第202話 謀略戦
時は、オリバーがラングーンを出発した直後へと遡る。
宿の食堂で仲間とともにポーカーに興じていたサイラスのもとへ、通訳官のフェダラーが現れた。
「サイラス。すぐにマンダレーへ戻れ。勝手は許さん」
「……なんだ? あんたに命令される筋合いはないはずだが?」
エドワード大使が現地で雇用したこの通訳官。
真面目で、語学だけが取り柄の凡庸な男に見えた。
だが、どうやらそうではなかったようだ。
「レディからの依頼は、大使の護衛ではなかったはずだが?」
「……そういうことかい」
表向きは通訳官。
だが、この男は組織の人間だったらしい。
さしずめ監視役、といったところか。
「フェダラーさん、だったか? 俺のボスはフェイギン親方だ」
「……お前たち、裏切るつもりか?」
「だから、親方次第だって言ってるだろうが!」
サイラスは不機嫌そうに、手持ちのカードをテーブルに投げ捨てた。
「ちぇっ。五のワンペアだ」
「すみませんね、サイラスの兄貴。スリーカードです」
「おめえのせいで、ツキが逃げちまったじゃねえか」
「お前たち! レディの制裁が怖く……」
その瞬間だった。
サイラスの手に霧吹きが現れ、それがフェダラーの顔に吹きかけられる。
男は一瞬で意識を失った。
「……兄貴、オリバーの言った通りでしたね」
「ああ。末恐ろしい奴だ」
それは、オリバーがラングーンを発つ前夜のことだった。
フェダラーがレディ・モントローズの配下であること。
そして彼が、本国へ送電したはずの電信文を、オリバーはサイラスに手渡した。
どんな手を使ったのかは分からない。
だが、その電信文は、通信士が送電する直前に偽のものとすり替えられていた。
内容はこうだ。
…….フェイギンに不審な動きあり。裏切りの可能性あり。
さらに、フェダラーのほかにも、マンダレーには二人の諜報員が紛れ込んでいるという。
それもすべて、オリバーからの情報だった。
とても、オリバー一人で、これほどの情報を集められるとは思えない。
「怪しい」という段階を、とっくに超えている。
諜報活動を生業としてきたサイラスにとっても、これほど異常な存在は初めてだった。
サイラスの心は、常に得体の知れない虚無感に包まれていた。
――人は、何のために生きるのだろうか。
――なぜ、生きることは楽しいのか。
組織に属してから、金に不自由することはなくなった。
うまいものを食い。女にも手を付けてみた。
だが、何をやっても、楽しいと思えたことはない。
ある日、物乞いの少女に、ほんの気まぐれで金を与えた。
暖かい食事を食べさせてやり、「うまいか?」と尋ねると、少女は輝くような笑顔で頷いた。
まるで、不思議な動物でも見るような目で、サイラスはそれを眺めていた。
その少女を、彼はキリスト教系の孤児院へ連れて行った。
そこから、彼の奇妙な「趣味」が始まった。
子供たちは、食事だけで満足できる。
自分には決して得られない満足感を、わずかな金銭で与えられることに、彼は驚いた。
それを観察することで、もしかしたら自分にも、その喜びが感染するのではないか。
そんな希望が、確かにあった。
そして、虚無感が和らいだことに、小さな衝撃を受けていた。
初めてウィットフィールド村を訪れたとき……
活気に満ちた村、混雑する酒場。
いつまでも、そこに身を浸していたい……そんな満足感が、確かに伝染してきた。
オリバーと一対一で戦ったときの、あの充実感。
その日を境に、サイラスの生き方は変わった。
オリバー……
理解不能なその男は、本来なら一生消えることのなかったはずの虚無を、
サイラスの心から消し去ってしまった。
それが何を意味するのかを知るまでは、彼のもとを離れるわけにはいかない。
その日のうちに、サイラスは海軍基地へ忍び込み、大使を救い出した。
あらかじめ用意されていたビルマ国軍所有の蒸気船に乗り、エーヤワディー川河口の小さな村を目指す。
そこで、カナウン王子に伴われたフェイギンと合流した。
フェイギンは、サイラスに伴われた男を鋭い目で睨む。
「……そいつが、例の男かい?」
「はい。組織の人間で間違いありません」
「監禁しておけ……ことが過ぎるまでな」
「……“こと”って、なんのことです?」
「それは、その男が一番よく知っているはずだぜ」
サイラスは事の顛末を聞き、最初は驚き、次いで唸った。
ミンドン王の二人の息子が結託し、王とカナウン王子の暗殺を企てている。
その暗殺に深く関与しているのが、通訳官フェダラーだった。
ラングーンに残ったのも、レイヴン提督へ状況を報告するため。
フェダラーは幾度もミンクン王子、ミンコンナィン王子と会い、
武器と資金を供与し、派閥の強化に手を貸していた。
そして……
オリバーは意図的に、「カナウン王子が、多くの護衛を伴ってパテインへ移動する」という情報を漏えいさせていた。
近く、クーデターは実行される。
「ミンドン王の周囲は手薄だ」
それは、オリバーが流した誤情報だった。
マンダレーでは、ミンクン王子の手勢が王に襲いかかる。
だが、そこには精鋭五百が待ち受け、一網打尽にする手はずになっている。
一方、パテインにはミンコンナィン王子が五百の軍勢を率いて向かう。
だが、すでに河川には、カナウン王子の意向を受けた部隊が罠を張り、待ち構えていた。
このクーデターは、最初から情報戦の優劣によって失敗が定められていた。
「……恐ろしい奴だぜ」
フェイギンが、ぼそりと呟く。
「まったくです。レディよりも……ですか?」
「それを言うな」
フェイギンとサイラスは、カナウン王子とエドワード大使の脇を固め、その日が来るのを待った。




