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第五章_亡霊の婚礼

お岩の遺体が見つからぬまま、民谷伊右衛門と伊藤お梅の婚礼の日が決まった。


戸板が隠亡堀から引き上げられて、わずか七日後のことである。


あまりに早すぎると、四谷の者たちは囁いた。


妻を亡くしたばかりの男が、すぐに別の女を迎える。


それだけでも外聞は悪い。


ましてお岩と小平の不義が噂され、戸板の女が本当にお岩なのか疑われ始めている最中だった。


だが、伊藤喜兵衛は婚礼を延期しなかった。


「根も葉もない噂を恐れれば、かえって疚しいところがあると思われる」


喜兵衛は親類たちへ、そう説明した。


「伊右衛門殿は不貞を働いた妻に苦しめられた。

今度こそ、我が孫と穏やかな家庭を築いてもらいたい」


戸板の女が別人であることは、まだ公にはされていない。


岡っ引の弥吉が口止めしていたからである。


しかし、誰が漏らしたのか。


婚礼の三日前、伊藤家の門へ一枚の紙が貼られた。


――偽りの花嫁、血の祝言を待て。


文字は赤黒く、乾いた血で書かれているように見えた。


翌朝には、お梅の部屋の前へ、長い女の髪がひと束置かれていた。


屋敷の門は夜通し閉ざされ、庭には番人がいた。外から忍び込んだ跡はない。


その翌日、今度は喜兵衛の枕元から声がした。


誰もいない暗がりで、女が囁いたという。


「私の顔を返して」


喜兵衛は屋敷中を調べさせた。


天井裏、床下、物置、井戸の中まで探したが、誰も見つからなかった。


「お岩の亡霊だ」


奉公人たちは怯えた。


喜兵衛は、口にした者を屋敷から追い出すと怒鳴った。


だがその日の午後、宅悦が伊藤家へ呼ばれた。


◇


「亡霊など、いるはずがない」


喜兵衛は、宅悦に肩を揉ませながら言った。


「人が仕掛けたことだ。お岩の妹か、それとも小平の身内か。

婚礼を妨げようとしている者がいる」


「でしたら、なぜ私をお呼びになったのです」


「目の見えぬ者は、見える者より耳が利く。

屋敷に潜む者の音を探れ」


「私は按摩でございます。

忍びを見つける技など持ち合わせておりません」


「金は払う」


「お断りすれば?」


喜兵衛の肩が硬くなった。


「お前が戸板の女をお岩ではないと言い出したことは、聞いておる」


「私は、嗅いだ匂いと触れた傷について申しただけです」


「余計なことを嗅ぎ回る鼻は、削ぎ落とされることもある」


脅しの言葉とは裏腹に、喜兵衛の脈は速かった。


亡霊を信じていないと言いながら、老人の身体は恐怖を隠せていない。


「今夜の婚礼にも残れ」


喜兵衛は命じた。


「不審な音がしたら、すぐに知らせるのだ」


「警護なら、腕の立つ者を雇われた方がよろしいかと」


「浪人を八人集めた。

門、庭、廊下に立たせる。

鼠一匹、奥座敷へは近づけぬ」


「それでもご心配なのですね」


喜兵衛は答えなかった。


宅悦は施術を続けながら、部屋の匂いを確かめた。


伽羅の香。


畳。


喜兵衛の着物に染みついた煙草。


その中に、ごく薄い油の匂いがあった。


あの遺体小屋で、鏡の表面から指へ移ったものと似ている。


匂いは、廊下の向こうから漂っていた。


「今夜使う灯籠を、どなたかが運び込んでおりますか」


宅悦が尋ねると、喜兵衛が振り返った。


「なぜ分かる」


「油の匂いがいたします」


「祝いのために新しく誂えた物だ。

庭へ置く」


「普段の灯油とは違うものを?」


「香油を混ぜてあるそうだ。お梅が好んだ」


喜兵衛はそれ以上のことを話さなかった。


だが、宅悦の鼻には、ただ香りを楽しむための油とは思えなかった。


甘い匂いの奥に、目や喉を刺激する何かが混じっていた。


◇


日が暮れると、伊藤家には大勢の客が集まった。


座敷には祝い膳が並べられ、笛と三味線の音が響いた。


お梅は白無垢をまとい、綿帽子の下に嬉しそうな顔を隠していた。


伊右衛門は紋付き姿で、その隣に座っている。


誰の目にも、似合いの夫婦に見えた。


ただ、伊右衛門は酒へほとんど口をつけなかった。


庭で枝が鳴るたびに振り返り、風で灯籠の火が揺れるたび、右手を刀へ近づけた。


「お加減が悪いのですか」


お梅が尋ねた。


「何でもない」


「先ほどから、庭ばかりご覧になっています」


「見てなどおらぬ」


「お岩様のことを考えていらっしゃるのですか」


伊右衛門の杯が止まった。


お梅は不安そうに目を伏せた。


「奉公人たちが話しているのを聞きました。

お岩様の遺体が、まだ見つかっていないと」


「あれは死んだ」


「でも、もし生きていたら――」


「死んだと言っている!」


伊右衛門の声に、座敷が静まった。


喜兵衛が咳払いをした。


「祝いの席だ。

つまらぬ噂を持ち出すでない」


お梅は小さく頭を下げた。


伊右衛門は杯の酒を一息に飲んだ。


そのとき、庭の灯籠が一つ消えた。


風はなかった。


続いて、二つ目の灯籠が消えた。


三つ目。


庭の明かりが、奥から順番に失われていく。


客たちがざわめいた。


「風除けを確かめろ」


喜兵衛が命じ、奉公人が庭へ走った。


最後に残った灯籠の火が、大きく揺れた。


障子へ女の影が映った。


髪の長い女だった。


首を不自然に傾け、片手に櫛のようなものを持っている。


「お岩だ」


誰かが叫んだ。


伊右衛門が立ち上がった。


「誰だ!」


障子を開け放つ。


庭には誰もいなかった。


警護の浪人たちが提灯を掲げ、植え込みの中まで調べた。


しかし足跡も、隠れた者の姿も見つからない。


宅悦は座敷の隅で耳を澄ませていた。


女の影が現れる直前、天井から微かな音が聞こえた。


糸か細い縄が、木の縁を擦るような音だった。


そして今も、梁の上で何かがゆっくりと揺れている。


「誰かが天井裏におります」


宅悦が言った。


浪人二人が天井板を外して上がった。


しばらくして戻ってきたが、誰もいなかったと答えた。


「鼠だ」


喜兵衛は吐き捨てるように言った。


「影も、庭木が揺れただけだ。祝いを続けよ」


だが、三味線を弾く者の手は震え、音は何度も途切れた。


◇


亥の刻を過ぎ、客たちが帰った後も、屋敷の警戒は解かれなかった。


伊右衛門とお梅は、婚礼のために整えられた奥座敷へ移った。


部屋には金屏風が立てられ、中央に夜具が敷かれている。


四隅には、菊の模様を描いた灯籠が置かれていた。


喜兵衛も部屋へ入った。


「念のため、今夜はこの部屋の外に番を置く」


「祖父様まで、亡霊を恐れているのですか」


お梅が笑った。


「馬鹿を申すな。狙っているのは生きた人間だ」


喜兵衛は二人の浪人を廊下へ立たせた。


庭側にも二人。


部屋の戸や障子はすべて閉ざされ、伊右衛門自身が内側から閂を下ろした。


天井裏は、婚礼前に調べさせている。


床下には格子が入り、人が通れる隙間はない。


部屋にいるのは、伊右衛門、お梅、喜兵衛の三人だけだった。


喜兵衛は、最後の固めの杯を見届けたら部屋を出るつもりだった。


廊下では宅悦が壁際に座り、耳を澄ませていた。


喜兵衛から、不審な音を聞き逃すなと命じられている。


「では、二人とも健やかにな」


部屋の中で、喜兵衛が杯を置いた。


「祖父様、長い間ありがとうございました」


お梅が答えた。


「何を申す。明日からも同じ屋敷にいるではないか」


穏やかな笑い声がした。


その直後だった。


天井から、何かが擦れる音がした。


細い糸が引かれている。


先ほどよりも、はっきりと聞こえた。


「上だ!」


宅悦が叫んだ。


同時に、奥座敷の灯籠が一斉に揺れた。


甘い香りが廊下まで流れ出す。


どこかで女が笑った。


低く、湿った声だった。


「伊右衛門様」


お岩の声だった。


少なくとも、伊右衛門にはそう聞こえたらしい。


「どこだ!」


部屋の中で、刀が鞘走る音がした。


「あなた、どうなさったのです」


お梅の声。


「近づくな!」


「私です。

お梅です」


「その顔を見せるな!」


伊右衛門の声は、恐怖に裏返っていた。


廊下に立つ浪人の一人が、障子を指した。


「女だ」


閉ざされた障子に、髪の長い女の影が映っている。


影は天井近くから垂れ下がるように現れた。


首が傾き、片方の顔が大きく腫れている。


しかし、女の声は庭の方から聞こえていた。


「顔を返して」


影は廊下側。


声は庭側。


誰も、その違いに気づかなかった。


宅悦だけが、顔を左右へ動かした。


「影は、どちらに出ております」


「目の前の障子だ」


浪人が答えた。


「声は庭からです。

影と声の場所が違います」


その言葉が終わる前に、部屋の灯籠が消えた。


完全な闇になった。


お梅が悲鳴を上げた。


「あなた、私です!」


「岩!」


「違います、お梅です!」


刀が空を切った。


肉を断つ、鈍い音がした。


一度。


お梅の悲鳴が途切れた。


「伊右衛門、何をする!」


喜兵衛が叫ぶ。


何かが倒れ、膳がひっくり返った。


「後ろだ」


女の声がした。


「喜兵衛の後ろにいる」


「来るな!」


伊右衛門が喚いた。


「岩、来るな!」


「わしだ!喜兵衛だ!」


二度目の斬撃。


今度は、骨に刃が当たる音がした。


喜兵衛が呻き、畳へ倒れた。


部屋の外では、浪人たちが戸を叩いていた。


「開けろ!」


「中で何が起きている!」


返事はない。


戸には内側から閂が下りている。


庭側の障子も開かない。


桟へ棒を通し、内側から留められていた。


天井裏へ上がった者も、部屋へ通じる穴はないと叫んだ。


女の影は、まだ障子へ映っていた。


髪を揺らしながら、ゆっくりと高くなっていく。


まるで天井へ吸い込まれるように。


やがて影は消えた。


その直後、部屋の中から伊右衛門の絶叫が響いた。


「お岩!」


浪人たちは戸へ体当たりした。


一度目では開かない。


二度目で板がひび割れた。


三度目に閂が外れ、戸が内側へ倒れた。


提灯を掲げた男たちが、部屋へ踏み込んだ。


お梅は、金屏風の前に倒れていた。


白無垢は肩口から胸まで赤く染まり、顔には驚きの表情が残っている。


喜兵衛は部屋の中央にうつ伏せになり、背中を深く斬られていた。


そのそばに伊右衛門が立っていた。


抜き身の刀を握り、全身に返り血を浴びている。


「伊右衛門殿」


浪人が声をかけた。


伊右衛門は反応しなかった。


刀の切っ先を、お梅の遺体へ向けている。


「お梅様です」


「違う」


「よくご覧ください」


「違う!」


伊右衛門は後ずさった。


「あれはお岩だ。お梅の顔が、お岩の顔に変わった」


男たちは顔を見合わせた。


「喜兵衛様を斬ったのも、あなたですか」


「喜兵衛殿の後ろに、お岩が立っていた。

私を見て笑っていた」


「しかし、この部屋には三人しかおりません」


「いたのだ!」


伊右衛門が刀を振り上げたため、浪人たちが一斉に取り押さえた。


刀が畳へ落ちた。


宅悦は人々の間を抜け、部屋へ入った。


血の匂い。


倒れた灯油。


焦げた紙。


そして、甘い香り。


それらに混じって、細い糸が焼けたような匂いがした。


宅悦は足元を探った。


畳の上に、透明に近い細糸が落ちていた。絹糸よりも硬く、油が染みている。


糸の先は、消えた灯籠の縁へ結ばれていた。


「触れるな」


弥吉の声がした。


騒ぎを聞きつけ、町方の者とともに駆けつけたのである。


「ここからは俺たちが調べる」


「弥吉親分」


宅悦は細糸から手を離した。


「この部屋へ、誰も出入りしていないのですね」


「戸は内側から閉ざされ、廊下と庭には見張りがいた。

天井にも床下にも、人が通った跡はない」


「では、誰が灯籠を消したのでしょう」


「風ではないのか」


「戸も障子も閉まっております」


宅悦は鼻から息を吸った。


灯籠の油に混ぜられた香りは、嗅ぐほどに頭が重くなる。


目の見える者ならば、涙で視界が滲んだかもしれない。


「この油を調べてください」


「何か入っているのか」


「分かりません。

ただ、祝いの香りをつけるためだけの物ではないようです」


部屋の隅で、伊右衛門が震えていた。


「私ではない」


繰り返し呟いている。


「お岩が二人を殺したのだ」


だが、お梅と喜兵衛を斬った刀は、伊右衛門のものだった。


柄には伊右衛門の手の跡があり、他の者が握った形跡はない。


傷の高さも、刃の向きも、伊右衛門が振るったことを示していた。


亡霊が刀を持ったのではない。


伊右衛門自身が、お梅と喜兵衛を斬ったのである。


では、密室の外から女の影を映し、声を聞かせ、伊右衛門に二人をお岩だと思わせた者は誰なのか。


その者は、どうやって四つの灯籠を同時に消したのか。


宅悦は天井へ顔を向けた。


先ほどまで糸の擦れる音がしていた場所から、今は何も聞こえない。


ただ、梁の上から小さな物が落ち、畳で跳ねた。


拾い上げると、菊の花をかたどった黒い櫛の欠片だった。


お岩が顔を崩した夜に使ったものと、同じ意匠である。


宅悦はその欠片を握った。


「亡霊が入ってきたのではございません」


誰に聞かせるともなく、呟いた。


「亡霊は初めから、この部屋の中に仕込まれていたのです」


そのとき、庭から女の笑い声が聞こえた。


浪人たちが一斉に飛び出した。


提灯の光が植え込みの間を走る。


だが、誰の姿も見つからなかった。


庭に残されていたのは、濡れた女の足跡だけだった。


足跡は池のほとりから始まり、奥座敷へ向かって続いている。


しかし、部屋のすぐ手前で途切れていた。


戻っていく足跡はない。


まるで水から上がった女が、閉ざされた部屋の中へ入り、そのまま消えたかのようだった。

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