プロローグ_戸板の女
戸板が引き上げられたとき、女の長い髪が水面いっぱいに広がった。
夜明け前の隠亡堀には、まだ朝とは呼べない青白い光が漂っていた。
腐った水と泥の匂いが、川霧に混じって岸へ這い上がっている。
最初に戸板を見つけたのは、葦の間に仕掛けた網を確かめに来た漁師だった。
水面から突き出していたのは、板の端と、白くふやけた人の指。漁師は舟から転げ落ちそうになりながら棹を突き、板を岸から遠ざけようとした。
しかし戸板は、水の流れに逆らうように向きを変え、再び舟へ近づいてきたという。
役人が到着したころには、堀の周囲を大勢の野次馬が取り囲んでいた。
誰かが、お岩だと言った。
その名は水に落とした油のように、集まった人々の間へ静かに広がった。
「四谷左門町の、お岩だ」
「民谷伊右衛門の女房だろう」
「亭主を裏切って、奉公人と通じたそうだ」
「二人まとめて殺され、戸板に打ち付けられたらしい」
誰も確かめたわけではなかった。それでも人々は、見てきたことのように語った。噂というものは、水よりも低い方へ流れる。
そして一度泥を含めば、二度と澄むことはない。
戸板は二本の鉤を掛けられ、重い音を立てて岸へ引き上げられた。
表側には女が打ち付けられていた。
白い着物は泥水を吸い、痩せた身体に貼り付いている。顔の片側はひどく腫れ、長い髪が頬から首へ絡みついていた。
髪の隙間からのぞく目は半ば閉じられ、何かを恨むように空を向いている。
板を返すと、今度は男の遺体が現れた。
男も同じように、太い釘で戸板に打ち付けられている。こちらは小仏小平という、伊右衛門の家に仕えていた者だとされた。
女と男。
一枚の戸板の表と裏。
夫を裏切った妻と、主人の妻に手を出した奉公人。
見物人たちは恐ろしがりながらも、どこか納得したような声を漏らした。
二人が不義を働いたのなら、このむごたらしい姿にも理由がつく。人は理由のない死を恐れる。
死者に罪があると分かれば、生きている自分とは違うのだと思える。
その人垣の外に、一本の杖を持った男が立っていた。
按摩の宅悦だった。
宅悦には、戸板も、遺体も見えない。
だが、水から引き上げられた板が地面へ置かれた音は聞こえた。
濡れた着物から水滴が落ちる音も、野次馬が思わず後ずさった気配も分かった。
何より、匂いがした。
腐った水、泥、濡れた木、古い血。人が死んでから数日たったときに漂う、甘さを含んだ不快な匂い。
その奥に、覚えのある髪油の香りが混じっていた。
「宅悦」
低い声に呼ばれ、宅悦はわずかに顔を上げた。声の主は、この辺りを預かる岡っ引の弥吉だった。
「お前、民谷の家へ出入りしていたそうだな」
「按摩でございますから。
呼ばれれば、どちらのお宅へも参ります」
「ならば、お岩の身体にも触れたことがあるだろう」
宅悦の杖を握る手に力が入った。
背後で誰かが、「本人か確かめさせるのだ」と囁いた。
「目の見えぬ私に、死骸を見分けろとおっしゃるので?」
「顔は水で崩れている。目の利く者でも、はっきりとは分からねえ。
だが、お前なら別のことで分かるかもしれん」
弥吉に腕を取られ、宅悦は戸板へ近づいた。
一歩進むごとに、泥が草履の裏へまとわりついた。
周囲の話し声が消えていく。
大勢が息を殺し、盲目の按摩が死人を確かめる様子を見守っていた。
宅悦は戸板のそばへ膝をついた。
「触れてもよろしいので?」
「構わん」
差し出した指先が、冷たい着物に触れた。
袖口、手首、腕。水を吸った皮膚は張りを失い、生きていたころの形を忘れかけている。
宅悦は指を動かし、首筋へ触れようとした。
そのとき、弥吉が止めた。
「そこまででよかろう」
「喉を確かめたいのです」
「なぜだ」
宅悦は答えなかった。
お岩の喉には、あるはずの傷があった。
あの夜、宅悦は確かに、その傷から流れる血に触れた。温かい血だった。
それが畳の目を満たし、指の間へ入り込んだ感触を、忘れられるはずがない。
だが、それを口にすれば、次には必ず尋ねられる。
なぜ、その場にいたのか。
お岩が死ぬまで、何を見聞きしたのか。
そして、なぜ今まで黙っていたのか。
「何でもございません」
宅悦は手を引いた。
「この女は、お岩で間違いないか」
弥吉が重ねて尋ねた。
宅悦は答える前に、女の髪へ顔を近づけた。
椿の油に、微かな伽羅が混ぜられている。安いものではない。
遊女か、裕福な商家の女が好んで使う香りだった。
お岩はそんな髪油を使わなかった。
彼女が使っていたのは、伊右衛門の家の裏で採れた胡桃から搾った油である。
香りは弱く、少し青臭い。貧しい暮らしの中で、お岩が自分で作っていたものだった。
一度だけ、宅悦はその髪をとかしたことがある。
櫛を入れるたび、黒い髪がごっそりと抜けた。お岩は声を上げなかった。
ただ、畳へ落ちる髪の音を聞きながら、伊右衛門の名を呼んだ。
恨みではなかった。
あのときは、まだ。
「どうした」
弥吉が急かした。
宅悦は水辺から吹く風に顔を向けた。
戸板に打ち付けられた女は、確かにお岩によく似ているのだろう。
顔は崩され、同じような白い着物を着せられ、伊右衛門の家から消えた小平と一緒にされている。
誰もが、お岩であってほしいのだ。
お岩が夫を裏切り、小平と通じ、そのために殺されたことにすれば、すべてが簡単に片づく。
だが、この女はお岩ではない。
では、お岩はどこにいるのか。
あの夜、宅悦の腕の中で息を止めた女は、どこへ消えたのか。
「宅悦」
再び名を呼ばれた。
宅悦はゆっくりとうなずいた。
「お岩様に、間違いございません」
人々の間から、安堵とも恐怖ともつかない息が漏れた。
弥吉は宅悦の言葉を疑わなかった。
戸板は再び持ち上げられ、役人の命令で運ばれていった。
野次馬も、その後を追うように散っていく。
やがて堀端には、宅悦一人が残された。
朝日が昇り始めていた。
見えない光が川霧を薄くしていく気配を、宅悦は頬に感じた。
遠ざかる戸板から、まだあの髪油の香りが漂ってくる。
宅悦は杖を拾い、泥を払い落とした。
「お岩様は、あのような油をお使いにならなかった」
その呟きを聞いた者はいない。
ただ、水の中から、女が髪をとかすような音がした。
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