第190話 予言
エドウィンは、エリザベスからの報告書を読み終えると、しばらく無言のまま机に肘をついた。
ビスマルクの人物評。
その思考の癖、判断の基準、権力への距離感……
それらが、オリバーの残した情報データブックの記載と、驚くほど一致していた。
「……信じがたいほどだな」
エドウィンは低く呟いた。
「ビスマルクが本当にプロイセンの宰相になれば、オリバーの仕掛けた戦略と、利害はほぼ完全に一致します」
エリザベスは淡々と続ける。
「ナポレオン三世陛下については……なぜか、すでにオリバーに心酔しきっているようです」
「そこまでは理解できる。だが……」
エドウィンは窓の外へ視線を移した。
「オリバーは、ビルマで一体、何をやろうとしている?」
「それが……」
エリザベスは一瞬、言葉を選んだ。
「“まだ知らない方が良い”の一点張りです」
沈黙……
ウィットフィールド村型の工場運営モデルは、いつの間にかイギリス国内で、じわじわと広がり始めていた。
政治運動でも、労働争議でもない。
誰かが号令をかけたわけでもなかった。
だが、特に若者の間では、それはまるで流行のように受け入れられていた。
若者は、新しい流れに敏感だ。
(この流行は、オリバーが仕掛けた戦略の、ほんの序章に過ぎないのではないか……)
そう考えれば、これまでの動きにも、妙な整合性が生まれてくる。
次にオリバーが狙っているのは、エドウィンですら考えが及ばなかった領域だった。
彼は三つの要素を挙げている。
・安全保障……軍事の均衡と抑止
・経済安全保障……産業の国際間協力
・内需拡大……過剰な外需依存の抑制
これを、欧州の大国であるイギリス、フランス、プロイセンの三国で、同時に行うというのだ。
三国間の産業協調体制については、恐ろしく慎重かつ綿密に策定されている。
プロイセンには、精密工業における高い生産能力がある。
イギリスには、造船、鉄道、インフラ整備がすでに工業化された巨大な産業基盤がある。
そしてフランスには、高い食料生産能力と、ファッション産業を中心とした消費文化の基盤が存在する。
これらをサプライチェーンで結びつけることで、三国は経済関係において、互いに不可欠な存在となる……その構想だった。
特筆すべきは、基礎産業、すなわち食料、エネルギー、基本的な生活物資については、この相互依存関係から意図的に除外している点である。
それらは最低でも八〇%以上を国産で賄う。
この設計による効果は、明白だった。
三国は互いに必要不可欠な経済関係を持ちながら、同時に、国家の根幹部分では依存を排除する。
それによって、対等な外交関係を長期間維持することが可能になる。
さらに、軍事力を均等に拡大していけば、少なくとも三国間で戦争が起こるリスクは、限りなく最小化される。
その結果、三国は欧州最大級の軍事的抑止力を有する勢力となる。
残る潜在的な仮想敵は、ロシアとオーストリアだが、経済力と軍事力の両面で圧倒する三国に対し、意図に反する戦争を仕掛けることは、極めて困難な外交環境が形成される。
その結果として導かれるのは、
戦争の抑制、
高度経済成長、
中産階級の増加、
そして高度な民主化だった。
その前段階として、まず財政の最適化を行うべきだと、彼は主張している。
そのためにビルマへ行くのだという。
だが、何をしようとしているのかについては、頑なに語ろうとしなかった。
ただ一つ、近くイギリス議会は解散総選挙を余儀なくされる。
内政派の候補者として有力者を出来るだけ多数招集し、選挙に備えてほしい……そう告げられていた。
つまり、政権奪取の機会が近々訪れることを、彼は予言しているのだ。
もし、これをオリバーが一人で考えているのだとしたら.......
それは、恐ろしいほど計算し尽くされた、緻密な知性と言うほかない。
だが、さらに信じがたい、別の可能性もある。
(予言……)
トーマスの言葉が、頭を離れない。
――オリバーは未来から来た。
だが、トーマスの推測は、決して的外れではなかった。
オリバーは、殺人犯として投獄された。
その結果、彼が抱えている「大きな秘密」は、もはや完全には隠しきれなくなっているのではないか。
その秘密とは……。
「バカな……」
「はい? 何か仰いましたか」
エリザベスが、心配そうにこちらを見ていた。
「いや、すまない」
ウィットフィールド村の繁栄により、政治とは無縁の場所で、社会の構造そのものが変質し始めている。
その事実は、エドウィンにとって初めての経験だった。
だが、この動きを国家規模の改革へと昇華させるには、決定的な条件がある。
オリバーの言う、財政の最適化。
つまり、政権を取らなければ話にならない。
現状は、極めて厳しい。
議会の多数派は、依然として植民地拡大派で占められている。
この国の実権を握っているのは、実質的には海軍の圧倒的な軍事力だった。
しかし、オリバーの指摘は、ここでも正しかった。
長期的に見れば、極端な外需依存は必ず行き詰まる。
産業革命によって生み出された膨大な生産力は、まず内需で消費されるべきだ。
余剰分や特産品のみを外に回す……
内需主導型の経済でなければ、持続性はない。
そのために必要な政策は、具体的で明瞭だ。
国民への基礎教育。
職業訓練。
生産効率の向上。
そして、賃金の上昇。
これらを同時に進める必要がある。
当然、予算編成を大きく組み替えなければならない。
「……あの、お父様」
思考を遮るように、エリザベスが声をかけた。
「本日、ジョン・ブライト様という方が、突然工場を訪ねてこられました。工場と村の様子を、ひと通り見ていかれました」
「ジョン・ブライト?」
エドウィンは顔を上げた。
「まさか……あの、急進派の下院議員か?」
「おそらく、その方かと……ぜひ一度、直接話をしたいと仰っていました」
ブライト。
熟練労働者階級から厚い支持を受ける、急進派の論客。
エドウィンが構想する内需拡大型経済政策は、分厚い中産階級の形成を前提としている。
利害は、完全に一致していた。
だが、それだけではない。
「……どんなことを聞かれていた?」
「主に、給与体系と衛生管理です。工員住宅にも、かなり強い関心を示されていました」
「なるほど」
ブライトはクエーカー教徒でもある。
人権、貧困対策、社会改革に本気で取り組む人材を、多く輩出してきた宗派だ。
給与、衛生、福利厚生
そこに関心を示した理由は、容易に想像がついた。
「あ、それと……もう一つ、頼みごとをされました」
「頼みごと?」
「知り合いの青年を一人、工場の事務所で、一か月ほど預かってもらえないかと。無給でも構わないそうです」
「無給? 目的は?」
「小規模なチョコレート工場の経営を任されたそうで、経営について学びたい、と……ブライアンとウィリアムは、人手が増えるなら助かると言っていましたが……」
「その件は、ブライアンに任せよう。どんな青年だ?」
「それが……」
エリザベスは名刺を取り出した。
「名前は……ジョージ・キャドバリー。年齢は、まだ二十歳です」
「キャドバリー?」
エドウィンは、その名に聞き覚えがあった。
確か、チョコレートの販売で、貴族の子女の間に一定の人気を持つブランド。
だが、その製造は、いまだ職人頼みの手工業の域を出ていないと聞いている。
――クエーカーの下院議員。
――クエーカーの若き実業家。
この二人が、日を置かずに現れたことに、意味がないはずがない。
エドウィンは、胸の奥に、直観めいたざわめきを覚えた。
それがやがて大きなうねりとなり、国家の進路を変える力へと育っていくことを、この時の彼は、まだ知る由もなかった。
だが、その光景を、幽体となったオリバーが聞き耳を立てていた。
(キャドバリーって……あのチョコレートメーカーの?)
【はい。これは、やりようによっては大きいですよ。繊維業界から、他の業種へウィットフィールド村モデルが飛び火するわけですから。しかも、それがお菓子業界というのが……実に“おいしい”】
(はあ!ダジャレかよ?)
【いえ。それは、あなたの邪推です。ですが、ファッションと高級菓子......この二つの業界が、有権者に与える影響は無視できません】
会話ができないのが、もどかしい。
重要な場面で助言できれば、どれほど役に立つだろう。
(……いや、出来たら逆に怖いか)
だが、もう一人の人物……ジョン・ブライト議員の訪問目的は、ウィットフィールド村の真実の確認と、エドウィンとの政治的共闘に違いない。
イギリス本国が、オリバーの思惑通りに進んでいることを確認し、彼は内心でほくそ笑んでいた。
【まるっきり、陰謀家そのものの顔ですね】
(うるさい。ほっとけ)
次の瞬間、
彼の意識は静かにロンドンを離れ、ビルマの深い密林へと引き戻されていった。




