男がいた!
リリアは夢中で森を駆けていた。
薬草の入った籠を抱え、枝を避けながら細い道を走る。
(男の人がいた……!)
(本当にいた……!)
頭の中には、さっきの青年の笑顔が何度も浮かぶ。
「こんにちは。」
優しい声だった。
怖くなかった。
それなのに。
(近付いてきた……。)
(む、無理ぃ……。)
思い出しただけで、尻尾が忙しなく左右へ揺れる。
胸がどきどきする。
息が苦しい。
それでも足は止まらなかった。
やがて森が開け、小さな村が見えてくる。
木造の家が並び、畑では女性たちが野菜を収穫していた。
「リリアちゃん、おかえり。」
「今日は早かったね。」
声を掛けられる。
だが、リリアは立ち止まらない。
「た、大変ですーーーっ!」
村中へ響く大声だった。
畑の手が止まる。
洗濯物を干していた女性も振り返る。
子どもたちも遊ぶのをやめ、一斉にリリアへ集まってきた。
「どうしたの?」
「魔物でも出た?」
「怪我は?」
リリアは肩で息をしながら首を振る。
「お、お、お……。」
焦る。
(落ち着いて。)
(ちゃんと話さなきゃ。)
深呼吸を一つ。
「男ですっ!!」
一瞬。
村の空気が止まった。
「……え?」
「今、何て?」
「男です!」
「森にいました!」
村人たちは顔を見合わせる。
若い女性が苦笑した。
「リリアちゃん、寝ぼけてる?」
「絵本の読みすぎじゃない?」
「ち、違います!」
リリアはぶんぶんと首を振る。
尻尾まで一緒に左右へ揺れていた。
「本当にいたんです!」
「わたしに話しかけてきて!」
「『こんにちは』って!」
「こんにちは?」
「う、うん!」
「それで……。」
興奮して言葉が追いつかない。
「花を見てたんです!」
「花?」
「そう!」
「小さい白い花!」
「それを見て。」
リリアは思い出す。
青年の穏やかな笑顔。
「『花、きれいだな』って。」
村人たちは首をかしげた。
「花を?」
「そんなことで?」
「う、うん。」
リリアも今思えば不思議だった。
あんな花、誰も気にしない。
それなのに。
青年は嬉しそうだった。
「それから!」
リリアは慌てて続ける。
「黒い板を出して!」
「黒い板?」
「こんなの!」
両手で四角を作る。
「花に向けたら。」
「カシャッ!」
効果音まで真似する。
村人たちは揃って首を傾げた。
「カシャ?」
「う、うん。」
「何も起きないの?」
「起きませんでした。」
「じゃあ何のため?」
「分かりません……。」
村人たちはますます混乱する。
「男より、そっちが気になる。」
「新しい魔道具かな?」
「でも魔道具なら光るよね?」
あちこちで話が始まる。
リリアは困ったように辺りを見回した。
(信じてもらえない……。)
その時だった。
「少し静かに。」
穏やかな声が響く。
人垣が左右へ分かれ、一人の年配の女性が歩いてきた。
長い銀髪を後ろで束ね、木の杖を手にしている。
ローズベル村の村長、ミレアだった。
「リリア。」
「は、はい。」
「あなたは嘘をつく子ではありません。」
その一言だけで、リリアの肩から力が抜けた。
「ありがとうございます……。」
「ですが。」
ミレアは静かに続ける。
「順番に話してごらんなさい。」
「はい。」
リリアは深呼吸をする。
森へ薬草を採りに行ったこと。
花を見ている青年を見つけたこと。
黒い板を使っていたこと。
そして。
「『こんにちは』って言われました。」
全部話し終えると、村は静まり返った。
ミレアは目を閉じ、少しだけ考え込む。
やがて静かに頷いた。
「確認しましょう。」
「え?」
村人たちがざわつく。
「森へ向かいます。」
「ほ、本当に?」
「もしリリアの言う通りなら。」
ミレアは真っ直ぐ森の方を見る。
「この世界にとって、とても大きな出来事です。」
誰も反論できなかった。
◇
一方、その頃。
「この道で合ってるのかな。」
当の悠斗は、そんな騒ぎになっているとは知らず、のんびり森を歩いていた。
足を止める。
見上げれば、木々の隙間から青空がのぞいている。
思わずスマートフォンを取り出した。
カシャッ。
「うん、いい景色だ。」
画面に映る一枚を見て、小さく笑う。
異世界最初のアルバムは、花と森の写真ばかりになりそうだった。
その数分後。
悠斗は、自分を探しに村人たちが森へ向かっていることなど、まだ知る由もなかった。




