第七章_二種類の毒
お袖の書き置きを見つけた翌朝、宅悦は薬研堀にある薬種問屋を訪ねた。
店の主、玄庵は薬草だけでなく、鉱物や異国から渡ってきた薬品にも詳しい男だった。
かつて目を病んだ際、宅悦の施術を受けたことがある。
「顔を腫らし、髪を抜けさせる毒を知りたい」
宅悦が言うと、玄庵は薬研を動かす手を止めた。
「物騒な相談だな」
「毒を作りたいのではありません。
すでに使われた毒の正体を知りたいのです」
宅悦は持参した三つの品を机へ並べた。
一つ目は、民谷家に残されていた血の道の薬。
二つ目は、お岩の部屋から持ち出した小さな鏡。
三つ目は、婚礼の人形に差してあった黒い櫛の欠片だった。
弥吉も立ち会っている。
「まずは薬だ」
玄庵は薬包を開き、指先で粉をつまんだ。
匂いを嗅ぎ、舌の先へわずかに触れさせる。
「当帰、川芎、芍薬。それに桂皮と生姜が入っている。
血の巡りをよくし、身体を温める薬だ」
「毒は?」
「見当たらぬ。少なくとも、人の顔を崩すような物は入っていない」
「本当にただの薬なのか」
弥吉が尋ねた。
「むしろ、血の道にはよく用いられる処方だ。
量もおかしくない。
産後の冷えや眩暈には、効く者もいるだろう」
宅悦は、前にお岩が口にした言葉を思い出した。
――よく効く薬のようです。
あれは思い違いではなかった。
薬は本当に効いていたのだ。
「だが、この処方には一つ特徴がある」
玄庵が続けた。
「飲めば身体が熱くなり、汗が出る。桂皮と生姜が強く利けば、顔や頭にも汗をかく」
「それが狙いだった」
宅悦は呟いた。
「何の狙いだ」
「お岩様は薬を飲んだ後、汗を拭くよう言われました。
乱れた髪も、贈られた櫛でとかすようにと」
「薬で毒を身体へ入れたのではない」
弥吉が気づいた。
「毒へ身体を近づけるために、薬を飲ませたのか」
玄庵は鏡を手に取った。
鏡面の縁には、白く乾いた油の跡が残っている。
宅悦が指で触れた部分だけが薄く拭われていた。
「これをどこで?」
「毒を塗った手拭いと櫛が入っていた箱の底です」
「素手で触れたのか」
「一度だけ」
「指に異変は?」
「しばらく痺れました。
水で洗うと治まりましたが」
玄庵は小刀の先で油を削り、小皿へ落とした。
水を一滴垂らす。
白い粉は溶けず、水面へ油膜のように広がった。
玄庵の表情が変わった。
「斑猫だ」
「はんみょう?」
「虫から採る薬だ。
ごく少量なら腫れ物の治療に使われることもある。
しかし扱いを誤れば、皮膚を焼き、水疱を作る」
「それがお岩様の顔を」
「鏡に残っている量だけでは断定できぬ。
だが、濃くしたものを布へ染み込ませ、汗をかいた皮膚へ繰り返し押し当てれば、顔はひどく腫れるだろう」
玄庵は鏡を机へ戻した。
「汗で皮膚が濡れていれば、なおさら染み込みやすい」
宅悦の中で、お岩の言葉が蘇った。
右手で手拭いを持ち、右の額から頬を何度も拭った。
顔の右側だけが崩れたのは、毒が身体の内側から回ったためではない。
毒の染みた布を、同じ側へ繰り返し当てたからだ。
「では、髪を抜いたのも斑猫か」
弥吉が尋ねた。
「いや」
玄庵は櫛の欠片を嗅いだ。
「これは新しい物だ。毒は付いていない」
「婚礼の仕掛けに使われた人形の櫛です。
お岩様が使った物とは、同じ意匠の別物でしょう」
「本物の櫛が必要だな」
弥吉は立ち上がった。
「伊藤家をもう一度調べる」
◇
伊藤家の捜索は、半日を要した。
喜兵衛とお梅が死んだ今、奉公人たちは主人をかばおうとしなかった。
それでも黒い櫛と白い手拭いは、なかなか見つからなかった。
婚礼の道具。
お梅の衣類。
喜兵衛の書状。
薬を保管していた納戸。
どこを探しても出てこない。
宅悦は、屋敷の匂いを一つずつ確かめていった。
伽羅。
灯油。
血。
焦げた畳。
炊事場へ入ったとき、灰の匂いに混じって、鼻を刺すものを感じた。
「ここです」
竈の隣に、使われていない小さな火鉢があった。
灰は冷えている。
宅悦は火箸を借り、底を探った。
硬い物に当たった。
取り出されたのは、半分焼けた黒い櫛だった。
背には菊の花が彫られている。
歯の半分は焼け落ちていたが、根元の溝に白い物が詰まっていた。
さらに灰の中から、焦げた布の端が見つかった。
白い手拭いの一部だった。
「誰が燃やした」
弥吉が奉公人たちへ尋ねた。
誰も答えない。
しかし、乳母のお槙だけが顔を伏せていた。
「お槙」
弥吉が名を呼んだ。
「この櫛に見覚えがあるな」
「ございません」
「お岩へ見舞いの品を届けたのは、お前だと聞いている」
「薬を届けただけでございます」
「桐箱に手拭いと櫛が入っていたはずだ」
「存じません」
宅悦は、お槙へ近づいた。
彼女の着物から、微かに同じ薬品の匂いがした。
何日も前に扱った物が、爪や帯へ染みついている。
「お槙殿」
宅悦は静かに言った。
「あなたは箱を渡すとき、必ずその手拭いで汗を拭き、櫛で髪をとかすよう、お岩様へ念を押されましたね」
「病の身だしなみを案じただけです」
「それなら、なぜ素手で櫛に触れなかったのです」
お槙の呼吸が乱れた。
「私は見ておりません。
しかし小平が話してくれました。
あなたはお岩様が手を伸ばしたとき、箱を素早く引いたそうです」
「高価な品でしたから」
「今は、その高価な品を焼いて隠そうとなさった」
弥吉が半焼けの櫛を、お槙の前へ突き出した。
「薬を塗ったことを認めぬなら、この櫛をお前の髪に通してみるか」
「おやめください」
お槙は反射的に後ずさった。
その一言で十分だった。
◇
半焼けの櫛と手拭いは、玄庵のもとへ運ばれた。
手拭いの焦げ残りからは、鏡と同じ斑猫の成分が見つかった。
一方、櫛の歯に詰まっていたのは別のものだった。
「石灰と砒石を油で練ったものだ」
玄庵は言った。
「毛を除く薬として、似たものが使われることはある。
だが、これは濃すぎる。
頭皮へ触れれば皮膚を傷め、髪の根を弱らせる」
「二種類の毒を使ったのか」
弥吉が顔をしかめた。
「手拭いには、顔を腫らす毒。櫛には、髪を抜く毒」
「どちらも、すぐ人を殺すためのものではない」
玄庵は答えた。
「命ではなく、容貌を奪うために選ばれている」
宅悦の拳が固くなった。
お岩を殺すだけなら、飲み薬へ毒を入れればよかった。
だが、それでは伊藤家から届いた薬が疑われる。
そこで、本物の薬を使った。
薬を調べても毒は出ない。
薬が効いて身体が温まれば、お岩は汗をかく。
見舞いの品として添えられた手拭いで顔を拭き、櫛で髪を整える。
それは誰もが自然に行う動作だった。
お岩自身の手によって毒へ触れさせれば、仕掛けた者の姿は見えなくなる。
「顔の右側だけが腫れた理由も説明できます」
宅悦が言った。
「お岩様は右手で布を持ち、右の額と頬を繰り返し拭われました。
髪も右の鬢からとかした」
「左側へも使っていれば?」
「顔全体が崩れていたでしょう」
弥吉は二つの毒を見つめた。
「そこまで計算していたのか」
「いいえ」
宅悦は首を振った。
「毒を塗った者にとって、どちら側が崩れるかは問題ではなかったはずです。
女の顔と髪を奪えれば、それでよかった」
人を死なせる毒よりも、残酷な使い方だった。
お岩を醜くし、伊右衛門から離縁を申し渡す。
たとえ生きていたとしても、人前へ出られず、自ら姿を消すだろう。
喜兵衛たちは、そう考えていた。
しかし伊右衛門は、お岩が真相に気づいたため、刀で命まで奪った。
二種類の毒で顔と髪を奪われ、最後には夫の刃で命を奪われたのである。
◇
お槙は、弥吉の前ですべてを話した。
「喜兵衛様に命じられました」
声は震えていた。
「血の道の薬を届け、そのときに手拭いと櫛も渡すようにと」
「毒だと知っていたのか」
「触れてはならぬとだけ聞かされました。
顔が少し腫れ、髪が薄くなれば、伊右衛門様が離縁しやすくなると……」
「少しで済むと思ったのか」
「私に逆らうことなどできませんでした」
「伊右衛門は知っていたか」
お槙はしばらく黙っていた。
「答えろ」
「存じておりました」
「どこまでだ」
「喜兵衛様と伊右衛門様が、薬を渡す前に話しているのを聞きました。
毒を飲み薬へ入れるな、調べられても何も出ぬようにしろと……」
伊右衛門が、何も知らなかったという言い逃れはできなくなった。
「品を渡した後、櫛と手拭いはどうした」
「翌朝、民谷様から渡されました。処分しろと」
「小さな鏡も箱に入っていたな」
「はい」
「なぜだ」
お槙は唇を震わせた。
「あれは……お梅様がお入れになりました」
「お梅が?」
「顔が変わったことを、奥方に見せるためだと」
部屋に重い沈黙が落ちた。
お梅は、毒を調合してはいない。
だが、何が起こるかを知らなかったわけでもない。
崩れた顔を本人へ見せるため、箱の底へ小鏡を忍ばせた。
ところが伊右衛門は、お岩が鏡を見る前に部屋中から鏡を取り去った。
小鏡も箱から落ち、袖の下に隠れたため、最後まで見つからなかった。
「お梅様は、その後、何と?」
「早くお岩様が家を出ればよいと。それだけでございます」
そのお梅も、婚礼の夜に伊右衛門の刀で命を落とした。
自分が崩そうとした顔を亡霊として見せられ、その顔に怯えた男によって斬られたのである。
「因果応報だと言う者もいるだろうな」
弥吉が呟いた。
「ですが、殺されてよい理由にはなりません」
宅悦は答えた。
「お梅様と喜兵衛様を斬った罪は、伊右衛門様のものです。
仕掛けを作った者にも、人を殺させた責任がございます」
「お袖と与茂七か」
「まだ、二人が仕掛けた証はございません」
「書き置きと結び目がある」
「それは、お袖様が姉の遺体を捜している証でしかありません」
宅悦は、簡単に二人を犯人と決めつけることを避けた。
戸板の女を、お岩だと決めつけた者たちと同じ過ちを犯したくなかった。
◇
「もう一つ、申し上げていないことがございます」
お槙が言った。
弥吉が振り返った。
「何だ」
「櫛と手拭いを受け取った夜、民谷家の裏で女を見ました」
「どのような女だ」
「お岩様です」
弥吉の表情が険しくなった。
「お岩は、すでに死んでいた」
「私もそう聞いておりました。ですが、確かに見たのです」
「顔は?」
「編笠で隠しておりました。
けれど、着物も、背丈も、歩き方も、お岩様と同じでした。それに……」
お槙は自分の肩を抱いた。
「私の前で立ち止まり、こう申しました」
――その櫛で、次は誰の髪をとかすのです。
「声もお岩だったのか」
「よく似ておりました。
私は恐ろしくなり、櫛を持ったまま逃げました」
「どちらへ向かった」
「民谷家の裏木戸へ。その後、姿を消しました」
お岩が死んだ夜。
宅悦は、その腕の中で彼女の最期を確かめている。
亡霊でない限り、お岩本人が歩いていたはずはない。
ならば、誰かがお岩の姿を借りていた。
「その女に、連れはおりませんでしたか」
宅悦が尋ねた。
「少し離れたところに、旅姿の男が立っておりました。
顔は見えませんでしたが、腰に刀を差していました」
「男は何か話しましたか」
「女を、こう呼びました」
お槙は記憶を探るように目を閉じた。
「お袖、と」
弥吉が宅悦を見た。
やはり、お岩の亡霊を演じていたのは妹だった。
そして、そのそばには死んだと思われていた夫、与茂七らしき男がいた。
だが、一つの謎が解けても、別の謎は残る。
お袖たちが亡霊を作ったのなら、なぜ戸板の女が別人であることを明らかにしなかったのか。
なぜ、お岩の本当の遺体がどこにあるのかを知らないのか。
宅悦は、二種類の毒が置かれた机へ手を伸ばした。
顔を崩す毒。
髪を奪う毒。
だが、事件にはそれとは別に、二種類の悪意が存在している。
一つは、お岩を殺し、遺体を隠した者の悪意。
もう一つは、お岩の姿を借り、伊右衛門を破滅させようとする者の悪意。
二つは同じ事件に見えながら、まだ一つにつながっていなかった。
「お袖様を捜します」
宅悦は言った。
「亡霊がどのように作られたかではなく、なぜ作られたのかを聞かなければなりません」
その日の夕刻、深川の荒れ寺に女が現れた。
顔を白い布で隠し、腕に赤子を抱いている。
女は本堂の前に黒い櫛を置き、鐘を一度だけ鳴らした。
その音を聞いて、宅悦は立ち上がった。
「お袖様ですね」
女は答えなかった。
代わりに、境内の木立から男の声がした。
「そのとおりだ」
枯れ枝を踏みながら、旅姿の武士が姿を現した。
死んだと伝えられていた佐藤与茂七だった。
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