旨味を何倍にも引き立てておる……! この私にこれほど未知の衝撃を与えるとは。貴女はもしや、海の向こうの術でも使ったのか!?」
「それは『マヨネーズ』っていうのよ。腕がちぎれるほどかき混ぜて作ったんだから、心して食べなさい」
「マヨネーズ……。なんと、なんと素晴らしい。……お代わりはないのか! いや、この隣にある細長く刻まれた草も、このソースをつけると驚くほど箸が進む。これは……もはや芸術だ」
(どうよ!)
春の心に優しい満足感が広がっていく。
源之助は、先ほどまでの公達のような余裕はどこへやら、二個、三個と、憑りつかれたように唐揚げを口に運び始めた。
普段の冷静沈着な彼が、まるで子供のように夢中になっている。
「あはは! あんた、口の周りベタベタじゃない」
春は思わず吹き出した。仕事中の「天才」の面影はどこにもない。
だが、一心不乱に料理を頬張る彼を見ていると、自分の胸の奥も、揚げたての料理みたいに熱くなっていくのが分かった。
「……源さん、美味しい?」
「……ああ。これは、一度食べたら忘れぬ味だ」
源之助が、口元に脂とマヨネーズをつけたまま、ひょいと顔を上げた。拭うことすら忘れて夢中で頬張るその姿は、まるで初めてご馳走を覚えた子供のようだ。
その一点の曇りもない、純真な笑顔に真正面から射抜かれ、春は慌てて視線を逸らした。
(なによ……。そんな顔して笑うなんて、ずるい男……)
ドクン、と胸が騒ぐのを必死に抑え、春はぶっきらぼうに声を上げた。
「もう、何やってるのよ。顔……拭きなさい。せっかくの顔が台無しじゃない」
春は懐から、一枚の手ぬぐいを取り出した。
春の訪れを祝うような梅の枝に一羽の鴬の絵柄をあつらえた、彼女の一番のお気に入りだ。それを、突き出すようにして源之助の手元へ押し付ける。
「ほら、貸してあげるから」
「……お、すまぬ。かたじけないな」
源之助は、受け取った手ぬぐいで無造作に口元を拭った。白粉もつけていない素の肌に、春の愛用する手ぬぐいが触れる。
子供のように一生懸命に顔を拭う彼の姿を見ていると、春の胸の内のざわつきは、収まるどころか波紋のようにどこまでも広がっていった。
「なあ、春殿。今日は誠に楽しかった。貴女と朝餉を共にして、そして一日、忙しくも今まで感じたことがないほど仕事に熱を入れることができた。そして、この夕餉の奇跡のような味わい。……これが真の幸せというものなのであろうな」
源之助の顔を見ると、その目には深い悲しみが揺らめいていた。
「源さん……」
「江戸の庶民は、十分幸せなのかもしれんな。私はこの町が好きだ。開国だの攘夷だのと騒ぐことなどない。当たり前に仕事をして、家族と共にうまい飯を食えれば、それが何よりだ」
「源さん……あなたは、幸せじゃないの?」
「ん! 私か? これ以上ないほど幸せだ。春殿のお陰だな。ありがとう……」
そう言って笑う顔に、嘘はなかった。
(なによ。本当にずるい男)
春は頬が火照るのを止めることができなかった。
その夜、長屋に帰っても、隣の部屋に源之助がいると思うと、またしても寝付くことができなかった。
それから三日間、源之助が期待以上の働きをしてくれたおかげで、ついにビルマ行きの積み荷の搬入がすべて終わった。
春は源之助のために「オムレツ」を、翌日には「鶏の照り焼き」と、出し惜しみなく秘伝のレシピを披露していった。
そのたびに大喜びする源之助に、春も今まで感じたことがないほどの幸福感に包まれていた。
そして、明日はオリバーたちが出航する。
最後の夜、二人で「ハンバーグ」を食べた。
「ねえ、源さん。あんた、これからどうするの?」
「どうとは?」
「今日でこの仕事は終わりよ。あんた、浪人なんでしょ? 次の仕事はどうするのよ」
「ああ、それか……。何も考えてなかった」
「ダメよ。ちゃんと考えないと」
「それは分かっておるのだが、私にできることなどあるのであろうか?」
「何言ってるの。あんたなら、なんだってできるわよ」
「……であれば良いのだが」
「よかったら、この仕事を紹介してくれたお方を紹介してあげようか?」
「ほお、それはどのような御仁なのだ」
「幕臣の方よ。でね……」
そう言いかけた時、庭先から声がした。
「よう! 春さん、いい匂いがしてんじゃねぇか」
「あら、勝様! 良いところにいらっしゃいました。よろしかったら召し上がっていかれますか?」
「ありがてぇ! ……お、この御仁が春さんの助手だね。あんた、優秀なんだってな。二人ともよく頑張ってくれたこれは土産だ。飲むかい?」
勝は酒の一升瓶を手に持って気さくに話し掛ける。
その時、勝と、源之助の目が合った。
その瞬間――。
勝は驚いたように目を瞬かせた。
源之助は慌てて顔を伏せる。
春は、その場に流れる異様な雰囲気に、二人を交互に見つめるしかなかった。




