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第二章_血の道の妙薬

四谷左門の初七日が過ぎるころには、父を殺した下手人について語る者はほとんどいなくなっていた。


夜道で斬られた浪人など、江戸では珍しくもない。


金は奪われず、遺恨の心当たりもない。町方はそう記録し、幾人かの博徒や無宿人を調べただけで、やがて別の事件へ移っていった。


ただ一人、民谷伊右衛門だけは、左門の敵を捜し続けているように見えた。


昼は町方に話を聞き、夜になれば怪しい者を追って四谷や深川を歩く。その熱心な姿は近所でも評判になった。


「あれほど義父思いの婿も珍しい」


「左門殿は、伊右衛門を誤解していたのではないか」


そんな声がお岩の耳にも届いた。


父の死から十日後、伊右衛門は一人の男を斬った。


男は庄三郎と名乗る浪人で、左門を襲ったことを認めたという。


伊右衛門が問い詰めると刀を抜いたため、その場で斬り捨てた――そう伊右衛門は説明した。


庄三郎の懐からは、左門が持ち出したものとよく似た風呂敷が見つかった。


だが、中に帳面は入っていなかった。


「金になると思って盗んだが、ただの古帳面だったので捨てたそうだ」


伊右衛門は、父の位牌の前でお岩に告げた。


「どこへ捨てたのです」


「聞き出す前に死んだ」


「では、その男が父上を殺したという証は?」


「本人が認めた」


「それを聞いたのは、あなた様だけなのでしょう」


伊右衛門の眉が動いた。


位牌の前には線香の煙が細く立ち昇っている。


その向こうで、父がこちらを見ているような気がした。


何があっても、伊右衛門を信じるな。


最後の言葉は、お岩の胸から消えていなかった。


「私を疑っているのか」


「父上を斬ったのが誰なのか、知りたいだけです」


「敵は討った。それでは足りぬと申すか」


「帳面は、どこにあるのでしょう」


伊右衛門の手が畳を打った。


線香立てが揺れ、灰がこぼれた。


「まだ帳面などと申すか。

左門殿は死ぬ間際まで私を盗人と疑った。

お前まで同じ目で私を見るのか」


奥の部屋から、赤子の泣き声が聞こえた。


お岩は反射的に立ち上がろうとしたが、産後から続いていた眩暈に襲われ、その場へ手をついた。


伊右衛門が腕を伸ばした。


しかし、その手はお岩に触れる寸前で止まった。


「その身体では、ここで暮らし続けることもできまい」


怒りを消した声で、伊右衛門は言った。


「私の家へ戻れ。

子には父親が要る」


「けれど――」


「左門殿の敵を討った私が、まだ信用できぬか」


お岩は答えられなかった。


父を失い、幼い子を抱え、お袖にも頼り続けている。父が残した金は多くない。


何より、左門殺しの下手人を自ら討った伊右衛門を拒めば、世間はお岩を恩知らずの妻と見るだろう。


数日後、お岩は民谷の家へ戻った。


◇


夫婦の暮らしは、初めのうちこそ穏やかだった。


伊右衛門は酒を控え、赤子が泣けばあやし、外出するときには行き先を告げた。


お岩の身体を案じて、台所へ立つことさえ止める日もあった。


だが、その優しさは長く続かなかった。


一月もすると帰りは遅くなり、懐には見覚えのない金が入るようになった。


着物には、甘い香の匂いが残っていた。


「どちらへ行っていらしたのです」


「用向きだ」


「毎夜でございますか」


「男には外の付き合いがある。

家に籠もっている女には分からぬ」


お岩が黙ると、伊右衛門は舌打ちした。


「陰気な顔をするな。疲れて帰った家でまで、死人のような顔を見せられてはたまらん」


その夜から、伊右衛門はお岩と同じ部屋で眠らなくなった。


お岩の産後の肥立ちは、ますます悪くなった。


急に身体が熱くなり、汗が噴き出す。かと思えば、真夏でも歯が鳴るほど寒くなる。


乳の出も悪く、赤子の泣き声を聞くだけで胸が締めつけられた。


世間では、産後に起こるそのような不調を「血の道」と呼んだ。


血の巡りが乱れ、身体ばかりか心まで病むのだという。


ある昼下がり、宅悦が民谷の家を訪れた。


呼んだのは伊右衛門だった。


「女房がいつまでも寝ついている。

揉めば少しはよくなるだろう」


宅悦は、お岩の腕へ指を置いた。


脈が速い。呼吸は浅く、手首はひどく痩せていた。


「よく、お休みになれますか」


「夜中に何度も目が覚めます」


「食は?」


「匂いを嗅ぐだけで、胸が悪くなることがございます」


「血の道であろう」


伊右衛門が背後から言った。


「薬を飲ませても治らぬ。

気の持ちようではないのか」


「気持ちだけで片づけてよいものではございません」


宅悦は静かに答えた。


「産後は、命を落とす方もおります。

しばらく静かに養生なさることです」


「これ以上、どう静かにしろというのだ。

家事もろくにせず、一日中横になっている」


伊右衛門の声が遠ざかり、乱暴に戸が閉められた。


お岩は唇を噛んだ。


「申し訳ございません」


「なぜ、お岩様がお詫びになるのです」


「私が丈夫であれば、あの方も苛立たずに済むのです」


宅悦は返す言葉を失った。


しばらくして、お岩が小さな声で尋ねた。


「宅悦さん。父上が亡くなられた夜、こちらへいらしていましたね」


宅悦の指が止まった。


「はい」


「父上と伊右衛門様は、何を話していたのです」


「私はすぐに帰されましたので」


「何も聞いていないのですか」


宅悦の耳には、あの夜の会話が残っていた。


帳面は手元にある。


明日の朝、勘定方へ渡す。


それまでに江戸を離れろ――。


ここで真実を話せば、お岩は伊右衛門を問い詰めるだろう。


証もないまま疑いを露わにすれば、次に狙われるのはお岩かもしれない。


宅悦は、それを恐れた。


「左門様は、伊右衛門様にお岩様を連れて帰るなと申しておりました。

それだけでございます」


「それだけ……」


「はい」


沈黙の中、柱時計の音だけが響いた。


宅悦は再び、お岩の腕を揉み始めた。


守るためについた嘘だと、自分に言い聞かせた。


だが、嘘は一度口から出れば、それをついた者の思いとは別の場所へ歩き始める。


◇


伊右衛門が毎夜通っていたのは、伊藤喜兵衛の屋敷だった。


喜兵衛はかつて御先手組に名を連ねた家柄の者で、今も町方や勘定方に顔が利いた。


左門殺しの詮議が早々に打ち切られた裏にも、この老人の働きかけがあった。


その孫娘、お梅が伊右衛門を見初めていた。


「本当に奥方と別れてくださるのですね」


庭に面した座敷で、お梅は伊右衛門に尋ねた。


まだ若く、顔立ちは愛らしい。男に拒まれた経験がないため、その声には願いよりも確認の響きがあった。


「急いてはなりませぬ」


伊右衛門は杯を置いた。


「お岩には父が死んだばかりという事情がございます。

今すぐ離縁すれば、私が薄情者と言われましょう」


「では、いつまで待てばよいのです」


「女房の方から家を出ていけば、誰にも後ろ指をさされずに済みます」


お梅は不満げに唇を尖らせた。


喜兵衛は二人の向かいに座り、黙って煙管をふかしていた。


「伊右衛門殿」


やがて老人が口を開いた。


「孫を待たせるのも、そろそろ限度というものだ」


「承知しております」


「ならば、こちらにも考えがある」


喜兵衛が合図をすると、隣室から乳母のお槙が進み出た。


盆の上には、薬包と小さな桐箱が載せられていた。


「これは血の道によく効く妙薬でございます」


お槙は薬包を指した。


「産後の熱、眩暈、気鬱を鎮めるもの。

伊藤家で古くから用いている処方にございます」


「それを、お岩に?」


「病を案じて届けたことにすれば、怪しまれますまい」


伊右衛門は薬包を取り、匂いを嗅いだ。


乾燥させた薬草の青臭さと、わずかな甘みがある。


「毒か」


「まさか」


喜兵衛は眉一つ動かさなかった。


「毒など盛れば、医者に調べられたとき困る。

その薬は本物だ。

どれほど調べても、身体に害のあるものは出てこぬ」


「ならば、何の役に立つ」


お槙が桐箱の蓋を開けた。


中には白い手拭いと、艶のある黒い櫛が収められていた。


「薬を飲めば、しばらく身体が温まり、汗が出ます。

奥方様は顔を拭い、乱れた髪を直そうとなさるでしょう」


お槙の指が、手拭いの折り目をなぞった。


「こちらへ細工がございます」


伊右衛門が手を伸ばすと、お槙は素早く箱を引いた。


「素手でお触れになりませんように」


部屋の空気が静まり返った。


「命までは取りません」


喜兵衛が言った。


「だが女の顔は、女の命にも等しい。

人前へ出られぬ顔になれば、お前から離縁を申し渡されても、抵抗する気力は失せよう」


「もし、死んだら」


「血の道が悪化した。それで済む」


お梅だけが、話の意味を十分には理解していないようだった。


「その薬で、奥方の病は治るのでしょう?」


誰も答えなかった。


伊右衛門は薬包と桐箱を見比べた。


しばらくして、薬包だけを懐へ入れた。


「箱は、そちらから届けていただきたい」


「なぜだ」


「私はお岩の夫です。私が渡した物で顔が崩れれば、さすがに疑われる。

伊藤家からの見舞いであれば、私は何も知らなかったことにできる」


喜兵衛は、満足そうにうなずいた。


お梅は伊右衛門の袖へ手を添えた。


「これで、私たちは夫婦になれるのですね」


伊右衛門は、その手を拒まなかった。


庭では石灯籠に火が入り、障子に二人の影が重なって映った。


◇


三日後、伊藤家から見舞いの品が届いた。


使いに来たのは、お槙だった。


「喜兵衛様が、奥方様のお加減を大層ご心配なさっております」


お槙は、薬包と桐箱をお岩の前へ置いた。


「私どもの奥方も、産後に長く患われました。

その折、この薬で命を救われたのでございます」


「面識もない私に、なぜこれほどのことを」


「民谷様には、喜兵衛様が日頃からお世話になっております。

その御縁でございます」


お岩が伊右衛門を見ると、彼は初めて聞いたような顔をした。


「ありがたく頂けばよい。

せっかくの厚意を無にするものではない」


桐箱の中には、白い手拭いと黒い櫛が入っていた。


手拭いには、ほのかな花の香りが移っている。


櫛は見事な細工物で、背の部分に菊の花が彫られていた。


「まあ、美しい」


お岩は久しぶりに笑った。


その笑顔を見て、お槙は目を伏せた。


「薬は熱い湯でお飲みください。

身体が温まりましたら、汗をよくお拭きになって。

髪も乱れましょうから、こちらの櫛をお使いくださいませ」


言いつけるような口調だった。


「分かりました」


「必ず、こちらの手拭いと櫛を」


お槙は念を押してから帰っていった。


その日の夕刻、お岩は薬を飲んだ。


ひどく苦かった。


だが飲み下して間もなく、冷えていた手足の先まで熱が巡り始めた。


胸のつかえが少し軽くなり、身体の奥に滞っていたものが動き出したように感じられた。


「よく効く薬のようです」


お岩が言うと、伊右衛門は背を向けたまま答えた。


「それは何よりだ」


やがて額に汗が浮かんだ。


お岩は桐箱から手拭いを取り出し、顔を拭った。


右手に持ち、額から右の頬、顎へと滑らせる。


汗は次々に噴き出し、同じ場所を何度も拭かなければならなかった。


しばらくすると、頬がわずかに痒くなった。


薬で血の巡りがよくなったためだと思った。


髪の中にも汗をかいていた。


お岩は黒い櫛を取り上げ、右の鬢からゆっくりと梳いた。


一度。


二度。


三度目に櫛を通したとき、何か軽いものが畳へ落ちた。


お岩は手を止めた。


足元に、長い黒髪がひと房落ちていた。


「伊右衛門様」


呼びかけても返事がない。


隣室をのぞくと、伊右衛門の姿はすでになかった。


出ていく足音さえ聞こえなかった。


鏡台の鏡には、白い布が掛けられていた。


いつもは掛かっていない布だった。


お岩は不審に思い、それを外そうと手を伸ばした。


その瞬間、右の頬に鋭い痛みが走った。


「あっ……」


焼けた針を何十本も突き立てられたようだった。


手拭いで押さえると、痛みはさらに強くなった。


皮膚の下で何かが膨れ、脈を打っている。


髪がまた抜けた。


一本や二本ではない。


櫛へ絡みついた髪が、黒い塊となって畳へ落ちていく。


お岩は鏡を覆う布をつかんだ。


だが、剥がすことができなかった。


布は鏡台の裏で、細い紐によって固く結ばれていた。


「伊右衛門様……」


右目が腫れ、視界が狭くなっていく。


戸口の向こうに誰かの気配がした。


「どなたです」


返事はなかった。


ただ廊下を遠ざかる足音と、かすかな丁子油の香りだけが残った。


お岩は鏡台の前に崩れ落ちた。


畳の上には抜けた髪と、白い手拭いと、飲み干した薬の椀が並んでいた。


椀の底に毒はない。


残った薬にも毒はない。


それでも、お岩の顔は確実に崩れ始めていた。

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