第193話 江戸時代
横浜の港に着いた。
紛れもなく、江戸時代の日本である。
オリバーは、胸の高鳴りを抑えることができなかった。
急速に建築が進む街並み。洋風の建物と従来の日本家屋が混在するその風景は、なぜか芸術性の高い絵画のような美しさを誇っていた。
できることなら、その街をゆっくり観光したかった。
だが、今のオリバーにそんな時間はない。
街を歩くと、イギリス人であるオリバーを好奇の目で見る者、明らかな敵意を向ける者など、反応はさまざまであった。
だが、ここは江戸時代なのだ。
江戸時代の街並み、人々の姿、様々な店舗、活気に満ちた市場。
天秤棒を担いだ売り子の姿。その空気が、匂いが、熱がオリバーを昂揚させた。
そのすべてが、これほどまでに自分を魅了するとは、予想外の出来事であった。
そんな風景に心を奪われながら、『越後屋』を目指す。
大きな商店であったため、目的地はすぐに見つかった。
店内に入ると、越後屋の屋号で染め上げた半纏を羽織った店員が、
「いらっしゃいませ」
と威勢のいい声を上げ、オリバーを迎えた。
「イギリスのお客様やな。通詞の先生を呼んできな」
そう年若い丁稚に告げ、愛想よく頭を下げる。
どうやらこの男は、番頭のようであった。
「ウェイト、ウィエト……」
番頭は、英語らしき言葉で対応しようとしていた。
「あ、大丈夫ですよ。私は日本語ができますので」
そう告げると、番頭は目を丸くした。
日本語ができることよりも、まるで日本人と変わらぬ発音で話したことに驚いたようである。
「へぇ……左様でございますか。私はこの越後屋で番頭を務めさせていただいております、佐吉と申します。ご用件をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「はい。ご店主の与左衛門様はいらっしゃいますか?私はイングリッシュ・インターナショナルの、オリバー・ツイストと申します。名をお伝えいただければ、お分かりになるかと」
イングリッシュ・インターナショナルは、ブラウンロウが所有する貿易商の名である。
もちろん、オリバーとは一切関係はない。
取引の便宜上都合がよかったため、社員名簿に名を連ねさせてもらっていたに過ぎない。
「へい。少々お待ちくださいませ」
番頭は、わずかに緊張した面持ちで店の奥へと向かった。
この『越後屋』は、当時の横浜ではよくある、廻船問屋と金貸しを兼ねた商家である。
大きな土地を買い占め、荷の集配場、すなわち倉庫業も営んでいた。
ほどなく、店主の与左衛門が、襟を正し小走りで現れた。
「これはこれは……よくいらっしゃいました。ツイスト様でございますな」
丁寧に膝をつき、深々と頭を下げる。
その隣には、若い通訳が控えていた。
英語で何か言おうとした通訳を制し、オリバーが日本語で応じる。
「このたびは、お世話になります」
背筋を伸ばし、直角に腰を折って丁寧に礼をする。
取引の場では、最大限の敬意を払う……それが正しいセオリーだ。
「これはこれは、ご丁寧に。しかし……本当に日本の言葉がおできになるとは、恐れ入りました。早速、荷の引き取りでございますかな?」
「いえ。本日は確認だけで、しばらくお預かりいただきたいのですが、可能でしょうか?」
「もちろんでございますとも……番頭さん、ご案内を」
「あの……ひとつお願いがあるのですが……」
「へい……なにか、折り入ったご相談で?」
「はい……」
荷は、無事に届いていた。
与左衛門は、店の奥の座敷へと案内してくれた。
この頃の日本は、表向きには財政破綻状態にあったが、民間商人の富は目を見張るほどであった。
こぢんまりとしているが、造りのよい座敷は、贅を尽くした空間である。
茶と和菓子が振る舞われ、庭の小さな庭園も、なかなかの眼福であった。
「実は……インドネシアから、数日内に十六隻の帆船が曳航されてくると聞いておりますが、その情報は、すでにお耳に入っておりますよね」
越後屋は、開国以来、横浜港に出入りする船舶情報の集積所のような役割を果たしていた。
知らぬはずがない。
「なんのことでございましょうか。確かに私どもは廻船問屋ではございますよ。それにお上の目もございます。そのような大それた品物など、私どもの手に余るものでございます」
【完全に嘘ですね】
(なるほど……表情筋は嘘をつかないな。とぼけたオッサンだ)
『天眼智』によって、オリバーは微細な表情の変化まで正確に読み取っていた。
「分かりました。ご店主……こう致しませんか?」
「……はい?」
「オランダの商人が、あなたのもとを訪れることでしょう。その方に、サイゴンの“X氏”から話を聞いたオリバーが待っている……そうお伝えいただければ、それで結構です」
「よく分かりませぬが……よろしゅうございます。オランダの方が来られた折に、そうお伝えすればよろしいのですな」
「はい。決して怪しい話ではありませんので、ご安心ください」
一瞬、与左衛門の目が鋭く光った。
通常の視力では捉えられぬほどの、わずかな変化だったが、オリバーは見逃さない。
オリバーは、にんまりと笑った。
――お前の密売は知っているよ。
――だが、それは黙っておいてやる。
そういう意味であった。
相手も心得たものである。
一瞬で十把ひとからげの笑みに戻り、
「もちろんでございますとも。怪しいことなど、なにひとつございません。お客様も、ご承知ことでございますな?」
「はい、当然です。またお会いできるのを楽しみにしております。お茶とお菓子、美味しゅうございました。有難うございます。」
「それは、ようございました」
……. ははははは。
………ハハハハハハ。
二人は声を合わせて笑い、そしてオリバーは座を辞した。
【もはや悪徳商人そのものですね。】
(ほっとけ!)
次は本丸だ。
幕末の最重要人物が住まう、江戸・赤坂氷川下を目指す。
それにしても、忙しい。




