第164話 潜在世界
オリバーは『天眼智』によって、ロンドン全域を俯瞰していた。
霧に沈む街並み、無数の人の営み、その上を覆う重たい空気までもが、情報として流れ込んでくる。
その中で、ひとつの言葉が強く検知された。
…….『オリバー・ツイスト』
場所は王宮だった。
興味を惹かれ、意識の焦点を絞る。
そこには、見慣れた人物たちの姿があった。
エドウィン。
その妻メラニー。
そして、トーマス。
マリー王女の件……
エドウィンとトーマスが、自分のもとへ向かっている事実を、オリバーは即座に理解した。
【良い機会ですね】
(なんのだよ?)
唐突なヨーダの言葉に、オリバーは訝しげに首を傾げる。
【ルナに出会った意味の本質を悟るための、良い機会であると言いました】
(だ・か・ら……その言い方が分かんねぇって言ってんの!)
ヨーダの言葉を借りれば、この世界の表層で観測される現象のすべては、深層に沈む“波”の共振の結果であるという。
極端な比喩を使えば……
表層の因果関係とは、ゲームで言えばプレイヤーが見て操作できる仕様にすぎない。
だが、その背後にあるプログラム、開発環境、ハードウェアは、プレイヤーの目には映らない。
世界の表層に現れるものは、全体のわずか五%。
残りの九十五%は、深層に沈んでいる。
(……で、今回の王女の件と、何の関係があるんだよ)
【これは物語で言えば、ストーリーが大きく動き始めたことを示しています。通常であれば、死刑囚が、いくら王女のためとはいえ、全力で助ける気になりますか?】
(なる訳ないだろ。しかも冤罪だ。俺は百パーセント被害者だぞ)
【その通りです。ですが、この“波の匂い”を嗅いでください。理屈で考えてはいけません】
(匂い?)
直観を働かせろ……ということか。
【どうですか?】
(……う~ん、いい匂いがする)
【良いでしょう。あなたはそれに従えばいいのです。今後は、現実の因果関係ではなく“匂い”を信じてください】
【それを繰り返せば、二週間ほどで『天眼智』の上位スキルの経験値が蓄積され始めます。九十日後には“匂い”は、あなたの最も信頼できる能力となるでしょう】
(そうなのか……で、そのスキルって何なんだよ?)
【それは、あなたが何を望んだかによって生成されます】
(つまり、ユニーク・スキルってことか?)
【そう考えて差し支えはありません】
(なるほど……)
【では、マリー王女救出作戦を、サクッと解決しましょう】
その言葉にオリバーは意識を跳躍させた。
マリー王女が収容されている、貧民窟の診療所へ。
『天眼智』で、状態を確認する。
確かに、肋骨は八本も骨折している。
頭部も打撲しているが、幸い内出血は見られない。
もし内出血していれば、その場で終わっていた。
そう思い、オリバーは内心で冷や汗をかいた。
王宮医師団が最も問題視しているのは、一本の肋骨だった。
いびつに折れ曲がり、深く腹部へと食い込んでいる。
これを動かせば、腸に刺さる。
この時代の技術では、救いようがない。
小腸を貫いている可能性すら否定できず、動かすことすら出来ないのも無理はなかった。
では、手術で取り除けるか?
その位置を、慎重に確認する。
語弊はあるが……
この王女は、極めて運が良い。
肋骨は小腸に刺さってはいるが、貫通はしていなかった。
だが、手術中に少しでもズレれば、万事休すの状態だ。
外科医が二の足を踏むのも当然だった。
彼らの技術では、成功確率は五%にも満たない。
だが……
オリバーであれば、成功率は百%だ。
骨を元の位置に戻し、殺菌し、腹部を無傷で修復できる。
それは、技術だけの問題ではなかった。
むしろ機材の差が、決定的だった。
適切な環境下で、骨を戻し、殺菌し、腹部を修復する。
それ自体は、決して不可能な処置ではない。
問題は、そのための鉗子だった。
適切な形状と強度を持つ鉗子があれば、
腸の位置を一瞬だけずらし、傷を避けたまま固定できる。
ほんの数秒。
その間、臓器を傷つけずに処置できれば、手術は安全に終わる。
それだけのことだった。
だが……
この時代において、その発想と機材の両方を持つ者はいない。
オリバーを除いて。
(これならいけるな……問題は体力とショック症状か)
【そうですね。ですが、二十秒で片を付けましょう。出来ますよね?】
(当然だ!)
【それなら、ショック症状が起こる可能性は、ほぼありません。後は体力だけです】
(つまり、時間との勝負か)
【手術道具は、ローズさんのところにすべて揃っています。条件を出しましょう】
(ローズさんのサポートが必須……それが条件だな)
エドウィンたちは、すでにニューゲートへ向かっている。
だが、まだ到着していない。
(早く来てくれ……)
刻一刻と流れる時間。
出来ることなら止めてしまいたいという、叶わぬ願いを抱きながら……
【安心してください、想像の中で、あなたはすでに行為を終えています。】
(はあ?)
【深層の波動が、それに共振したのなら……あとはそれを観測するだけのことです。】
オリバーは、その謎めいた言葉の意味を、まだ理解できずにいた。
だが、今はそんな禅問答に付き合っている暇はない
出来ることは、待つことだけだった。




