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第163話 王宮の危機

マリー王女は下町の施設を慰問した帰途、役目を終えた解放感から、馬車の中でうとうとしながら街の風景をぼんやりと見ていた。

煤けた煉瓦の壁。霧に滲む街灯。水たまりに映る橙色の灯り。石畳を踏む車輪の音が、遠い子守歌のように耳に残る。

突然、御者の悲鳴に叩き起こされた。

空から、大きな丸太が降ってきたのだ。

次の瞬間、御者が馬車から滑り落ちるのが見えた。

丸太は跳ね返り、馬の足元へ大きな音を立てて落ちる。

馬が棹立ちになるのが見えたと思った瞬間、暴走が始まった。

若い侍従マルコは勇敢にも御者台へ移ろうとしていた。

「姫様、しっかり捕まっていてください」

侍女のアンヌが、マリー王女を庇うように抱きしめる。

絹の袖の奥で、彼女の腕が震えているのが分かった。

マルコは御者台にたどり着き、手綱を握った。

もう大丈夫だ。

そう思った瞬間……

車輪が、地面に投げ出された大きなレンガのようなものに激しく跳ねた。

運が悪いとは、このことであった。

マルコはその振動に耐えきれず、御者台から跳ね飛ばされてしまった。

馬車は再び制御を失い、石畳を噛むような音を立てながら、狭い路地へと突っ込んでいく。

振り返ると、立ち上がったマルコが必死に走っているのが見えた。

だが、霧と街灯の影に紛れ、すぐに見えなくなってしまった。

途中、『立ち入り禁止』の立て札。

次の瞬間、馬車は激しく揺れ、宙に舞い上がったように感じた。

車体が空中で軽くなる。アンヌの抱擁が急に遠くなる。

その後、マリー王女の意識は闇へと消えていった……


夜も更けていた……

トーマスの診療所の扉が激しく叩かれていた。

冷たい夜気が窓枠の隙間から入り込み、蝋燭の火が小さく揺れる。

(急患か?)

寝ぼけ眼のトーマスが出ると、そこには意外な人物が立っていた。

侍医となり王宮に勤めているはずの友人、エリオットである。


すぐに異常を悟った。

目は血走り、髪は乱れ、仕立ての良い服の裾は泥に汚れていたからだ。

「エリオット?お前か?一体どうした」

「トーマス……」

エリオットはもどかしげに何かを言おうとしたが、声にならない。

「まあ、中へ入れ。少し落ち着いた方が良いようだな」

「いや、そんな時間はないのだ。トーマス、頼む。俺と共に王宮へ来てくれ?」

「一体どうしたと言うのだ?何があった?」

「訳は馬車で話す。すまないが、急いでくれないか」

「分かった。少し待て。着替えて来る……」

王宮に何かよからぬことが起こったに違いない。

だが、エリオットが自分のところに来た理由は分からない。


馬車に乗り込み、トーマスはエリオットを見る。

「何があった?」

「……事故だ」

それだけ言って、エリオットは喉を鳴らす。

馬車の中の空気が、やけに乾いていた。

「馬車が……転覆した。下町の、あの汚染区域だ。今は封鎖されている……コレラの」

トーマスの背筋が、静かに冷えた。

「誰が、乗っていた」

エリオットは顔を上げた。

血走った目が、逃げ場を失ったように揺れている。

「……マリー王女殿下だ」

空気が止まったように感じた。

状況によっては、王室にとって重大な事態に至る。

「生きている。だが……」

言葉が、そこで詰まる。

エリオットは両手で顔を覆い、呻くように続けた。

「肋骨が数本折れている。内臓を傷つけている可能性が高い。頭部も……強く打っている。意識は戻らない」


「移送は?」

問いは短かった。

エリオットは、首を横に振る。

「無理だ。動かせば……そこで終わる」

沈黙。

馬車の外で、どこかの家の戸が軋む音がした。霧の向こうから、咳き込む声さえ聞こえる気がした。

「王宮の医師団は?」

「全員、手を尽くした。理論上できることは……全部だ」

その言葉の裏にある意味を、トーマスは理解した。

つまり、現代医学では限界だ。

「侍医長殿は?」

「一度、王宮に戻られたはずだ」

「……それで、なぜ俺のところに来た」

エリオットは、ようやくトーマスをまっすぐ見た。

「藁にもすがる思いで来た。万策尽きたのだよ」

「王宮医師団に出来ないことを俺に期待されても無理だ。それは分かっているはずだ。それに俺の専門は内科だ」

「あの噂は本当なのか?」

「噂?」

「ああ。今、エドウィン・チャドウィックの屋敷にも使者が送られた。メラニー夫人も王宮に召喚される」

つまり、噂とはメラニーの奇跡の手術のことだった。

トーマスは慎重に言葉を探す。

「お前は本当に、その手術に立ち会ったのか?」

「ああ……」

「その医師はどこにいる。お前はそれを知っているのか?」

一瞬の躊躇の後、トーマスは答えた。

「知っている。だが……」

「どこにいるのだ!」

「残念だ。その人物に助けを求めることは無理だ」

「イギリスにいないのか?」

「いや。このロンドンにいる」


「では、なぜだ!分かるだろう。マリー王女の命だけの問題ではないのだ。無為に王女を死なせるようなことがあれば、王室の体面がどれほど傷つくか」

体面などどうでもいいではないか……等とは言えない。

この時代では王室の体面は社会体制の安定にかかわる重大な問題なのだ。

王室は何が何でも王女を助けようとするだろう。

「その男は今、ニューゲートにいる。しかも、彼は正規の医者とは言えない」

ニューゲート。誰もが知るロンドン中心部の、重犯罪者が収監される牢獄だ。

エリオットの顔は目に見えて強張った。


王宮に着くと、エドウィンとメラニーが既に待っていた。

夜更けの廊下は静まり返り、足音だけが妙に響く。

三人は顔を見合わせる。

「エリオット、どうするつもりなのだ?」

「エドウィン卿。深夜にご足労頂き、大変恐縮でございます」

「それはいいのですが……一体どういうことですか?」

「しばらく、お待ちください。今、侍医長様がいらっしゃいます」


言い終わるが早いか扉が開き、眼鏡をかけた恰幅の良い男が現れた。

「エドウィン卿、トーマス君、それにご夫人。ご無沙汰しております」

「こちらこそ……」

「端的に伺います。状況はご説明差し上げた通りの事態です。王宮医師団としては何が何でもマリー王女のお命をお救いしたい。あなた方は、それが出来る人物をご存じなのですか?」

三人は再び顔を見合わせる。

短い沈黙の後……

「はい。一人だけ、可能性がある人物を存じ上げております」

「どなたですか?それは?」

「オリバー・ツイスト……現在、ニューゲートに収監されている殺人犯です」

驚きの表情が浮かんで消えた……

侍医長の目に、強い光が宿った。

「わかりました。今から私のご同道願えますか?エリオット君……君もだ」


そして連れていかれた場所は、王宮の重要案件を審議する広間であった。

重厚な扉を開くと、数人の人物たちが、一人の女性を頂点に卓を囲んでいた。

ビクトリア女王、その人であった。

首相、侍従長、大法官が同席していた。

蝋燭の炎が揺れ、卓上の書類と顔に、濃い影を落としている。

侍医長とともにトーマスたちが入室すると、一斉にそちらを見た。

「で、如何であった?」

「はっ。事実でございました。このメラニー夫人が実際に瀕死の状態から回復しております」

「エドウィン卿、久しいな。そのこと、間違いないのだな?」

「はい、間違いございません。私たちはその場におりました」

「わかった。国の大事じゃ。すぐにその者を召喚せよ」

「陛下、お待ちください。一つ問題が……」

「ん……?」

「その者、現在、ニューゲートに収監されております罪人でございます」

「なんじゃと?では、直ぐに恩赦して出獄させよ」

「なりません。殺人犯でございます」

「なっ……」

女王は絶句した。

「侍医長殿。一体、どういうつもりなのですかな?あなたもお分かりのはずです」

首相の言う通りであった。

仮に王女の命が助かったとしても、殺人犯を使ったのであれば王室の体面は大きく傷つく。

それでは意味がないのだ。

体面こそがマリー王女の命以上に守らなければならない最重要事項であった。


「陛下、首相殿。時間がございません。提案がございます」

「言ってみなさい」

オリバーが聞けば、大きなため息を漏らしそうな身勝手な提案であった。

つまり、密かにオリバーを連れ出し、本人とは分からないように覆面をさせる。

近衛騎士と医師団は一旦引き揚げさせ、入れ替わりに侍医長、エリオット、トーマスがオリバーと共に手術に立ち会う。

終了後は全てがなかったことにする。

「うむぅぅ……だが、相手は殺人犯ではないか。自分が殺されると分かっていて、いくら相手が王女であってもそれを救おうと考えるだろうか?」

「はい。恐らくは同意を得ることは難しいでしょう。ですが、このエドウィン卿とトーマス医師は、その殺人犯オリバー・ツイストとは近しい仲。説得が出来るのではと?」

「待て、オリバー・ツイストと言ったか?」

舞踏会の折、ウジェニーと踊り、社交界を驚かせた青年であった。

「はい、陛下」

女王は苦しげに目を瞑る。

「エドウィン卿、トーマス。心苦しいが頼めるか?」

「恐れながら陛下。大変恐縮ではございますが、オリバーの減刑を……説得には必要な措置かと」

思い切ったようにトーマスが懇願する。

「なりません。理由のない減刑は世間の耳目を引きます」

「ですが……」

「大法官、なにか方法はないのか?」

「獄中にあっても、なにか国益に大きな貢献があれば、王室の権限で減刑は法的には可能でございますが」

「なにかとは何じゃ?」

「それは……」

大法官はあからさまに困惑する。

「わかった。すぐに過去の事例を調べるのじゃ」

女王は短く告げる。

「かしこまりましてございます」

「エドウィン殿、トーマス殿。時間がございません」

侍医長の顔には焦りが滲んでいた。


オリバーの独房は半地下にあった。

黴臭く、湿った冷気が肌にまとわりつく。壁の石は汗をかいたように濡れ、床には薄い水たまりが残っている。

室内にはほとんど光が入ってくることはなく、遠い廊下の灯りだけが、鉄格子に細い影を落としていた。

看守が独房の鍵を開ける。

鉄が擦れる音が、やけに大きく響いた。

「オリバー・ツイスト、面会だ」

オリバーがゆっくりとベッドから起き上がり、こちらを振り向いた。


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