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第一章_父の死

四谷左門が殺されたのは、雨の降らない夜だった。


その日は朝から、空だけが雨の支度をしていた。低い雲が江戸の町を覆い、風は生ぬるく、井戸端の女たちは夕立が来ると言い合った。


ところが日が落ちても一滴も降らず、湿った空気ばかりが家々の軒下に滞った。


左門は昼過ぎから、古い帳面を繰り返し調べていた。


紙は黄ばみ、綴じ糸はところどころ切れかかっている。


表紙には何も書かれていなかったが、中には米や金の出入りが細かな字で記されていた。


部屋の外から見れば、隠居した武士が昔の記録を懐かしんでいるようにしか見えない。


しかし左門の指は、何度も同じ箇所で止まった。


三月二日、蔵より米俵三俵。


三月十日、扶持方銀二分。


三月十八日、御用金一両。


いずれの行にも、受取人の名がなかった。


代わりに、小さな丸の中へ「民」の一字が記されている。


「父上、お薬の時間です」


お岩が障子の外から声をかけた。


左門は慌てて帳面を閉じ、座布団の下へ押し込んだ。


「入れ」


お岩が盆を手に入ってきた。


椀から薬草の匂いが立っている。


産後の身体をいたわらなければならないのはお岩の方だったが、彼女は自分よりも父の咳を気にしていた。


左門は娘の顔を見た。


青白い頬。細くなった肩。


きちんと結われてはいるものの、以前より艶を失った髪。


民谷伊右衛門と夫婦になってから、お岩が心から笑った姿を見た記憶はほとんどなかった。


「お前こそ休め。

赤子は寝ているのか」


「ようやく。

お袖が見てくれています」


「伊右衛門は来たか」


お岩の手が、わずかに止まった。


「いいえ」


「そうか」


左門は椀を口へ運んだ。


苦い薬を一息に飲み、顔をしかめる。


お岩は何か言いたそうに父を見つめたが、結局、空になった椀を盆へ戻しただけだった。


伊右衛門と離れて父の家へ戻ってから、半月が過ぎていた。


表向きの理由は、お岩の産後の静養だった。


しかし本当の理由を、父も娘も口にしなかった。


伊右衛門が主家を追われたこと。


金の扱いを巡って疑いをかけられていること。


酒を飲むたび、お岩に当たり散らすようになったこと。


そして左門が、二度と娘を伊右衛門の家へ戻すつもりがないこと。


「お岩」


部屋を出ようとした娘を、左門が呼び止めた。


「もし、あの男が迎えに来ても、わしの許しなく戻ってはならん」


「でも、あの人は私の夫です」


「夫である前に、人として守るべきものがある」


「伊右衛門様は、何も盗んでなどいないと申しております」


「ならば、なぜ帳尻が合わぬ」


左門の声が強くなった。


お岩の視線が、座布団へ向いた。


その端から、帳面の角がわずかにのぞいている。


左門はそれに気づき、足を動かして隠した。


「父上は、伊右衛門様をお疑いなのですか」


「疑っているのではない」


左門はそこで言葉を切った。


「知っているのだ」


外で風が鳴った。


障子が細かく震え、庭の木の葉が一斉に裏返った。


雨の匂いがするのに、やはり雨は降らなかった。


お岩はそれ以上尋ねなかった。


盆を持って部屋を出ると、入れ替わるように宅悦が廊下へ現れた。


杖が板敷きを叩く、乾いた音がした。


「左門様はいらっしゃいますか」


「奥です。

今日は咳がひどいようなので、背を見ていただけますか」


「承知いたしました」


宅悦はお岩の声がする方へ頭を下げた。


すれ違ったとき、彼はお岩の呼吸が浅いことに気づいた。泣いた後ではない。


胸の奥に言葉をため込んでいる者の息だった。


「何か、ございましたか」


「何もありません」


お岩の返事は早かった。


宅悦は追及せず、左門の部屋へ入った。


施術が始まって間もなく、表の戸を激しく叩く音がした。


お岩が応対に出る。


客は名乗らなかった。


しかし声を聞いた瞬間、左門の背中が固くなった。


宅悦の指先には、その変化がはっきりと伝わった。


「今日はこれまでだ」


「まだ始めたばかりでございます」


「帰れ」


左門は強い口調で命じた。


宅悦が道具をまとめている間に、客は部屋の前まで来た。


「お久しゅうございます、左門殿」


民谷伊右衛門だった。


低く、よく通る声だった。


聞く者に礼儀正しい印象を与える声だが、宅悦には、その丁寧さが刀の鞘のように思えた。


中身を隠すためのものだ。


「宅悦、早く帰れ」


左門に急かされ、宅悦は杖をついた。


伊右衛門の脇を通り過ぎる。


そのとき、微かな金属音がした。


刀の鍔に、何か小さな飾りが触れた音だった。


続いて、薬草とは異なる匂いが宅悦の鼻をかすめた。


丁子油だった。伊右衛門は刀の手入れに、香りの強い丁子油を使っている。


宅悦が庭口へ向かう間にも、二人の声が背後から聞こえた。


「お岩を連れ戻しに参りました」


「許さん」


「あれは私の妻です」


「娘を盗人の家へ戻す父親が、どこにいる」


しばらく沈黙があった。


「盗人とは、誰のことでございましょう」


「白々しい。

帳面は手元にある。

お前が蔵から持ち出した米も、受け取った金も、すべて記されている」


「そのような物が、何の証になると?」


「勘定方へ渡せば分かる」


宅悦は足を止めた。


聞いてはならない話だった。


立ち去るべきだと思いながら、杖を持つ手が動かなかった。


やがて、左門の声が続いた。


「明日の朝、この帳面を届ける。

それまでに江戸を離れるなら、追いはせぬ」


「随分と情け深いことで」


「お前のためではない。

お岩と、生まれたばかりの子のためだ」


伊右衛門が笑った。


短く、乾いた笑いだった。


「私がいなくなれば、お岩が幸せになると?」


「少なくとも、殺される心配はなくなる」


今度は伊右衛門が黙った。


庭木が風に擦れた。


宅悦は、その音の中に衣擦れを聞いた。誰かが廊下へ出てきた気配がする。


宅悦は慌てて歩き出した。


裏木戸を出る寸前、屋内から戸の閉まる音がした。


振り返っても、宅悦には何も見えない。


ただ、あの丁子油の匂いだけが、しばらく鼻の奥に残っていた。


◇


日が暮れてから、左門のもとへ一通の書状が届いた。


持ってきたのは十歳ほどの小僧だった。


深川の船宿で働いていると言い、差出人について尋ねても、通りすがりの男から頼まれただけだと答えた。


書状を読んだ左門は、すぐに身支度を始めた。


「どちらへ行かれるのです」


お岩が尋ねても、左門は答えなかった。


腰に刀を差し、座布団の下から例の帳面を取り出す。


懐へ入れようとして考え直し、何枚かを破り取った。


帳面本体は風呂敷に包み、胸元へ入れた。


破り取った紙は、文机の引き出しへしまった。


「父上」


「心配するな。昔の知り合いに会ってくるだけだ」


「でしたら明日にしては。今夜は空模様もよくありません」


「今夜でなければならぬ」


左門は草履を履いた。


門を出る前に一度振り返り、娘を見た。


「お岩」


「はい」


「何があっても、伊右衛門を信じるな」


それが、父が娘に残した最後の言葉になった。


◇


夜半を過ぎても、雨は降らなかった。


左門の帰りを待っていたお岩は、赤子を抱いたまま、いつの間にか眠っていた。


戸を叩く音で目を覚ましたのは、丑三つ時に近いころだった。


お袖が先に起き、表へ走った。


ほどなく、短い悲鳴が聞こえた。


訪ねてきたのは町方の者だった。


四谷塩町近くの寺裏で、武士が斬られて倒れている。


持ち物から、この家の四谷左門と思われる――。


お岩は赤子をお袖へ預け、裸足のまま外へ飛び出した。


寺裏には提灯を持った男たちが集まっていた。


土塀の下に、父がうつ伏せに倒れている。


地面には血が広がっていた。


雨が降らなかったため、血は流されず、黒い染みとなって土に残っている。


お岩は父の傍らへ膝をついた。


「父上」


肩へ触れても、返事はなかった。


左門の身体は、すでに冷え始めていた。


背中から斬られ、振り返ったところを胸へもう一太刀浴びせられていた。


刀は鞘に収められたままで、争った形跡もない。


左門は襲った者を知っていた。


少なくとも、刀を抜く必要のない相手だと思っていた。


「姉上」


追いついたお袖が、お岩の肩を抱いた。


お岩は声を上げなかった。父の袖を握り、ただ震えていた。


やがて、人垣の向こうから一人の男が現れた。


民谷伊右衛門だった。


伊右衛門は人をかき分け、左門の遺体を見下ろした。驚いた顔を作っていたが、その息は乱れていなかった。


「何ということだ」


お岩が顔を上げた。


「なぜ、ここへ」


「知り合いから、左門殿が斬られたと知らされた」


「誰からです」


「名も知らぬ者だ。

私が婿だと知っていたらしい」


伊右衛門はお岩の隣へ膝をついた。


「背後から斬りつけるとは、卑怯な真似を」


お岩は伊右衛門を見た。


誰もまだ、父が背中から斬られたとは話していなかった。


提灯の明かりが、伊右衛門の頬を照らしている。


その顔には悲しみよりも、何かを慎重に探るような色が浮かんでいた。


「お岩」


伊右衛門が静かに言った。


「必ず、左門殿を殺した者を見つける。

この手で敵を討つ」


その言葉を聞いたお袖が泣き崩れた。


周囲の者たちも、娘のために義父の敵を討とうとする婿に感心したようだった。


だが、お岩だけは返事をしなかった。


伊右衛門が差し伸べた手に、微かな香りがまとわりついていた。


丁子油の匂いだった。


父の血の匂いの中で、それだけが不自然なほど鮮明だった。


◇


翌朝、左門が持って出たはずの帳面は見つからなかった。


財布も刀も残されている。


奪われたのは、帳面だけだった。


お岩は父の部屋を探し、文机の引き出しから破り取られた数枚の紙を見つけた。


そこには、米と金の出入りが記されていた。


三月二日、米俵三俵。


三月十日、扶持方銀二分。


三月十八日、御用金一両。


そして、すべての行の末尾に、小さな丸で囲まれた「民」の字があった。


最後の紙だけは、右下の部分が乱暴に破れていた。


残された文字は三つ。


――伊右衛。


それが人の名なのか、別の何かを示す符号なのか、お岩にはまだ分からなかった。


だが、紙を持つ指が震えた。


父の最後の言葉が、耳の奥で繰り返された。


何があっても、伊右衛門を信じるな。


庭では、夜露を含んだ葉から水滴が落ちていた。


待ち続けた雨は、結局、一度も降らなかった。


それでも四谷の町には、消すことのできない血の跡だけが残った。

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