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第三章_鏡のない部屋

お岩が目を覚ましたとき、部屋から鏡が消えていた。


鏡台そのものは、枕元から三歩ほど離れた場所にある。


しかし、そこに掛けられていたはずの白い布も、その奥にあった鏡もなくなっていた。


障子は閉ざされ、雨戸まで下ろされている。


昼なのか夜なのかも分からない。


部屋に光を入れるものも、自分の姿を映すものも、すべて取り払われていた。


お岩は右手を頬へ伸ばした。


指先が触れたのは、自分のものとは思えない皮膚だった。


熱を持ち、ぶよぶよと腫れ、ところどころが硬く引きつっている。


右の瞼は重く垂れ下がり、開こうとしても半分ほどしか開かなかった。


髪へ触れると、何本もの毛が指に絡みついた。


引いてもいないのに、抜けてくる。


「伊右衛門様」


声を出すと、喉が焼けるように痛んだ。


返事はなかった。


隣の部屋にいるはずの赤子の泣き声も聞こえない。


「お千代……」


お岩は起き上がろうとした。


だが、身体に力が入らない。


畳へ手をついた途端、視界が揺れ、胃の奥から苦いものが込み上げてきた。


枕元には水の入った椀が置かれていた。


手を伸ばした拍子に袖が触れ、椀が倒れた。


水が畳へ広がる。


その水面に、自分の顔らしきものが映った。


お岩は息を呑んだ。


波紋に揺れてはっきりとは見えない。


それでも、顔の右側だけが異様に膨れ、目の位置さえ変わっているのが分かった。


お岩は手のひらで水をかき消した。


「誰か……」


這うようにして障子へ近づいた。


引き手へ指を掛ける。


開かない。


外側から、つっかい棒がされていた。


「誰か、開けてください」


返事はない。


お岩は何度も障子を叩いた。


「お千代はどこです。

あの子を返してください」


やがて、廊下の向こうから足音が近づいてきた。


つっかい棒の外される音がして、障子がわずかに開く。


入ってきたのは伊右衛門だった。


片手に膳を持っている。粥と水、そして昨日と同じ薬が載せられていた。


「目が覚めたか」


「お千代は?」


「お袖のところへ預けた」


「なぜ、そのようなことを」


「今のお前に赤子の世話ができるのか」


伊右衛門は膳を置き、お岩の顔を見ないまま障子を閉めた。


「身体が治れば戻してやる」


「鏡はどこです」


「鏡?」


「この部屋の鏡です」


「割れたので捨てた」


「水桶も、手鏡もございません。

台所の磨いた鍋までなくなっています」


伊右衛門は面倒そうに息を吐いた。


「病人が余計なことを気にするな」


「私の顔は、どうなっているのです」


「薬のために少し腫れただけだ」


「少し?」


お岩は、右頬へ手を当てた。


「でしたら、私の顔を見てお答えください」


伊右衛門は顔を上げた。


一瞬だけ、その目がお岩の右側へ向いた。


すぐに逸らされたが、お岩は見逃さなかった。


そこにあったのは心配でも憐れみでもない。


嫌悪だった。


「私の顔をご覧ください」


「騒ぐな」


「こちらを見て」


「騒ぐなと言っている!」


伊右衛門の手が動いた。


お岩の左頬が鳴った。


身体が傾き、畳へ倒れる。


頬を打たれた痛みより、夫が腫れていない側を選んで叩いたことの方が、お岩には恐ろしかった。


伊右衛門は、右側へ触れればどうなるのか知っていた。


「薬を飲め」


伊右衛門は低く言った。


「伊藤家の御厚意を無駄にするな」


「伊藤家……」


「飲み終えるまで、ここから出るな」


伊右衛門は部屋を出て、再び外から障子を閉ざした。


足音が遠ざかる。


お岩は畳へ倒れたまま、膳の上の薬を見つめた。


昨日と同じ包みだった。


だが、昨日使った白い手拭いと黒い櫛は、どこにもなかった。


◇


その日の夕刻、宅悦は再び民谷家へ呼ばれた。


迎えに来たのは小仏小平だった。


小平は以前から民谷家に仕える奉公人だったが、近ごろは病身の妻のため、伊右衛門の薬箱から薬を持ち出したと疑われていた。


「お岩様のお加減が、急に悪くなりまして」


道すがら、小平は声を潜めた。


「顔がひどく腫れ、髪まで抜けたそうです」


「医者は診たのか」


「旦那様が、誰も部屋へ入れるなと」


宅悦は杖を止めた。


「では、なぜ私を呼んだ」


「それが、私にも……」


民谷家に着くと、伊右衛門は土間で待っていた。


「小平、お前は下がれ」


「しかし――」


「聞こえなかったか」


小平が奥へ消えると、伊右衛門は宅悦を座敷へ通した。


酒の匂いがした。


まだ日は暮れきっていない。


伊右衛門はすでに何杯も飲んでいるらしかった。


「宅悦。お前に頼みがある」


「お岩様を診ればよろしいので?」


「診る必要はない。

あれに、この家を出ていくよう言い聞かせろ」


宅悦は眉をひそめた。


「病の奥方様を追い出されるので?」


「お岩は妻としての役目を果たせぬ。

家事もできず、子の世話もできず、亭主の顔を見れば恨み言ばかりだ」


「それでも、病人でございます」


「だからこそだ。

私から離縁を言い渡せば、世間がうるさい。

お岩の方から他の男へ心を移したことにすれば、誰も文句は言うまい」


伊右衛門の声に、笑いが混じった。


宅悦は、その言葉の意味を悟った。


「私に、お岩様を口説けと?」


「形だけでよい。

お前がお岩に言い寄り、あれが受け入れたところを私が押さえる」


「目の見えぬ按摩なら、奥方様も油断するとお考えですか」


「随分と話が早いではないか」


畳の上を、何かが滑った。


宅悦の膝へ、小判が一枚触れた。


「成功すれば、もう一枚やる」


「お断りいたします」


「ならば、左門殿の夜の話を町方にするか」


宅悦は息を止めた。


「お前は、左門殿と私の話を盗み聞きしていた。

あの夜、裏木戸を出たのも見られている。

左門殿の死に関わったと疑われても、仕方あるまい」


「私を脅されるのですか」


「頼んでいるのだ」


伊右衛門は小判を拾い、宅悦の手へ握らせた。


「お岩は鏡のない部屋にいる。

お前には、鏡など初めから必要ないだろう」


◇


宅悦が部屋へ入ると、お岩はすぐに彼だと気づいた。


杖が敷居に触れる音を知っていたからだ。


「宅悦さん」


声はひどく弱っていた。


「お加減を見に参りました」


「ここを開けてください」


「今、開いております」


お岩は這うように近づき、宅悦の袖をつかんだ。


「私を外へ連れ出してください。

お千代のところへ行かなければ」


「お袖様のお宅にいらっしゃるそうです」


「あの子は無事なのですね」


「はい」


お岩の指から力が抜けた。


宅悦は、彼女のそばへ膝をついた。


部屋には薬草の匂いが満ちている。


だが、その中に別の匂いがあった。


薬ではない。


皮膚を焼くような、わずかに鼻を刺す匂い。


それはお岩の右頬と髪から漂っていた。


「昨日お使いになった手拭いと櫛は、どちらに?」


「なくなっています」


「薬を飲む前から、お顔に異変がございましたか」


「いいえ。薬を飲み、汗を拭いて、髪をとかした後です」


「手拭いは、どちらの手で?」


「右手です」


「どの辺りを拭かれました」


「右の額から、頬を……何度も」


宅悦は黙り込んだ。


「宅悦さん」


「はい」


「薬に、毒が入っていたのでしょうか」


「分かりません」


そう答えながら、宅悦は別のことを考えていた。


もし飲み薬が毒ならば、顔の片側だけが腫れるのは不自然だった。


身体の内側から回った毒が、右の頬と右の髪だけを選ぶはずがない。


「私の顔は、どのようになっていますか」


宅悦には答えられなかった。


「皆、隠すのです。

伊右衛門様も、私の顔を見ようとしません。

鏡まで取り上げられました」


「私は目が見えません」


「だからこそ、嘘をつかずに触れて確かめてください」


お岩は宅悦の手を取り、自分の頬へ導いた。


左側の皮膚は痩せているものの、以前と変わらない。


指が鼻筋を越え、右側へ触れた。


そこだけが熱を持っていた。


瞼は腫れ、頬の皮膚は引きつり、こめかみの髪は根元から抜け落ちている。


爪の先ほどの硬い水疱が、耳の下まで連なっていた。


宅悦は思わず手を引いた。


「ひどいのですね」


「お岩様……」


「教えてください」


お岩の声は静かだった。


「私は、もう人前へ出られぬ顔なのでしょうか」


宅悦は唇を噛んだ。


伊右衛門に言われたとおり、お岩を欺くことなどできなかった。


それどころか、これまで隠してきたことのすべてが、急に耐え難い重さとなって胸へ迫った。


「お岩様。お詫びしなければならないことがございます」


「何をです」


「左門様が亡くなられた夜、私は話を聞いておりました」


お岩の呼吸が止まった。


「左門様は、伊右衛門様の横領を記した帳面を、翌朝、勘定方へ届けると申されました。

江戸から逃げるなら追わぬとも」


「なぜ、それを黙っていたのです」


「お岩様まで危険な目に遭うと思いました」


「では、父上を殺したのは――」


「証はございません」


「伊右衛門様なのでしょう?」


宅悦は答えなかった。


その沈黙が、何より明瞭な返事になった。


「もう一つございます」


宅悦は続けた。


「伊右衛門様は、伊藤喜兵衛殿の孫娘と祝言を挙げるつもりです。

そのため、お岩様の方からこの家を出たように見せようとなさっています」


お岩の手が震えた。


「では、この顔も」


「伊藤家から届いた品に、何か細工があったのかもしれません」


しばらく、何の音もしなかった。


泣き声さえ聞こえないことが、宅悦にはかえって恐ろしく思えた。


やがて、お岩は立ち上がった。


畳へ手をつき、柱につかまりながら、それでも自分の足で立った。


「どちらへ」


「伊藤家へ参ります」


「そのお身体では無理です」


「喜兵衛殿に、この薬がどのような物だったのか尋ねます。

お梅という娘にも、自分が何をしたのか聞かなければなりません」


「今出れば、伊右衛門様に――」


「父上は、真実を明らかにしようとして殺されました」


お岩の声には、もう迷いがなかった。


「私まで黙れば、父上は二度殺されたことになります」


お岩は壁を伝い、出口へ向かった。


宅悦は止めようと腕を伸ばした。


そのとき、廊下から丁子油の匂いが流れ込んできた。


「どこへ行くつもりだ」


伊右衛門が敷居の前に立っていた。


◇


「伊藤家へ参ります」


お岩は答えた。


「そこをお退きください」


「寝言は寝て申せ」


「薬に細工をしたのは、伊藤喜兵衛殿ですか。

それとも、お梅という方ですか」


伊右衛門の気配が変わった。


「誰から聞いた」


「父上を殺したのも、あなたなのですね」


「宅悦」


低い声が、部屋の空気を震わせた。


「余計なことを話したようだな」


「伊右衛門様、もうおやめください」


「盲人風情が、私に意見するのか」


刀の鯉口が切られる音がした。


宅悦には、その小さな金属音が雷のように聞こえた。


「その刀をお納めください」


「お前は何も聞かなかった。

何も知らなかった。

それで済む話だ」


「父上も、そうして口を塞いだのですか」


お岩が一歩、前へ出た。


伊右衛門の声が近づく。


「醜い顔で、私の前に立つな」


「この顔にしたのは、あなたでしょう」


「もともと病で崩れた顔だ」


「でしたら、なぜ鏡を隠したのです」


お岩はさらに進んだ。


「なぜ、お千代を遠ざけたのです。

なぜ伊藤家の娘と祝言を挙げるのです」


「黙れ」


「私は黙りません」


お岩は伊右衛門の横を抜けようとした。


衣擦れの音。


伊右衛門が腕をつかむ音。


お岩が振り払う。


そして、刀が鞘から抜かれた。


「お岩様!」


宅悦は立ち上がろうとした。


だが、何かに肩を突かれ、畳へ倒された。


「動くな」


伊右衛門の声だった。


次に聞こえたのは、お岩の短い息だった。


悲鳴ではない。


胸の中にあった空気を、突然すべて押し出されたような音。


続いて、畳へ膝をつく音がした。


刀の切っ先が床板を擦った。


「伊右……衛門……様」


お岩の声は、喉の奥で泡立っていた。


何かが倒れた。


宅悦は這って音のした方へ進んだ。


手のひらが、温かい液体に触れた。


血だった。


「お岩様」


肩に触れる。


お岩は右脇を下にして倒れていた。


頭は部屋の奥、足は出口へ向いている。


首筋を探ると、喉の左側に深い傷があった。


傷口から流れた血が、襟元を満たしている。


すぐそばに刀が落ちていた。


刃は、お岩の身体とは逆に、切っ先を出口側へ向けている。


お岩が出口へ走り、自ら刀に飛び込んだのなら、この向きにはならない。


伊右衛門がお岩の背後から髪をつかみ、振り向いた喉へ刃を押し込まなければ。


宅悦の腕の中で、お岩の身体が一度だけ震えた。


「お千代を……」


「お岩様」


「あの子を……お願い……」


それきり、息は続かなかった。


部屋の中から、すべての音が消えた。


宅悦はお岩を抱いたまま動けなかった。


手のひらへ流れてくる血だけが、まだ彼女が生きているかのように温かかった。


やがて伊右衛門が刀を拾い上げた。


懐紙で柄を拭く音がする。


「錯乱した」


伊右衛門が呟いた。


「何と?」


「お岩は薬で心を乱し、私の刀を奪おうとした。

止めようとしたところ、自ら刃へ飛び込んだ」


「そのような向きではございません」


「何が分かる」


伊右衛門は宅悦の手首を踏みつけた。


「目の見えぬお前に、何が分かるというのだ」


「音が聞こえました。

お岩様が倒れた向きも、刀の向きも、この手で――」


手首にかかる力が強くなった。


「ならば、お前もここで死ぬか」


宅悦は歯を食いしばった。


「左門を殺したのも、お岩の顔を崩したのも、私だと町方へ申してみろ。

証はどこにある」


伊右衛門の声は、不思議なほど静かだった。


「ここにあるのは、死んだ女と、血にまみれてその身体を抱く男だけだ。

お前がお岩に言い寄り、拒まれて殺したと言われたら、誰が盲目の按摩を信じる」


宅悦の手首から足が離れた。


「小平!」


伊右衛門が呼ぶと、廊下の遠くで返事がした。


「医者を呼べ。

それから、お岩が錯乱して刀へ飛び込んだと町方へ知らせろ」


小平は部屋へ入るなり、息を呑んだ。


「奥方様……」


「早く行け」


小平の足音が遠ざかる。


伊右衛門も部屋を出ていった。


外から障子が閉じられた。


宅悦は、死んだお岩とともに、再び鏡のない部屋へ残された。


◇


どれほど時が過ぎたのか。


宅悦は、お岩の身体を畳へ静かに横たえた。


そのとき、袖の下で硬い物に触れた。


手探りで拾い上げる。


小さな丸い鏡だった。


部屋から取り払われたはずの手鏡とは違う。


掌に収まるほど小さく、縁に菊の細工が施されている。


伊藤家から届いた桐箱の底に、隠されていたものらしい。


なぜ、このような物が入っていたのか。


お岩に崩れた顔を見せ、絶望させるためだったのか。


それとも、細工をした者の中に、せめて真実を知らせようとした者がいたのか。


宅悦には分からなかった。


彼には鏡を見ることができない。


だが、鏡面へ触れた指先に、ぬるりとしたものが付いた。


血ではなかった。


薬とも違う、鼻を刺す匂いの油だった。


手拭いや櫛に塗られていたものと同じかもしれない。


宅悦は手鏡を懐へしまった。


これだけは伊右衛門に渡してはならない。


やがて表から人々の声が聞こえた。


伊右衛門は彼らに向かい、何度も同じ説明をした。


妻は血の道を病み、顔が崩れたことで心を乱した。


鏡に映った自分の姿を見て錯乱した。


そして、自ら刀に飛び込んだ――。


誰も、その部屋に鏡が一枚もなかったことを尋ねなかった。


誰も、お岩がどの向きに倒れていたかを確かめなかった。


誰も、刀の切っ先がどちらを向いていたかを見ていなかった。


見ていた者は、ただ一人。


その男には、目がなかった。


夜になって、お岩の遺体は部屋から運び出された。


宅悦も家を追い出された。


門が閉ざされる直前、彼は屋敷の奥から釘を打つ音を聞いた。


一度。


二度。


人の身体を、厚い板へ留めるような、鈍く重い音だった。


宅悦は門前に立ち尽くした。


懐の鏡が、妙に冷たかった。


目の見えない彼だけが、この家から鏡を持ち出した。


そして鏡のない部屋には、お岩の血の跡だけが残された。

お読みいただきありがとうございます。

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