第194話 旅は道ずれ
横浜より江戸赤坂に至る道程は、およそ八里(約三十二キロ)。
東海道を踏破すれば、一日行程であった。
ただしそれは、無事に辿り着けた場合の話だ。
尊王攘夷の志士たちが跋扈する江戸までの道中を、イギリス人のオリバーが単独で旅をすることは、自殺行為に等しい。
【あなたなら、この時代最強の新選組三十人に囲まれても、突破して走って逃げることは可能ですよ】
(なんで、そんな危ないマネしなきゃなんねえんだよ……)
イギリス商館で二ポンドを両替してもらうと、意外にも十両という高値だった。
日本での生活費としては、これで十分だろう。
立ち食いそばをかき込み、呉服問屋へ向かって旅装と草鞋を揃える。
それに着替え、三度笠を被れば、日本人と見分けがつかない。
少し背の高い男にしか見えなかった。
さらに『印象操作』のスキルを重ねる。
これで周囲の注意が向くことはない。
完璧……のはずだった。
握り飯と団子を懐へ入れ、オリバーは飛脚さながらに走り始めた。
急ぎの書状を運ぶ飛脚と見られたに違いない。
気が付けば、すでに神奈川宿を通過している。
(問題なく江戸まで行けそうだな……)
そう思いかけた頃、人通りのない山道で、若い女性が蹲って苦しそうにしているのが目に入った。
白いうなじが、妙に色っぽい。
(こ、これは水戸黄門でよくあるテンプレでは……)
だが、黙って通り過ぎるわけにもいかず、オリバーは足を止めた。
『天眼智』で診ると、冷えと過度な緊張による腹痛だと分かる。
「少し失礼しますね。ツボを押します」
指先から、針のように細い熱を流す。
「あら……不思議やね。あんたに触られたら、治ってしもうたわ」
「それは、ようござんした。少し腹が冷えただけのようですね。では、あっしはこれで」
「ちょっと、待ってくださいませ」
女は一歩踏み出した。
「見ての通り、女一人で難儀しております。お礼は弾みますので、道中ご一緒していただけませんか?」
「いえ、あっしは訳ありで急いでおりますんで……ご無礼させていただきやす」
―『あっしには関わりのないことでござんす』
……..と言ってみたかったが止めておいた。
「それでは、私の気が済みません。そこな茶店で、お団子など振る舞わせていただけませんか?」
その仕草、その声、その間合い。
あまりの色香に、オリバーの心が揺れた。
運命のいたずらか、突風が吹き、三度笠がわずかに捲れる。
「……その髪の色は……」
「ああ、ばれましたか。そうなんです。俺、イギリス人という訳で」
「まぁ……!」
驚きに口元を押さえるその所作が、また妙に艶めかしい。
(おい……江戸時代の女って、こんなに色気あるのかよ……)
【そのような主観に関する質問にはお答えできません】
危険だからと告げても、彼女は引かなかった。
急ぎであれば、早籠代は自分が持つからと言う。
そこまで言ってくれるのであればと、オリバーも同意した。
それに、江戸で宿を取る際に手伝ってもらえるなら助かる。
そんな下心も手伝って、結局、次の宿場まで同行し、団子を食べながらしばし歓談することになった。
武家の娘だと言う、彼女は、家出同然に一人で家を出て、江戸で医術を学ぶつもりだという。
そのためか、イギリス人のオリバーを興味津々の表情で見ていた。
この時代の女性としては極めて特異で、しかも開明的だった。
蘭学にも興味があり、英語も少し話せるらしい。
「My name is Haru. Nice to meet you」
発音も悪くない。
才色兼備とは、このことだろう。
「英語は、どこで習ったの?」
「私ね、蘭学を学びたくて平戸まで行ったの。そこで英語もオランダ語も話せる女の先生に会ったのよ。……憧れちゃうなぁ」
夢見るようなその表情が、やはり色っぽい。
だが彼女は、自分がオオカミの群れが跋扈する道を旅する、無防備な羊であることに気づいていなかった。
放っておくわけにもいかない。
結局、この宿場で見つけた早籠に乗り、二人で江戸へ向かうことになった。
どうやら、江戸の蘭方医に伝手があるらしい。
だが……
茶店の奥で、らんらんと光る眼でこちらを睨んでいた武士の一団に.....オリバーはまだ気づいていなかった。




