第198話 江戸赤坂氷川下
赤坂氷川下……
江戸城から見れば南西、台地の縁に沿うように武家屋敷が並ぶ一角に、勝海舟の屋敷はあった。
表門は大きすぎず、しかし造りは堅実で、無駄な威圧感を感じさせない。
門をくぐると、短いが手入れの行き届いた前庭があり、飛び石の向こうに主屋が控えている。
主屋は書院造を基本としつつも、格式一辺倒ではない。
座敷は広すぎず、畳の縁も華美ではなく、来客と向き合うための実務的な造りだ。
奥には私的な居住空間が続き、障子越しに射し込む光が、静かな陰影を落としている。
裏手に回れば小さな庭があり、そこからは氷川の杜の木立が望めた。
縁側に座れば、塀越しに江戸の喧騒がありありと届いてくる。
勝海舟は、三人の訪問者に目を丸くしていた。
一人は町人風の身なりだが、その顔立ちは明らかに異国のもの。
もう一人は、肌の艶がやたらと色っぽい、武家風の若い娘。
最後は大柄な浪人。
一体どうすれば、この奇妙な組み合わせになるのか、皆目見当がつかない。
「お前さんたちは、一体全体……」
「あっ、大変失礼いたしました。私はイギリスから参りました。オリバー・ツイストと申します。勝様のご名声は、本国にいる頃から伺っておりました」
「名声? イギリスでかい?おいらぁ……おまえさんが何を言っているのか、さっぱり分からねぇが?」
「私は春と申します。蘭学を学ぶため、江戸へ参りました」
春の顔を見て、勝は一瞬、何か思い当たることがあるような表情を浮かべた。
「江戸に来た?……ああ、それはいい……で、お前さんは?」
「わしは土佐浪人、坂本龍馬と申します。以後、お見知りおきを……」
「……で、おいらに何の用だい?」
勝は興味深げに、三人を見渡した。
「あんたに聞きたいことがある」
「りょ、龍馬さん……」
何か言いかけたオリバーを、勝は手で制した。
「ほう、なんだい。かまわねぇから言ってみな」
勝が、うっすらと笑う。
「わしらの仲間は、このオリバーのようなイギリス人一人一人に、天誅を与えようとしておる」
「あんたも、尊王攘夷かい?」
「いいや、それはやめた」
「やめた? そりゃ一体、なんでだい」
「勝さん、あんたはイギリスと、どう付き合うんがええと思っとるのですか?」
「いい質問だ。なんで、そんなことが聞きたい?」
「わしは、昨晩このオリバーと飲んだ。このオリバーは、ビルマのイギリス大使の下で働いておるちゅうことじゃ」
「ほお、それで……」
「イギリスの話を聞いた。ビルマの話を聞いた。世界は、わしの思うておったもんと、全然ちごうた」
「どういうふうに違ったってんだい?」
「分からん。だが、それを知っておるんは、あんたじゃと思うた」
「このおいらがかい?」
その瞬間、勝の表情から笑みが消えた。
オリバーは、このやり取りを不謹慎ながら、わくわくと聞いていた。
……. 正に、歴史の分岐点に俺はいる。
その実感を、ひしひしと感じていた。
だが同時に、オリバーは自分が、もはや歴史の傍観者ではないことを思い知らされる。
「そうじゃ。この人は、わしの思うておった南蛮人とは、全然違っておったんじゃ。勝先生、あんたなら、それを知っておると思うて」
「オリバーさん、あんた、さっき“おいらの名声”とか言ったね」
(うわっ……失言だったか)
【落ち着いてください。話せばわかります】
(他人事かよ……)
「オリバー、何を呆けた顔をしちょる!おまん、勝先生に真剣な話がある言うとったが……」
その言葉に、この一大歴史イベントが、現実のものとなる。
「はい。私は、あなたが渡米された時の話を聞いたのです。アメリカは、その時、日本に対する認識を変えた。あなたも、そうではありませんか?」
「おいらが、何を考えているか……ふふん……お見通しって訳かい」
勝は、いささか皮肉めいた笑みを向けた。
「勘違いしないでください。私は、あなたの敵ではありません」
「分かってるよ。あんたには、思いつめたもんがねぇ。おいらと取引に来たって顔をしているぜ」
「勝さん、では単刀直入に言わせてもらいます」
「うむ……」
オリバーは大きく息を吐き、勝の目を真っ直ぐに見据えた。
「イギリスと同盟を結びませんか?」
勝の眼光は、ますます鋭くなる。
しばしの沈黙の後、勝が口を開いた。
「どういう意味だい?」
「誤解しないでください。対等な同盟です。ですが、すぐに、という訳ではありません」
「対等?」
再び、勝は沈黙する。
「悪いが、おいらに、あんたを信用する道理はない。それに、おいらは幕臣だ。幕府はフランスから支援を受けているんだぜ。乗り換えろってことかい?」
「いいえ。フランスも、この同盟の枠内にいます。もしも……同盟が成立したなら、日本は、イギリス、フランス、プロセインとの間で、準同盟関係となります」
勝は、突然笑い出した。
「大きく出たもんだな。あんたは、今この国が、どんな状況か分かっちゃいねぇようだな」
「もちろん、徳川政権との同盟は、あり得ません」
「つまり……」
「はい。その、つまりです」
勝が将来成し遂げるであろう……
『江戸城無血開城』。
すなわち大政奉還、明治政府の樹立。
沈黙の中、勝の額から、一筋の汗が流れ落ちていた。




