第六章_見えない探偵
夜が明けても、奥座敷には灯籠の甘い香りが残っていた。
お梅と喜兵衛の遺体は別室へ移され、伊右衛門は納戸へ閉じ込められている。
戸の前には二人の同心が立ち、刀は弥吉が預かっていた。
伊右衛門は、同じ言葉を繰り返していた。
「お岩が殺した」
自分が刀を振るったことは否定しない。
しかし、斬った相手がお梅と喜兵衛だったことを認めようとしなかった。
「お梅の顔が、お岩に変わった。喜兵衛殿の後ろにも立っていた。
あれを見たら、誰でも刀を抜く」
弥吉が何を尋ねても、それ以上の答えは得られなかった。
奥座敷の周囲には、夜のまま番人が置かれていた。
壊された戸。
血の染み。
倒れた膳。
切り裂かれた金屏風。
すべてが残されている。
ただし、亡霊だけが消えていた。
「本当に人が入れる場所はないのだな」
弥吉が浪人たちへ尋ねた。
「ございません」
一人が答えた。
「廊下側には我々がおりました。
庭側にも二人。戸も障子も、すべて内側から閉められていました」
「天井裏は?」
「事件の前後に調べました。
誰もおりません」
「床下は?」
「格子がございます。
子供でも通れません」
弥吉は腕を組み、荒れた座敷を見回した。
「ならば、本当に幽霊が出たとでもいうのか」
「幽霊は出ております」
宅悦が言った。
座敷にいた者たちが、一斉に彼を見た。
「ただし、本物ではございません」
「どういう意味だ」
「人は入っておりません。
入る必要がなかったのです。
お岩様の姿も声も、初めからこの部屋へ仕込まれておりました」
弥吉は疑わしそうに宅悦を見た。
「お前には、影が見えなかったはずだ」
「はい」
「それで、どうして仕掛けだと分かる」
「見えなかったからです」
宅悦は杖をつき、部屋の中央へ進んだ。
「皆様は障子に女の影を見て、それをお岩様だと思われた。
けれど私は、影を見ることができません。
私に分かったのは、天井で糸が擦れる音と、灯籠の油の匂い、そして声が聞こえた方角だけでした」
宅悦は、天井へ顔を向けた。
「影は廊下側の障子に映ったと聞きました。
しかし女の声は、反対の庭から聞こえていました。
人間が声を出しながら立っていたのなら、影と声が別の場所にあるはずがございません」
「誰かが庭から声を出し、別の誰かが影を作ったのではないか」
「それならば二人必要です。
ですが、もっと簡単な方法がございます」
宅悦は庭側の障子へ近づいた。
敷居に指を這わせる。
一か所だけ、木が新しく削られていた。
その奥から、細い竹の先が見つかった。
竹は壁の内側を通り、軒下まで続いている。
「これは……」
弥吉が竹筒を引き出した。
「声を運ぶ管です」
宅悦は答えた。
「庭の物陰からこの管へ話しかければ、声は奥座敷の近くで響きます。
口元を布で覆えば、男でも女に近い声を作ることはできましょう」
弥吉は竹筒の端へ口を当てた。
「聞こえるか」
庭へ回った同心が何かを答えた。
その声は小さいながらも、座敷の中ではっきりと聞こえた。
どこから響いているのか判別しにくい、空洞を通った声だった。
「昨夜は、お岩の声に聞こえた」
浪人の一人が呟いた。
「皆様は、あらかじめお岩様の亡霊が出ると思わされていたのです」
宅悦が言った。
「門に血文字が貼られ、女の髪が置かれ、喜兵衛様の枕元でも声がした。
そのうえで暗闇から女の声を聞けば、お岩様だと思うのは無理もございません」
「だが、声だけではない」
別の浪人が言った。
「障子には、確かに女が映っていた。
長い髪も、曲がった首も、この目で見た」
「その影は、歩いていましたか」
「いや……」
「足は動いていましたか」
浪人は答えられなかった。
「影は高くなり、天井へ消えたと聞きました。
人が歩いたのではなく、上から引き上げられたのでございます」
宅悦は杖の先で天井板の一枚を示した。
「そこを外してください」
同心が梯子を掛け、天井板を持ち上げた。
梁の陰から、黒い布の塊が落ちてきた。
畳の上で広げると、それは人の形をしていた。
黒く長い髪。
白い着物。
首は片側へ傾き、顔の右半分だけが大きく腫れたように作られている。
実物は子供ほどの大きさしかない。
だが、灯籠の火の近くへ吊るせば、障子には人間ほどの大きな影が映る。
「人形か」
弥吉が呟いた。
人形の頭には、細い糸が結ばれていた。
糸は梁を伝い、壁際の小さな通気口へ続いている。
外から引けば、人形を持ち上げることができる仕掛けだった。
「昨夜、私が聞いたのは、この糸が梁を擦る音です」
宅悦は人形の髪へ触れた。
人の髪ではない。
麻糸を黒く染め、油で固めたものだった。
髪の間に、黒い櫛の残りが差し込まれている。
畳へ落ちた欠片とぴたりと合った。
「では、仕掛け人は庭にいたのか」
「庭か、その外でございましょう。
声を出し、糸を引くだけなら、部屋へ入る必要はありません」
「見張りは何をしていた」
弥吉が庭側の浪人を睨んだ。
「庭は見ておりました。
しかし、池の方から女の声がしたため、皆でそちらへ……」
「その間に糸を引いた者がいたのか」
「いえ、池の周囲も探しましたが、誰もおりませんでした」
宅悦は庭へ出た。
池から奥座敷へ続く濡れた足跡が、朝の光の中にも残っている。
彼はしゃがみ込み、最初の足跡へ指を入れた。
次の足跡も触る。
さらに、その次。
「何をしている」
「深さを確かめております」
「深さ?」
「すべて同じです」
人間が歩けば、身体の重心によって足跡の深さは変わる。
踏み出した足の踵は深く、蹴り出した爪先にも土が寄る。
しかし庭に残された足跡は、どれも平らだった。
指の形も、踵の沈み方も、寸分違わない。
「人が歩いた跡ではございません」
宅悦は言った。
「同じ草履を、上から何度も押しつけた跡です」
池のほとりに生えた竹の一本に、泥が付いていた。
先端には草履の鼻緒を結んだ跡がある。
長い竹の先へ濡らした草履を取りつけ、離れた場所から地面へ押し当てたのだ。
池から部屋へ近づく方向にだけ跡をつければ、水から現れた女が戻らずに消えたように見える。
「亡霊の足にしては、少し律儀すぎます」
宅悦が言った。
「一歩ごとに同じ力で歩いております」
弥吉は唸った。
「影も声も足跡も、人の仕業というわけか」
「はい」
「だが、それだけでは人は死なぬ」
「そのために、灯籠がございました」
◇
四つの灯籠は、庭へ運び出された。
宅悦は一つずつ手で確かめた。
菊の模様を描いた木枠。
薄い紙。
油を満たす皿。
芯の上には、小さな金属片が取りつけられている。
「蓋のようだな」
弥吉が金属片を持ち上げた。
「糸を引くと倒れ、芯を覆うようになっております」
「四つの蓋は、一本の糸につながっておりました」
宅悦が説明した。
「外から糸を引けば、ほぼ同時に灯籠を消すことができます」
糸は透明に近く、灯籠の装飾へ紛れ込んでいた。
途中で天井の梁を通り、人形を吊った糸と同じ通気口へ集められている。
仕掛け人は屋外の一か所から、人形を上げ、灯籠を消すことができた。
「では、あの香りは何だ」
弥吉が尋ねた。
宅悦は灯油の入った皿へ顔を近づけた。
「樟脳に似たものと、目を刺激する薬草が混ぜられております。
強く吸えば涙が出て、頭が重くなる。
幻を見せるほどの毒ではございませんが、暗い部屋で物を見るには邪魔になります」
「伊右衛門は、それでお梅をお岩と見誤ったのか」
「それだけではございません」
灯籠の一つから、他より厚い紙が見つかった。
外側の菊模様を剥がすと、その下にもう一枚、極めて薄い絵が貼られていた。
片側の腫れた女の顔。
抜け落ちた髪。
歪んだ口。
お岩の顔を描いたものである。
灯籠の火が普段どおり燃えている間、その絵は菊模様の下に隠れて見えない。
しかし他の三つが消え、この灯籠の芯だけが蓋の隙間から一瞬強く燃えると、薄い絵が金屏風へ投影される。
しかも、その位置は花嫁が座る場所と重なっていた。
「昨夜、お梅様は白無垢を着ておられました」
宅悦は言った。
「白い衣と綿帽子に、この女の顔が重なったのでしょう。
香油で目を痛め、酒を飲み、亡霊を恐れていた伊右衛門様には、お梅様の顔そのものが変わったように見えた」
同心が灯籠へ火を入れ、他の光を遮った。
金屏風に、崩れた女の顔が浮かんだ。
輪郭はぼやけ、炎とともに揺れる。
はっきりとした絵ではない。
だからこそ、人の目は足りない部分を恐怖で補った。
浪人たちが息を呑んだ。
「お岩だ」
誰かが小さく呟いた。
灯籠の火を消すと、女の顔は跡形もなく消えた。
「伊右衛門様の目には、火が消えた後も像が残ったはずです」
宅悦が続けた。
「暗闇の中で、お梅様が近づいた。
白無垢の輪郭に、今見たばかりのお岩様の顔を重ねたのでございましょう」
「喜兵衛殿の後ろに、お岩が立っていたというのは?」
「天井から吊った人形です。すべての灯籠が消える直前、人形が喜兵衛様の後ろへ下ろされた。
伊右衛門様が刀を振り上げたところで、再び引き上げられました」
「しかし、部屋は暗闇だった」
「灯籠は一度に消えたように見えましたが、一つだけ、芯の蓋に小さな穴がございます」
針ほどの穴だった。
そこから漏れる光は、部屋全体を照らすほどではない。
だが、人形の白い顔だけを浮かび上がらせるには十分だった。
「その灯籠は、喜兵衛様の正面に置かれておりました」
宅悦は部屋の位置関係を杖で示した。
「伊右衛門様から見れば、喜兵衛様の肩越しに、お岩様の顔だけが浮かんだように見えたのでしょう」
「それで伊右衛門は、二人を……」
弥吉は金屏風に残る刀傷を見た。
「斬ったのは、間違いなく伊右衛門様です」
宅悦の声には、迷いがなかった。
「亡霊は姿を作り、声を聞かせただけ。
刀を抜き、二人へ振り下ろしたのは伊右衛門様ご自身です」
「だが、仕掛けを作った者は、それを狙っていた」
「はい」
仕掛け人は伊右衛門を直接殺そうとはしなかった。
お岩を殺した男の恐怖と罪悪感を利用し、自分の手で新しい妻と後ろ盾を殺させた。
伊右衛門の心そのものを、凶器に変えたのである。
◇
「大した探偵ぶりだな」
弥吉が言った。
宅悦は首を振った。
「私は探偵ではございません。
ただの按摩です」
「目も見えぬのに、これだけの仕掛けを見破った」
「見えぬから分かったこともございます」
人は目に映ったものを、真実だと思う。
髪の長い女の影を見れば、そこに女が立っていると思う。
お岩の顔を見れば、お岩本人が現れたと思う。
水から続く足跡を見れば、誰かが歩いてきたと思う。
だが宅悦には、どれも見えない。
聞こえた場所。
匂いの違い。
糸が擦れる音。
足跡に触れたときの、土の沈み方。
目に映る形ではなく、それがどのように作られたかを考えるしかなかった。
「残る謎は、誰が仕掛けたかだ」
弥吉は人形を見下ろした。
「屋敷へ灯籠を運び込み、天井へ糸を通し、壁へ竹筒を仕込んだ者がいる」
「一人では難しいでしょう」
「伊藤家の中に、手を貸した者がいると?」
「少なくとも、屋敷の造りをよく知る者が必要です」
弥吉は奉公人を一人ずつ調べるよう命じた。
婚礼の前日に灯籠を受け取った者。
奥座敷を掃除した者。
天井裏を調べた者。
庭の見張りの配置を決めた者。
だが、奉公人たちの証言は食い違っていた。
灯籠を届けたのは若い男だったという者もいれば、頭巾をかぶった女だったという者もいる。
注文したのは喜兵衛だと聞いた者も、お梅本人だと聞いた者もいた。
受取証には、存在しない店の名が書かれていた。
ただ一つ、奇妙な証言があった。
婚礼の二日前、屋敷へ出入りする人々の中に、目の不自由な三味線弾きの女がいたという。
女は祝いの席で演奏したいと申し出たが、喜兵衛に断られた。
その帰り際、奥座敷へ続く廊下で道に迷い、奉公人に連れ戻されたらしい。
「顔を見た者は?」
弥吉が尋ねた。
誰も覚えていなかった。
女は深く編笠をかぶっていた。
ただ、案内した下女が一つだけ思い出した。
「その方から、胡桃の油の匂いがいたしました」
宅悦の指が動いた。
お岩が使っていた髪油と同じ匂いだった。
「お岩か」
浪人の一人が青ざめた。
「死んだ女が屋敷へ入り、仕掛けを作ったのでは――」
「違います」
宅悦は即座に否定した。
「お岩様は、目が見えておりました」
目の不自由な女を装えば、屋敷の中で立ち止まり、壁や柱へ触れても怪しまれにくい。部屋を間違えたふりをして、奥座敷の近くまで行くこともできる。
それを思いついた者は、盲人がどのように歩き、周囲からどう見られるかを知っていた。
そして胡桃油の匂いを知る者でもある。
「心当たりがあるのか」
弥吉が尋ねた。
「まだ、確かなことは申せません」
そう答えながら、宅悦の中には一人の女の姿が浮かんでいた。
姉と同じ家で育ち、同じ油で髪を整えていた女。
お岩の死を悲しみながら、一度も人前で取り乱さなかった女。
お袖。
だが、彼女一人でこの仕掛けを作ることはできない。
人形を吊り、灯籠を細工し、伊藤家の警護をかいくぐるには、腕と知識を持つ協力者が必要だった。
宅悦は、もう一度人形へ触れた。
着物の帯の裏に、小さな結び目がある。
武家の者が旅道具を括るときに使う、独特の結び方だった。
その結び方を、宅悦は以前にも触れたことがある。
お袖の夫、佐藤与茂七の荷に使われていた結び目と同じだった。
与茂七は、すでに死んだと聞いている。
だが、遺体を見た者はいなかった。
宅悦は、帯の結び目を指でなぞった。
お岩の亡霊を作ったのは、死んだ女ではない。
死んだと思われている男と、その妻かもしれない。
その夜、宅悦はお袖の家を訪ねた。
戸口には明かりがなかった。
何度呼んでも返事はない。
戸へ手を掛けると、鍵はかかっていなかった。
中に人の気配はない。
お千代の姿も消えている。
座敷には、胡桃油の匂いが残っていた。
そして文机の上には、黒い櫛が一本置かれていた。
櫛の下に、短い書き置きがある。
宅悦は文字を読むことができない。
紙を懐へ入れ、近くに住む者へ読んでもらった。
書かれていたのは、一行だけだった。
――姉上の遺体を見つけるまで、復讐は終わりません。
お読みいただきありがとうございます。
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