第五十五話 思い出すは
ドンチャン騒ぎを終えた俺は、夜中に静かに屋敷の部屋を抜け出し、縁側にて満月を眺めていた。
考えるのはやはり数年前のあの日。
師匠に拾われていなければどうなっていたのだろうか。
そんなこと、考えたくもないし、考えただけで身の毛がよだつ。
恐らく俺はあの醜悪な悪意に晒され続けていただろう。いや、晒されていたことにすら気づかなかったかもしれない。
どちらにしろ、怖ろしいことには変わりは無い。
「なにを、しているのですか?」
少し沈んだ顔をしていたようで、楓が恐る恐る声をかけて来ていた。俺はそのまま振り向かずに口を開く。
「いや、ただ満月を眺めていただけだ。少し、考えたいこともあってな」
「そう、ですか。ならば、私は隣に座ってもいいですよね。ただ眺めていただけならば」
成る程。考え事をしていた、と答えたら遠慮していたわけか。
ただ眺めていただけならば、遠慮する必要はどこにも無い。
「ああ、勿論だ」
返答を聞いた楓はどこか安心したように隣へ腰掛けた。
「どうした?どこか様子が変だな」
純粋に心配しての言葉だったが、意外な言葉が返って来た。
「どうした、じゃありません。弘次郎さんこそどうしたんですか?あんなに哀愁を纏った顔をして」
哀愁、ね。
自分でも沈んだ顔をしているとはわかっていたが、そこまで酷い顔をしていたのか。
「なに、少し師匠と出会った頃を思い出していてな」
「火菜野さんと?」
「ああ。正確には師匠と出会わなかったらどうなっていたか、だな」
「出会わなかったら」
そう楓は反芻した。
「暴力を振るわれ、醜悪な悪意に晒され、きっと晒されたことにすら気づかなかっただろう」
拾われてからやっと気づけたのだから。そう後に続ける。
「私は」
「ん?」
「私は、いつも前を向いている弘次郎さんにそんなことがあったことすら知りませんでした」
俯き、沈んだ声でそう言った。
それは
「それは仕方が無いことだ。言葉にしなければきっと心は伝わらない。もし伝わっていたのならば、俺の口に出せなかった助けてという言葉が、伝わっていたのだから。だからお前もーー」
気にするな。そう先の言葉を紡ぐことができなかった。
俺は、目に涙を一杯に溜めた楓に抱きしめられていた。
「大丈夫です。貴方には、弘次郎さんには、火菜野さんと私がいます。どんなことがあっても、味方ですから」
楓の言葉の一つ一つが、心に暖かくしみていく。
本来ならば抱きしめられた瞬間に突き放していたのだが、何故だか心地よく、満月のもと、静かに抱きしめられるままになっていた。




