第四章_消えた遺体
夜が明けると、民谷家から二人の人間が消えていた。
一人は、死んだお岩。
もう一人は、奉公人の小仏小平だった。
お岩の遺体は、医者の検分が済んだ後、奥の座敷へ運ばれたはずだった。
伊右衛門は夜が明けたら菩提寺へ知らせ、葬いの支度をすると話していた。
ところが翌朝、座敷には血の染みだけが残され、お岩の姿はなかった。
小平の寝床も空になっていた。
布団は乱れ、裏木戸が開いたままになっている。
土間には、小平が日頃履いていた草履が片方だけ残されていた。
伊右衛門は、二人が消えたことを町方へ届けなかった。
代わりに近所の者へ、こう語った。
「小平がお岩の遺体を盗み出した」
誰もが耳を疑った。
「なぜ奉公人が、亡くなった奥方を?」
「二人は以前から通じていたのだ」
伊右衛門は一通の書状を示した。
お岩から小平へ宛てた恋文だという。
そこには、夫への憎しみと、小平への思慕が綴られていた。
伊右衛門から逃れ、二人で暮らしたいとも記されている。
死んだ後も一緒にいたい――。
書状は、そのような言葉で結ばれていた。
お岩が錯乱して命を落としたのも、伊右衛門との暮らしに苦しんだからではなく、密かに関係を持っていた小平との仲を疑われたためだという話へ変わっていった。
「小平は己の罪が露見することを恐れ、お岩の亡骸を持ち去ったのであろう」
伊右衛門は悔しげに唇を噛み、そう説明した。
噂は、その日のうちに四谷の町へ広まった。
生前に夫を裏切った女。
主人の妻に手を出した奉公人。
死後まで離れられぬ、穢れた男女。
お岩が病に苦しんでいたことを知る者はいても、彼女が何を訴え、どのように死んだのかを知る者はいない。
ただ一人を除いて。
◇
「その恋文は、姉上が書いたものではございません」
お袖は民谷家の門前に立ち、伊右衛門を睨んでいた。
腕には、お岩の赤子であるお千代を抱いている。
「姉上の筆跡ではありません。
幼いころから一緒に手習いをしてきた私には分かります」
「身内ゆえ、恥を認めたくないのであろう」
「姉上の遺体を返してください」
「私も捜している」
「嘘です」
お袖の腕の中で、お千代が泣きだした。
伊右衛門は赤子へ一度だけ目を向けたが、父親らしい表情を見せなかった。
「小平は、どこへ行ったのです」
「知らぬ」
「では、裏木戸に残っていた血は誰のものです」
伊右衛門の目が細くなった。
「勝手に家へ入ったのか」
「姉の遺体を捜しただけです」
「二度と敷居をまたぐな」
伊右衛門は門を閉ざそうとした。
お袖は足を差し入れ、それを止めた。
「姉上の死に、あなたが関わっているのでしょう」
「証があるのか」
「宅悦さんが知っています」
門を押す伊右衛門の手が止まった。
「誰が、何を知っていると?」
お袖は答えなかった。
答えられなかった。
お岩が亡くなった夜から、宅悦の姿も見つからなかったのである。
◇
宅悦は、深川の外れにある荒れ寺へ身を隠していた。
伊右衛門に見つかれば殺される。
それでも、江戸から逃げることはできなかった。
懐には、お岩の部屋から持ち出した小さな鏡がある。
鏡面に塗られていた油は布へ移し、竹筒の中へ入れてあった。
それだけでは、伊右衛門がお岩を殺した証にはならない。
お岩の遺体を調べれば、喉の傷から死に方を明らかにできる。
傷の深さと刃の入った向きを見れば、自ら刀へ飛び込んだという説明が嘘だと分かるはずだった。
だが、その遺体が消えた。
お岩の死を知る者たちも、口を閉ざしていた。
検分した医者は、血の道による錯乱と不慮の死だったと証言した。
夜に民谷家へ集まった近所の者は、遺体を遠巻きに見ただけだという。
町方の役人は、夫が妻の死を訴え出ていない以上、わざわざ調べることはないと取り合わなかった。
お岩の死は、最初から存在しなかったかのように扱われていた。
三日目の夜、宅悦は民谷家の裏手へ戻った。
あの夜に聞いた、釘を打つ音が気になっていた。
裏木戸の近くへ身を潜め、耳を澄ます。
屋敷の中からは何の音も聞こえない。
戸へ手を掛けると、鍵はかかっていなかった。
宅悦は杖を使わず、壁へ手を添えて中へ入った。
土間には、血の匂いが残っていた。
お岩のものとは違う。
あの夜に触れた血より新しく、量も多い。
土間の柱を探ると、低い位置に何かが飛び散っている。
指でなぞれば、すでに乾いていた。
そのそばに、細い紐が落ちていた。
小平がいつも腰へ下げていた薬入れの紐だった。
病身の妻へ持ち帰るため、わずかな薬を入れていたものである。
宅悦は床へ膝をついた。
血の跡は、土間から裏庭へ続いていた。
何か重い物を引きずった跡があり、その先には戸板が置かれていたらしい空白がある。
左右に積まれた材木には埃が積もっているのに、一枚分だけ、地面が湿っていた。
宅悦は材木へ触れた。
そのうちの一枚に、真新しい釘穴が幾つも開いている。
表にも、裏にも。
あの夜に聞いた音が蘇った。
一度。
二度。
人の身体を板へ留めるような音。
「小平……」
宅悦が呟いたとき、門の外から車輪の音がした。
荷車が近づいてくる。
宅悦は材木の陰へ身を隠した。
裏木戸が開き、二人の男が入ってきた。
一人は伊右衛門。
もう一人は、嗄れた声をした老人だった。
「確かに、始末したのであろうな」
老人が尋ねた。
「戸板は堀へ沈めた」
「浮かんでは困る」
「石を括りつけた。
しばらくは上がらぬ」
「女の方は?」
「誰にも分からぬようにしてある」
「顔だけでは足りぬぞ」
「喉も隠した」
「もう一人の女は、どこへやった」
宅悦は息を殺した。
もう一人の女。
それは、お岩のことなのか。
「それを知る必要はあるまい」
伊右衛門の声が冷たくなった。
「喜兵衛殿には、約束どおり、お梅殿を迎える支度をしていただきたい」
「分かっておる。
だが、お前がしくじれば、伊藤家まで疑われる」
「死人は何も話さぬ」
「生きている者はどうだ。
目の見えぬ按摩は、まだ見つからぬのか」
宅悦の背中を、冷たい汗が伝った。
「遠くへ逃げたのであろう」
「ならばよいが」
二人は屋敷の中へ入っていった。
宅悦は、しばらく動けなかった。
伊右衛門の言葉が頭から離れない。
女の方は、誰にも分からぬようにしてある。
もう一人の女は、どこへやった。
戸板に打ち付けられた女と、お岩。
それが別人であるかのような話し方だった。
◇
戸板が隠亡堀に浮かんだのは、その翌朝だった。
石を結びつけていた縄が水の中でほどけ、板だけが川底から浮き上がったのである。
表には女。
裏には男。
二人とも太い釘で打ち付けられていた。
顔を潰された女は、お岩。
男は小平。
発見の知らせが広がると、町の者たちは疑うことなくそう決めつけた。
お岩と小平が不義を働いた。
それを知った伊右衛門が二人を斬り、戸板へ打ち付けて流した。
あるいは小平が死んだお岩を盗み、自らも何者かに殺された。
話す者によって筋は変わったが、二人が道ならぬ仲だったという部分だけは同じだった。
噂には、恋文という証がある。
一枚の戸板の表と裏へ重ねられた姿は、何より雄弁に二人の関係を物語っているように見えた。
戸板が引き上げられたとき、宅悦も堀端にいた。
岡っ引の弥吉に、お岩の遺体か確かめるよう命じられた。
髪油の匂いが違っていた。
お岩が使っていた胡桃の油ではなく、椿油に伽羅を混ぜた、値の張る香りだった。
それでも宅悦は、
「お岩様に、間違いございません」
と答えた。
伊右衛門が近くで見張っていることに気づいたからだ。
戸板は役人の手によって運ばれていった。
宅悦は一度その場を離れ、お袖の家へ向かった。
お袖は戸板が見つかったことを、すでに知っていた。
「姉上なのでしょうか」
「違うかもしれません」
「なぜ、そう思うのです」
「髪の匂いが違いました。
それに伊右衛門様は、もう一人の女と申していた」
宅悦は、民谷家で聞いた会話を話した。
お袖は眠っているお千代を見下ろした。
「確かめる方法がございます」
「何か、お心当たりが?」
「姉上には、傷痕がありました」
お千代を産んだとき、お岩はひどい難産だった。
胎児の向きを直すために産婆が処置を施し、その際、左の下腹に小さな刃傷を負った。
命に関わるほどではなかったが、傷は三日月のような痕となって残った。
「その傷を知っているのは?」
「私と、産婆だけです」
お袖は立ち上がった。
「遺体が焼かれる前に、確かめます」
◇
二人は弥吉を訪ねた。
最初、弥吉は聞く耳を持たなかった。
「女の死骸はひどく傷んでいる。
身内でも見ない方がよい」
「だからこそ、姉かどうかを確かめたいのです」
「宅悦は、間違いないと言ったではないか」
「あの場では、そう言うしかなかったのです」
宅悦は声を低くした。
「伊右衛門様が近くにおりました。
私が違うと答えれば、次に戸板へ打ち付けられるのは私です」
弥吉は顔をしかめた。
「大層なことを申すな」
「女の髪油は、お岩様が使っていたものと違います」
「死骸に別の油が付くこともあろう」
「喉の傷を調べてください」
「なぜだ」
「お岩様は、そこを刀で貫かれて亡くなりました。
しかし戸板の女に同じ傷がなければ、別人です」
弥吉は黙った。
お岩は錯乱して刀へ飛び込んだと、医者から聞いている。
その話が正しければ、喉には必ず深い傷が残っているはずだった。
二人は、遺体を一時的に収めた小屋へ通された。
弥吉のほかに、女の遺体を改めるための老女が立ち会った。
お袖は、戸板に近づいた。
女の顔は、まともに見ることができないほど潰されていた。
片側が腫れているようにも見えたが、それが病によるものか、死後につけられた傷なのかも分からない。
お袖は震える手で、女の髪へ触れた。
「姉上の髪ではありません」
「見ただけで分かるのか」
弥吉が尋ねた。
「姉上は、薬を使った後に髪が抜けました。
右の鬢は、地肌が見えるほどだったはずです」
戸板の女には、左右とも長い髪が残っていた。
老女が着物の前を開き、下腹を確かめた。
三日月形の傷はなかった。
「ありません」
お袖が呟いた。
「姉上ではございません」
さらに首元を改める。
喉の皮膚は、腐敗によって変色している。
しかし刃が深く刺さった痕はない。
代わりに後頭部には、硬い物で殴られたような陥没があった。
この女は、お岩とは違う方法で殺されている。
弥吉の表情から、疑いが消えた。
「では、この女は誰だ」
誰も答えられなかった。
着物はお岩のものだった。
髪には別人の油。
顔は身元を隠すために潰され、出産時の傷も、喉を貫いた刀傷もない。
戸板の表にいるのは、お岩ではない。
では、あの夜、宅悦の腕の中で息を引き取った女は、どこへ消えたのか。
「小平の方も調べてください」
宅悦が言った。
戸板が裏返された。
男の身体は、女より傷みが少なかった。
胸に深い刺し傷があり、それが致命傷と見られた。
小平が腰へ下げていた薬入れはなくなっていたが、左手の中指に古い火傷の痕があった。
以前、薬を煎じているときに負ったものだと、宅悦は本人から聞いたことがある。
男の方は、小平で間違いなかった。
同じ戸板に打ち付けられながら、一方は本物で、一方は別人。
小平と見知らぬ女を組み合わせ、二人が不義を働いたように見せかけた者がいる。
「このことは、まだ他言するな」
弥吉が言った。
「なぜです」
お袖が詰め寄った。
「女の身元が分からぬうちに騒げば、下手人も逃げる。
それに、伊藤家が関わっているとなれば、こちらも軽々しくは動けん」
「その間に、姉上の遺体が処分されます」
「すでに処分されているかもしれぬ」
あまりに無情な言葉だった。
お袖の顔から血の気が引いた。
宅悦は、戸板の女のそばへ膝をついた。
誰かも分からぬまま殺され、顔を潰され、他人の名を押しつけられた女。
お岩ではないと判明しても、この女が救われるわけではない。
「弥吉親分」
宅悦は言った。
「この女にも名前がございました。
家族も、暮らしもあったはずです」
「分かっている」
「小平にも妻がおります。
病の妻へ薬を持ち帰ろうとしていただけの男です。
それが今では、主人の妻を奪った間男にされている」
「分かっていると言っている」
「いいえ。まだ誰も分かっておりません」
宅悦は戸板へ手を置いた。
「これは二人の遺体を捨てるためだけのものではございません。
死んだ者から名前を奪い、別の罪を着せるために作られたものです」
一枚の板の表と裏。
それは二人が愛し合っていた証ではない。
二つの死を、一つの嘘で結びつけるための道具だった。
小屋の外で、風が鳴った。
どこからか、水の滴る音が聞こえる。
宅悦は耳を澄ませた。
ぽたり。
ぽたり。
戸板の女の髪から落ちる水とは、違う方向だった。
小屋の隅にある暗がりから聞こえてくる。
その音に重なるように、何か硬い物が床を擦った。
女が櫛で髪をとかすような音だった。
お袖が、宅悦の袖をつかんだ。
「今の音は……」
目の見えるお袖にも聞こえていた。
三人が振り向いた先には、誰もいない。
ただ、壁に立てかけられた古い鏡だけが、薄暗い小屋の中を映していた。
鏡の表面を、一筋の水が流れ落ちた。
まるで、見えない女が鏡の前に立ち、濡れた髪をとかしているかのように。
宅悦は懐の小さな鏡へ手を当てた。
冷たいはずの鏡が、人肌のように温かくなっていた。
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