1
〈世界〉はまず虚空だった。
茫漠とした虚空の世界にいつしか滅びた異世界の残滓が漂ってくるようになった。それが上下の二極に分かれて二つの大きな器を形作った。上極の器は中に入った塵芥を目映い光へと変えていった。下極の器に降り積もった塵が大地となった。塵の降りように偏りが生まれ、多様な地形が形成され始めた頃、虚空の果てより一粒の種が飛来した。
下極の器に落ちた種は広がりつつあった大地に根を張り巡らせ、やがて世界樹となった。世界樹は幾千もの枝葉に天の光を享け、また枝と同じ数の根から地の霊力を吸い上げていった。そうやって蓄えられた滋養は世界樹のみを育むのではなく、隔てのない恵みとして辺りにも分け与えられ、世界樹を中心とする大森林が形成された。植物だけではない。続いて生まれた様々な獣たちもまた世界樹の庇護の下で健やかに育まれた。その森は餓えも渇きもなく、生死の境界もない安寧の楽園となった。
これが〈世界〉の第一季である。
世界樹が天と地の二極を繋ぐようになって幾星霜。永遠に続くかと思われた楽園にも終わりの時が訪れる。楽園だけではない。それは世界そのものに訪れた一つの終焉だった。
変化は急激なものではなかった。けれど世界は長い時間をかけてゆっくりと、そして着実に滅びの道を進んでいった。
まず天の光が翳りを見せた。世界で唯一の光源である天から放たれる光量が徐々に減り、まばらに途切れるようになった。光の勢いが弱まるにつれ、世界樹の蓄えていた力も衰えていった。それは即ち分け与えられる恵みの減衰を意味する。滋養が行き届かなくなり、まず森の外縁部の木々から枯死が始まった。滅びの円が中心に近付くにつれて森に暮らす獣たちの数も大きく減っていき、とうとう最後の十一頭が残されるばかりとなった。
一頭の〈狼〉が、一本の樹を見つめている。常緑の葉は全て枯れ落ち、露わとなった樹表の大半は枝から広がる石化の病に冒されたその樹は、世界樹を除いた森林の最後の一本だった。樹が滅びゆく様を、〈狼〉は一言も発さずに見つめている。とうとう樹の全てが石化し、音もなく崩れ落ちて砂の山となった後も、狼は怒りや悲しみ、恐れといった感情を表に出すことなくただひたすら樹の立っていた場所に目を向け続けていた。
そこにもう一頭の獣が訪れ、〈狼〉の背へと語りかける。
「母なる世界樹がお呼びだ。残る獣は我が元に集え、と」
現れた獣は、雄々(おお)しいたてがみを持つ〈獅子〉だった。
「……ああ、わかった」
そう応じながらも、〈狼〉は樹が滅びた場所から目を離そうとしなかった。〈獅子〉は嘆息しつつ、気心の知れた〈狼〉が何を考えているかに思いを巡らせた。
「先に行っている。気が済んだら来い」
少なくとも、滅びを恐れているのではないことを察した〈獅子〉が踵を返そうとすると、〈狼〉はぽつりと呟きをもらした。
「滅んだ者たちは、一体何処へ向かうのだろう」
〈獅子〉が向き直る。〈狼〉は滅びし樹から目を移し、そびえる世界樹を見上げていた。世界のありとあらゆる生命を守り育む母なる存在の衰えは目に見えて明らかだった。賢明な〈狼〉も〈獅子〉も、自分たちが世界樹に呼ばれた理由に気付いていた。
「おれたちも、このように滅んでゆくのだろうか」
「馬鹿なことを口にするな。滅びはしない。おれもおまえも、他の者たちも」
〈獅子〉の言葉は気休めではなかった。母なる世界樹の滅びを止める手立ては一向に見つからないが、して諦めはしない。残された全ての生命を守り通そうと誇り高き〈獅子〉は固く決意していた。
「生き残った者は、全ておれが守り抜く」
たてがみを力強く震わせる〈獅子〉を見て、〈狼〉はようやく気持ちを和らげた。
「……そうだな。おまえなら、きっとそれができる」
最も信頼を寄せる友の言葉を聞き、〈獅子〉はさらなる力が体の底から沸き上がるの感じた。それを見た〈狼〉は、〈獅子〉を好ましく思うと同時に、己はそのようにはなれないことを強く自覚するのだった。
二頭が世界樹の元に着いたとき、その梢の下にはすでに他の獣たちが集っていた。
大らかで力のある〈熊〉、大きな角を持つ〈山羊〉、狡知に長ける〈蛇〉、鼻の利く〈鼠〉、深い知識を蓄えた〈亀〉、小さいが気性の荒い〈蜂〉、千里先まで見通す〈鷹〉、音を自在に操る〈蝙蝠〉、素早く跳ね回る〈兎〉、これに気高い〈獅子〉と物静かな〈狼〉を加えた十一頭が世界樹の森で生き残った獣たちだった。
「母なる世界樹が我らをお呼びになられたのはなぜだろう」
〈兎〉が疑問を口にすると、〈亀〉が甲羅から首を出して答えた。
「そんなこともわからんのか。ちょこまかと動き回るばかりでなく、ちいとは頭を使え」
「何だと。こののろまじじい!」
この二頭の言い争いは常日頃のことで、仲間たちも慣れたものであった。しかし、このときばかりは〈亀〉も〈兎〉も言葉の端々(はしばし)に焦りと恐れが入り交じった不安な感情を滲み出させており、他の獣がおいそれと仲裁に入れそうな様子ではなかった。
「まあまあ、二人とも」
〈蝙蝠〉が睨み合う二頭を宥めようとしたが、八方に良い顔をしようとするこの獣の言葉には耳も貸さなかった。
「言い争っている場合ではないだろう」
いがみ合うのを見かね、〈山羊〉が口を開いた。〈獅子〉の次に統率力のある〈山羊〉が諭そうとしたそのとき、世界樹の幹から目には見えない糸が伸びて十一頭の心を一綴りにした。
(――揃いましたね)
柔らかな声が、糸を通して十一頭に伝わった。
「おお、母なる世界樹よ!」
〈熊〉が野太い声で吼えた。天が衰え、滅びが始まって以来、世界樹が獣たちに語る機会は著しく少なくなっていた。
「おいたわしい……」
と、〈鼠〉が顔を覆って悲嘆に暮れた。森が最も栄えていたときには、このように糸などを用いなくとも世界樹の声を聞くことができたのである。
「母なる世界樹よ、もっとお声を聞かせてください」
短気で向こう見ずな〈蜂〉も、このときばかりはさすがに素直な気持ちを吐露した。
(私のかわいい子どもたち――)
世界樹の暖かな思いを受け止め、十一頭は喜びに涙をこぼした。
(いつまでもこうしていたい。今までと同じように、あなたたちと平穏に暮らしていきたい。けれど、その願いは叶いません。私に残された力は――生命はあとわずかなのです)
「そんな……そんなことを仰らないでください」
〈鷹〉が鋭い眼差しから滂沱の涙を流し、羽根を大きく開いて懇願した。
「……よそう、〈鷹〉よ」
その横で〈獅子〉が首を振った。
「おまえの思いは痛いほどよくわかる。だが、御自身で仰られたとおり、母なる世界樹にはもう力がほとんど残っておらん。駄々をこねて困らせてはいかん」
〈獅子〉はまなじりを引き締め、世界樹を見上げた。
「母なる世界樹よ。あなたは我らに何かを言い残そうとしていらっしゃる。それが何なのかはおれにもわからぬが、こうして我らをお集めになられたのだ。それはきっと希望のあるお言葉なのでしょう」
〈獅子〉がそう促すと、世界樹は頷いたかのような間を置き、そして言葉を紡いだ。
(私のかわいい子どもたちよ、新たな光を探しなさい)
それを聞き、獣たちの中からざわめきの声が上がった。
「新たな光……ですと?」
〈蛇〉が訝しげに舌を出し入れした。
(そうです。失われつつある天の光に替わる――次なる光を見つけ出し、そして、その光と共に新たな世界を創り上げるのです)
「つまり、その光であなた様をお救いしろ、と?」
そう訊ねる〈蛇〉の目は、どこか忌まわしい企みめいたものを秘めていた。そのことにに――今までこの森には存在しなかった邪悪の萌芽に気付いたのは、聡明な〈獅子〉と、まだ一言も発さずにいた〈狼〉だけだった。
(いいえ、それは違います。今ここにいる私の生命はもうすぐ尽きます。理に則って定められた命数を変える術はありません)
「お言葉を返すようですが、我らの生命はあなた様の庇護があってこそのもの。あなた様がおらずば、新たな光を探すことなどできませんぞ」
〈蛇〉は慇懃を通り越して不遜とも聞こえる口調で問いかけた。しかしそれは正論で、獣たちは世界樹に殉じ、滅びを享受する覚悟を既にしていたのである。
(安心なさい。私に残された力を全て使ってあなたたちに二つの力を与えます。私の庇護がなくとも滅びに立ち向かうことのできる力を――)
「二つの力……」
「滅びに立ち向かう、ですって?」
獣たちが口々に声を上げる中、世界樹から再び暖かい思いが流れ出た。
(一つは同化の力。それぞれを補い合う力――)
語りながら、世界樹は天の光と地の霊力を一つにまとめた。言ったとおり残された力を振り絞っていることは明らかで、十一頭は息を呑み、無言でその様を見つめた。
(もう一つは異化の力。己自身を見つめ、高める力――)
世界樹はその形をほどき、集めた力ごと自らを七色の奔流へと変じさせた。
(私のかわいい子たち。仲良く、力を合わせて進むのですよ――いく久しく健やかに――)
最期の言葉が伝わった。奔流は幾筋にも分かれて十一頭の中へと吸い込まれていった。




