第204話 出会い
「なにか、某に用かな?」
不思議そうに春を見るその男。
端正な顔立ちは、絵巻にでも出てきそうな平安朝の公達を彷彿とさせる。
そんな若者がそこにいた。
あまりに予想外の人物に、春の毒気は抜かれる。
「はぁ?あんたね、バカなの?その下手糞な長唄が迷惑だって言ってるのよ! あんたには常識ってものがないの? 今、何時だと思っているの。長唄が歌いたいのなら昼間に河原にでも行って歌っていなさい。分かったわね」
一気に言い切って、春は身構える。
浪人とは言え相手は侍だ。
だが、相手にはそんな緊張感はなく、あっけにとられて切れ長な目で春を見つめていた。
淀みのない目で見つめられて、春の心臓がドクリと高鳴る。
次の瞬間、若者は破顔した。
そして笑い始めた。
いかにも愉快で仕方がない、そんな笑い方だった。
「何がおかしいのよ!」
一度収まった怒りが再び沸き起こる。
「いや、大変申し訳なかった。この通り、ご容赦願いたい」
男は畳に正座して、深々と頭を下げた。
「分かればいいのよ。いいこと、ここは長屋よ。隣に人が住んでいることを忘れないでね」
「無作法、お許しくだされ」
再び男は頭を下げる。
春は乱暴に扉を閉めて、自分の部屋に帰っていった。
その夜は、なぜか若者の顔が目に浮かび、なかなか寝付くことができなかった。
寝不足のまま夜が明ける。
江戸の朝は早い。
朝日が障子の隙間から差し込み始めると、町の喧騒が一斉に動き出していた。
連日の激務と寝不足で重い体を引きずるように起き上がり、火鉢にかけてあった湯を少し口に含む。
そのまま外へ出て、裏通りの汁売りからネギと油揚げ、豆腐だけの味噌汁を受け取り、昨日の冷や飯をかき込もうとした、その時だった。
遠慮がちに、春の部屋の障子の向こうに人影が映った。
障子を開くと、昨日の若者が立っていた。
「何か用?」
「はい、朝餉を食べておられるのかな?」
「だったら何? あんたに関係ないでしょ」
「あの……」
若者は探るような目で春を見る。
まるで捨て猫のような頼りない目で見られると、心に巻き起こる奇妙な揺らぎが春を苛立たせる。
「何の用よ、早く言いなさい。あんたと違って私はこれから仕事に行くの。忙しいのよ」
春は突き放すように告げた。
若者の目が悲しそうに揺らめく。
「朝餉はどうすれば取れるのであろう? 部屋には厨房がないようだが……」
「は? あんた何寝ぼけたこと言ってるのよ。長屋は火気厳禁ってのが常識でしょ」
「では、その味噌汁はどうしたのだ?」
今度は興味津々といった子供のような目で春を見る。
「あんたね……。一体、どこから来たのよ」
どうやら江戸の事情に詳しくない田舎侍らしい。
この世相だ、尊王攘夷派の武士の中には、思想に溺れて脱藩するものも少なくない。
坂本龍馬もその一人だ。
「ああ、そうだな。和歌山だ」
「和歌山って、紀州の? まぁいいわ。……で、なんで私が朝ご飯の食べ方を教えなきゃなんないのよ。大体、今まではどうしていたの?」
「町で芋を買って、火鉢でふかして食べておったのだが、やはり飯と味噌汁が食いたいのだよ」
この若者が下手な長唄を歌い始めたのは、五日ほど前からだったはずだ。
一体何者なのだろうか。
限りなく怪しい男ではあるが、全く邪気というものを感じさせない。
春は大きくため息をつく。
「分かったわ、ついてきなさい」
「ありがたい!」
若者はパッと顔を輝かせた。
春はもう一度、呆れたようにため息をついて見せた。
たっぷりと皮肉を込めたつもりだったが、彼は気にする様子もなかった。
「お金はあるんでしょうね?」
「あるぞ」
若者は巾着を出してジャラジャラと鳴らして見せた。
「あんた、名前は?」
「ああ、私か。……源之助という」
「そう、じゃあ源さん、行くわよ。私は春」
江戸の庶民に朝飯を売る店は多い。
定番は、味噌汁に麦飯を出してくれる店だ。
春の行きつけの屋台は、麦飯十文、味噌汁十文、漬物五文。
通常なら三十五文ほどの価値がある飯と汁を、大盛りで出してくれる評判の店だった。
そこで若者は、麦飯を三杯、味噌汁を二杯、漬物も三人前平らげてしまった。
「兄さん、いい食べっぷりだね。あんた浪人者だろ? お代の方は大丈夫なんだろうね」
初老の店主が苦笑いを浮かべながら、遠慮がちに尋ねる。
だが、源之助は食べることに夢中で反応が鈍い。
屋台飯は前金が基本だ。
春が常連だったため、店主はすぐに出してくれたのだ。
「早く払いなさいよ」
春が源之助の脇腹をつつく。
「おお、代金を払うのだな」
「そうよ。早くしなさい。前金が基本なんだから」
「そ、そうなのか。それは済まなかった」
取り出した巾着から出てきたのは、二分金や小判の塊だった。
「これで足りるのか?」
そう言って二分金を渡そうとする。
「ちょっと待った!」
春が慌ててそれを止める。
ここでも若者は常識のなさを見せた。
二分金は当時の価値で言えば数千文に相当する。
やむを得ず春が立て替えた。
若者は済まなそうに頭を下げるが、何がいけなかったのかを理解していない、頼りなげな顔をしていた。
「いい、食事をしたいときは屋台へ行けばいいのよ。朝昼晩いつでも食べられるから。あとは蕎麦屋ね」
「蕎麦屋か」
そう言って首を捻る源之助に、春は呆れる。
「もう、頼りないんだから……」
「面目ない」
「まあいいわ。何か分からないことがあったらまた来なさいな」
「よいのか!」
源之助は嬉しそうに目を輝かせる。
「いいも悪いもないわよ」
そう言いながらも、しつけの厳しい母の顔を思い浮かべると身が震えた。
未婚の女子が、夫婦でもない男と歩いているだけでも、何を言われるか分かったものではない。
(桑原、桑原)
「じゃあ、私は忙しいからこれで……」
「ちょっと待ってくれ」
「なによ、まだ何かあるの?」
「春殿はどのような仕事をしているのだ?」
「私? まぁ、主に物資の仕入れをしてるのよ。なんでそんなこと聞くの?」
「世話になってばかりで心苦しい。私に何か手伝えることはないだろうか」
「えっ、あんたが?」
春は顎を撫でながら、値踏みするように源之助を見た。
「読み書き算盤、帳簿の整理等なら、人並み以上にできる……はずだ」
「はずって何よ。そうねぇ……」
確かに春一人では手が回らない仕事量だった。
かといって、誰でも雇えるわけではない。
「ダメよ!」
「なぜなのだ?」
「はっきり言うわ。あんたが何者か分からないからよ。そうね、誰か信用できる人の紹介状でも持ってくれば、考えないでもないわよ」
「分かった。紹介状があれば良いのだな?」
「紹介状があるだけじゃダメよ。まず本当に仕事ができるか見せてもらうわ。そして『秘密厳守』。これは絶対よ」
「いろいろと厳しいのだな」
「当たり前じゃない。でも、ちゃんと仕事ができればお給金は弾むわよ」
春は意地悪くほくそ笑んだ。
(どうせ無理だわ)
だが翌朝、長屋を訪れた人物の身分を聞いて、春は呆然と立ち尽くすことになった。
「私は将軍家小姓頭、那須小太郎と申す。春殿でござるか?」
(どうなっているのよ……!)
まさかこれほどの高官が訪ねてくるとは。
紹介者本人が朝っぱらから現れ、源之助の保証人になると告げたのだ。
彼は源之助の紀州藩時代の幼馴染で、出世頭なのだという。
こうして、徳山源之助は春の仕事を手伝うこととなった。




