森の中の少女
柔らかな風が頬を撫でた。
小鳥のさえずりが聞こえる。
悠斗はゆっくりと目を開けた。
視界いっぱいに広がるのは、どこまでも青い空だった。
「……ここが異世界か。」
身体を起こし、大きく伸びをする。
見渡す限りの森。
木漏れ日が地面を照らし、風が葉を優しく揺らしている。
思わず深く息を吸った。
「空気がうまいな。」
土と草の香りが胸いっぱいに広がる。
こんな空気を吸ったのは初めてだった。
自分の服へ目を向ける。
白いシャツに革のベスト。
丈夫そうなズボンと革靴。
「ちゃんと異世界仕様になってる。」
苦笑しながらポケットを探る。
財布。
鍵。
そしてスマートフォン。
「……あった。」
電源を入れてみる。
『圏外』
「まあ、そうだよな。」
通信はできない。
けれど時計は動いている。
試しにカメラを起動した。
目の前の景色へ向ける。
カシャッ。
「お。」
ちゃんと撮れている。
画面には、美しい森が映っていた。
「写真は残せるんだ。」
少しだけ嬉しくなった。
「思い出くらいは残せそうだな。」
スマートフォンをしまい、歩き始める。
森は驚くほど静かだった。
鳥の声。
風の音。
自分の足音。
それだけしか聞こえない。
「いい場所だな。」
自然と笑みが浮かぶ。
その時。
道端に、小さな白い花を見つけた。
悠斗はしゃがみ込む。
「花、きれいだな。」
陽の光を受け、小さく揺れる花。
もう一枚だけ写真を撮る。
カシャッ。
「うん。」
満足そうに頷いた。
◇
少し離れた木陰から、一人の少女がその様子を見ていた。
長い銀色の髪。
小さな黒い角。
細い尻尾が、落ち着かないように左右へ揺れている。
腕には薬草を入れた籠を抱えていた。
(男の人……。)
少女は息を呑む。
絵本でしか見たことがない存在。
昔はこの世界にもいたらしい。
でも今は誰もいない。
ずっとそう教えられてきた。
(本当にいたんだ……。)
もっと怖いと思っていた。
もっと近寄りがたい存在だと思っていた。
けれど。
青年は花を見て笑っていた。
(花を見てる……。)
少女は目を丸くする。
村の誰も気にしない、小さな白い花。
それを嬉しそうに眺めている。
(……変な人。)
思わずそう思った。
でも。
嫌な感じはしない。
むしろ少しだけ気になる。
その時だった。
青年が黒い板のような物を取り出す。
(なに、それ……?)
花へ向ける。
カシャッ。
(えっ?)
小さな音が鳴っただけだった。
青年は嬉しそうに、その板を見ている。
(魔道具……?)
見たことがない。
でも魔力も感じない。
(何をしてるんだろう。)
男の人も。
その黒い板も。
どちらも気になった。
一歩。
また一歩。
音を立てないよう近付く。
青年はまだ気付かない。
(もう少しだけ……。)
(近くで見たい。)
その瞬間。
パキッ。
「あっ。」
小枝を踏んでしまった。
青年が振り返る。
目が合った。
(あ……。)
身体が固まる。
「こんにちは。」
青年は優しく笑った。
(しゃべった。)
(男の人が。)
(わたしに話しかけた。)
頭の中が真っ白になる。
「えっと。」
青年は困ったように笑う。
「驚かせちゃいましたか?」
(怒ってない。)
(怖くない。)
(でも……。)
(どうしよう……。)
心臓が速い。
尻尾だけが忙しく揺れていた。
青年が心配そうに一歩近付く。
「大丈夫ですか?」
(近付いてきた!)
(む、無理……!)
「ひゃっ!」
少女は飛び上がる。
大きく息を吸い込んだ。
「お、お、お……。」
(言えない。)
(声が出ない。)
(でも何か言わないと……!)
「男~~~~~~っ!!」
森中へ響く叫び声だった。
少女は籠を抱えたまま、一目散に走り出す。
「えっ、ちょっと!」
悠斗が慌てて手を伸ばす。
しかし少女は振り返ることなく、木々の向こうへ消えてしまった。
静かな森に、再び鳥のさえずりだけが戻る。
「……。」
悠斗はしばらく立ち尽くした。
「そんなに驚かなくても。」
頭を掻きながら苦笑する。
ふと、ルミナの言葉を思い出した。
『あなたは、その世界で唯一の男性になります。』
「……なるほど。」
ようやく意味が分かった気がした。
「先が思いやられるな。」
苦笑しながら、少女が走っていった細い道を歩き始める。
それが、悠斗とリリアの最初の出会いだった。




