第203話 奇妙な縁の始まり
尊王攘夷の最も過激な急進派と思われていた長州の一派……
そのリーダー格である久坂玄瑞の心情は、思ったほど単純ではなかった。
前世の知識から、オリバーは新選組と激しい切り合いを繰り広げていた尊王攘夷の過激なテロリストというイメージを久坂に抱いていた。
だが、実際に横須賀へ来て久坂に会ってみると、意外にも知的で温厚な人物だった。
尊王攘夷絶対の原理主義者には見えない。
イギリス人であるオリバーを前にしても、いきり立つ様子はなかった。
「イギリスが強力な海軍力を持ってアジアへ侵攻することに、反対している一派もいるんですよ」
オリバーは、イギリス国内に内在する問題……内政派と海軍派の対立について語った。
なぜ列強はアジアを侵略するのか。
産業革命によって急激に増産された工業製品を、国内だけでは消費しきれない。
そのため、消費先を求めて侵略に踏み切る……その構造を。
「だが、この貿易の不均衡は許容しがたい。日本はイギリスをはじめとする欧州諸国から、一方的に物を買わされちょる。物価は高騰し、庶民は塗炭の苦しみじゃ」
「それで、尊王攘夷ですか?」
「このままでは、いずれ日本は欧州諸国の経済支配を受け、属国化するに違いない」
「尊王攘夷は、イギリスの海軍派を喜ばせます。海軍派には巨大な軍需産業が絡んでいる。日本で暗殺行為が増えれば増えるほど、その軍需産業が利益を得るビジネスモデルが成立しているんですよ」
久坂は、その言葉に衝撃を受けていた。
そして、イギリスにも日本と利益を共有できる勢力が存在すること……
その可能性に。
「そんじゃが、国元では京に攻め込めちゅうもんがようけおるけぇの。わしも困っちょる」
この時、京では公武合体派のクーデターにより、尊王攘夷派の長州は都を追われ、面目を失っていた。
長州では主導権を取り戻すため、過激な主戦論が蔓延していた。
「その結果、長州はイギリスから大量の武器を購入している。そうではないですか?」
「そん通りじゃ。それが武器商人が仕掛けちょるなら、長州の幕府の言うちょる場合じゃないのお」
「でしょ。それより、ビルマでイギリス艦隊を叩ければ、本国には相当な衝撃が走りますよ。慌てることはありません。変化しているのは日本だけじゃない。イギリスも変化しているんです」
「どうじゃ、面白い男じゃろ」
坂本がニヤリと笑う。
「ほんまじゃ。わしもビルマへ行くぞ」
横須賀では、魚雷艇の発射訓練が始まった。
ここでも久坂は高い資質を見せる。
彼の頭は、完全に理系であった。
魚雷の原理や艦隊運用を瞬時に理解していった。
艦隊の構成は、総司令官を坂本、旗艦の艦長を久坂とする。
オリバーは、ともかく忙しかった。
坂本と久坂に艦隊訓練を任せ、再び江戸へ向かう。
レディ・モントローズの組織は、ビルマだけでなく日本にも深く浸透しているはずだった。
彼女の目的は、日本を内乱状態に導くこと。
それによって、イギリスの海軍力をさらに強化せざるを得ない状況を作り出すことだ。
このまま組織を放置するのは危険だ。
しかし、ビルマへの出発も遅らせることはできない。
身体がいくつあっても足りなかった。
『天眼智』で探りを入れると、長崎のイギリス商人と横浜のフランス商人の間で、不自然な武器取引が行われていることが分かった。
それぞれが、長州と幕府を相手にしている。
イギリス商人を追うと、長州の次に薩摩へ向かい、大久保一蔵と対面していた。
「幕府はフランスと密約を結び、最新式の武器を導入し、まず長州、そして次は薩摩を征伐するつもりでしょうな」
その言葉に、大久保はいきり立つ。
「なんじゃと。幕府は、こん国を売る気でごわすか」
「我がイギリスとて、フランスの暴走は見ておられませんな。実は……朝廷から幕府討伐の勅書を得る方法があるのですが、いかがですかな」
【間違いありませんね。横浜のフランス商人から、幕府に対しても同様の工作が行われているはずです】
(しかし、ビルマ行きを遅らせるわけにはいかない)
【倒幕の勅書がなければ薩長も簡単には動けないはずです。工作員は朝廷工作にも動いているはずです。勅書が出れば、薩長はイギリス商人から武器を購入し、倒幕に動くでしょう。前世の歴史では、その直前に大政奉還が行われ、内戦は回避されました】
(つまり、大政奉還が先か、倒幕勅書が先か……すべてはそこにかかっている)
【その通りです。ただし、大きな問題があります。前世では大政奉還は一八六七年。ですが、今は一八六三年です。幕府が簡単に合意するとは思えません】
(勝先生が幕府を説得し、同時に薩摩の西郷隆盛を納得させる。それが四年も早い……時が熟していない)
【パラレルワールドとはいえ、プロトタイプが同一の世界では、似た事件が似た時期に起きやすい。それを変えようとすれば、反発力が働きます】
(どうすればいい)
【そのためのビルマ海戦です。ただし、朝廷が勅書を控えたとしても、幕府が大政奉還に踏み切るには、もう一つ衝撃が必要です。大きな賭けになりますね。それと……今の将軍は家茂です】
(影響するか)
【はい。家茂はまだ若年で、現在十八歳。慶喜と比べると、政治的影響力は劣ります】
(不確定要素が多すぎる)
【できることは、キーマンである勝海舟に、できるだけ多くの情報を渡しておくことです。ビルマ海戦で、日本の歴史はいったん停止します。それをどう生かすかは、勝次第ですね】
ビルマも心配だが、日本が本格的な内戦状態になれば、レディ・モントローズの勢力はさらに力を増す。
海軍派の推進する外需依存の産業構造が正当性を取り戻す。
イギリス議会を海軍派から奪取することすら、不可能になるかもしれない。
日本とイギリス……遠く離れていても、その運命は密接につながっている。
オリバーは、これまでにないほど重要な分岐点に立たされていた。
その頃、春は新橋の長屋に一間を借り、勝と横須賀の連絡係を務めつつ、ビルマ行きの物資を商人から買い集め、横須賀へ輸送する手配を引き受けていた。
寝る間も惜しんで働いている。
今日も夜中まで動き回り、ようやく寝床についた。
すると、隣の部屋から音程の外れた下手な長唄が聞こえてくる。
「また、あいつか」
春の眉間にしわが寄る。
「ああ、あの浪人のことだね。昼間っから酒を飲んで、ぐうたら暮らしている。いい気なもんだよ」
「どんなご身分の人ですか」
「知らないねぇ。ここには素性の知れない人間なんて吐いて捨てるほどいる。どうせ、ろくでもない仕事を請け負って日銭を稼ぐ、ろくでなしさ。あんたも関わらないほうがいいよ」
そう言って、隣のお梅婆さんが笑う。
だが、夜中に人の迷惑も考えずに続く、あの下手な長唄には我慢がならなかった。
春は隣の部屋の扉を乱暴に開けた。
「あんた、いい加減にしなさい。今、何時だと思っているの」
怒鳴りつけると、浪人風の男がきょとんとした顔でこちらを見る。
「わたしのことか」
意外に若く、整った顔立ちの男だった。
困惑した目で、春を見つめている。
春の運命を大きく変える、奇妙な縁の始まりであった。




