第197話 旅の仲間
「おまん、大丈夫だったが?」
春に向かって、その謎の浪人者は心配そうな眼差しを向けていた。
「はい……大事ありません」
緊張で蒼ざめていた顔に、ようやく朱が戻り始める。
「そりゃえかった。えらいこっちゃったな」
浪人者は、とろけるような愛嬌のある笑顔で笑った。
そして、ふとオリバーのほうへ振り向く。
「おまん、面白い男じゃのう。わしは坂本龍馬ちゅうもんぜよ。以後、よろしゅう頼む」
(え……えっ?今、言ったよね……龍馬って言った?)
【はい。ですが、この時点での坂本龍馬は、まだ無名の浪人にすぎません】
オリバーは、思わずまじまじと龍馬の顔を見つめていた。
「どがいした?なんぞ、わしの顔に付いちょるか?」
「あ……あぁ……失礼しました。俺はイギリスから来ました。オリバー・ツイストと申します。こちらこそ、ぜひ、よろしくお願いします」
龍馬は破顔する。
「おまんら、江戸まで行くがか?」
「はい。そのつもりです。ですが、俺は……」
「なんも言わんでええ。わしは敵じゃないきに。……そんじゃが、おまん、大丈夫か?」
「えっと……江戸は、やはり危険ということですか?」
「イギリス人には、特にじゃ。女連れで江戸へ行くイギリス人なんぞ、見たことがない。ええ度胸じゃが、そりゃ無謀ちゅうもんぜよ」
「やっぱり……」
「あいつらは天狗党じゃ。あんなもんが、そこらじゅうにおる」
「尊王攘夷派ですね」
「ああ、そうじゃ。……わしもじゃ!」
オリバーは、その言葉に思わずぎょっとする。
だが、龍馬の顔には害意も殺意も、まるで感じられない。
あるのは、ひたすら親しみのこもった笑顔だけだった。
「あの……どうして、俺たちを助けてくれたんですか?」
「気ぃが変わったからじゃ」
「……気が変わった?」
「ああ。おまん、こいつらが、どこへ向かっとったか、知らんじゃろ?」
「はい。偶然、俺がイギリス人だと知られて、襲われただけなので……」
「江戸……赤坂氷川下じゃ」
龍馬の声から、愛嬌がすっと消え、代わりに鋭さが宿る。
「えっ? それは……」
「なんじゃ?おまんもかい?そうじゃ。幕臣・勝の屋敷じゃ」
「勝海舟さんですね。……あなたも、でしたか?」
「ああ、そうじゃ。場合によっては、こっちに加勢するつもりじゃった」
オリバーは、再びぎょっとなる。
坂本龍馬が勝海舟の弟子であったことは、前世の史実では有名な話だ。
だが、この並行世界では違うのだろうか。
【いいえ。坂本龍馬は勝海舟暗殺のために赤坂の私邸を訪れ、説得されて弟子になった、という逸話も有名ですよ】
(そうだ!)
うっかり勘違いするところだった。
もっとも、それはあくまで逸話に過ぎない。
実際の歴史がどうであったかは、今なお定かではないのだ。
オリバーは、その現場に立ち会っている自分の幸運に、奇妙な高揚感を覚える。
(信じられない……まさか、俺が勝海舟と坂本龍馬の、伝説の初体面を目撃できるとは……)
【見逃す手はありませんね。もともと坂本龍馬とも接触予定でしたし、ちょうどいい機会です】
(まったくだ)
オリバーにとって、絶対に見逃せないビックイベントが、今まさに始まろうとしていた。
「おまん、どがいした?さっきから、わしの顔を、えらい気色の悪い顔で見よるが……わしに、そういう気はないきに!」
オリバーは気まずそうに顔を赤らめ、慌てて取り繕う。
「いやいや、俺だって、そっち系に興味はありませんよ。変なこと言わないでください」
「そんなら、ええんじゃが」
「でも……言わせてもらっていいですか? 勝さんは、尊王攘夷派の人たちが言うような、日本の敵ではありません。ちゃんと話し合ったほうがいい」
「わかっちょる。わしは最初から、そのつもりじゃ。さっき言うた加勢いうんも、場合によっては、守る気でもあった」
「わかりました。よろしければ、ご一緒しませんか? 今からだと、江戸に着くのは夜になります。夕刻にはどこかの宿場で宿を取り、勝さんには明日にでも会いに行きましょう」
「こちらの美人さんも一緒じゃな? 嬉しいのう。これじゃき、旅はやめられん。今晩はうまい酒が飲めそじゃ」
龍馬は再び、とろけるような笑顔を浮かべ、西洋風に手を差し出してきた。
二人は固い握手を交わす。
春も含め、次の宿場を目指して……
こうして、賑やかな旅が始まった。
川崎宿で宿を取ることになった。
宿代は結局、オリバー持ちである。
しばらくして、女中が夕餉と酒を運んでくる。
この状況に、オリバーはまるで時代劇の中に入り込んだような錯覚を覚え、いささか興奮していた。
しかも、酒の相手は……
色気たっぷりの春と、坂本龍馬なのだ。
そして……。
ともかく、この二人はよく話す。
話題が豊富なのか、それとも単に話好きなのか……とにかく尽きる気配がない。
黒船来航以降の日本には、新しい時代へ向かう熱狂が、確かに存在していた。
そのうねりを、オリバーは肌で感じ取っていた。
オリバーは二人に、包み隠さずイギリスの現在の政情を説明した。
その内容に、二人の驚きは想像以上のものとなる。
日本から見れば、難攻不落に思える強大な相手……
だが、その大英帝国の内情は驚くほど不安定で、決して一枚岩ではなく、複雑な問題を内包していた。
「清国との阿片戦争には……そがいな理由があったがか……」
「私も驚きました。貿易不均衡ですか。そんな問題が、そもそも植民地主義そのものの根にあったとは……」
二人の呑み込みは早い。
イギリスが清国へ阿片を強引に輸入する理由……
それは、産業革命による本国での過剰生産、一方で、清国からの大量輸入によって生じた莫大な貿易赤字。
さらに、植民地経営と海軍予算が、もはや阿片なしでは埋められないという、構造的な不均衡にあった。
「ですが……もしそうなら、イギリスは新たな植民地を求めて、この国にまで来るのではありませんか?」
「……ほんまじゃ」
二人の疑問は、もっともだった。
「そうはさせません」
オリバーは、はっきりと言い切る。
「もうすぐ、イギリス議会は解散総選挙を迎えます。そこで内政派が政権を握れば、植民地主義は抑制的になるはずです」
オリバーは、現在の政局と、イギリスの植民地主義にはもはや持続性も合理性もなく、既得権益によってかろうじて延命しているにすぎない現状を説明した。
そして……
ビルマの危機。
夜も更け、三人はそれぞれに思いを胸に抱きながら、
明日の勝海舟との対面に備えて床に就いた。




