女神からのお願い
夕暮れの商店街は、一日の終わりを迎えようとしていた。
仕事帰りの会社員が足早に駅へ向かい、買い物袋を提げた人たちが店先を行き交う。どこからか揚げ物の香ばしい匂いが漂い、空は少しずつ茜色へ染まり始めていた。
神崎悠斗はスーパーの袋を片手に、のんびりと歩いていた。
「今日は少し安かったな。」
袋の中には玉ねぎ、にんじん、じゃがいも。それに特売だった豚肉。
今夜はカレーを作る予定だ。
一人暮らしを始めて一年。
最初は外食ばかりだったが、節約のために始めた料理は、いつの間にか趣味になっていた。
「そういえば、この前買ったスパイス、まだ残ってたかな。」
そんなことを考えながら帰る時間が、悠斗は好きだった。
大学へ通い、アルバイトをして帰宅する。
派手な毎日ではない。
けれど、不満もない。
休日になればホームセンターへ行き、工具や木材を眺める。用事がなくても一時間くらい歩き回ってしまう。
動画サイトではDIYや家庭菜園の動画ばかり見ていた。
「この棚、自分でも作れそうだな。」
「庭付きの家なら、野菜も育てられるのに。」
そんな独り言をこぼすたび、友人には笑われた。
「お前、二十歳なのに趣味がおじいちゃんなんだよ。」
「そうか?」
「もっと遊べって。」
そう言われても、悠斗には今の暮らしがちょうどよかった。
静かな毎日。
誰かと競うこともなく、自分のペースで暮らす。
そんな人生が好きだった。
「将来は田舎でのんびり暮らすのも悪くないな。」
信号待ちをしながら、ぼんやりと空を見上げる。
その時だった。
小さな悲鳴が聞こえた。
「あっ!」
振り向くと、小さな女の子が転んでいた。
買い物袋からリンゴが転がり、歩道へ散らばっている。
悠斗はすぐに駆け寄った。
「大丈夫?」
「う、うん……。」
膝を擦りむいたのか、今にも泣きそうな顔をしている。
悠斗はリンゴを拾い集め、一つずつ袋へ戻していった。
「はい。」
「ありがとう、お兄ちゃん!」
ぱっと笑顔になる。
その笑顔を見て、悠斗も自然と笑みを浮かべた。
「気を付けて帰るんだよ。」
「うん!」
元気よく頷いた、その瞬間だった。
キキィィィィッ!!
耳をつんざくブレーキ音が交差点へ響く。
反射的に顔を上げる。
一台の大型トラックが信号を無視し、大きく蛇行しながら突っ込んできていた。
「……っ!」
女の子が道路の真ん中で固まっている。
考えるより先に身体が動いた。
(間に合え。)
それだけだった。
「危ない!」
女の子を抱き寄せ、歩道へ押し出す。
直後。
激しい衝撃が身体を貫いた。
世界がぐるりと回る。
(あぁ……。)
(痛いな。)
遠くで誰かが叫んでいる。
最後に見えたのは、泣きながらこちらへ手を伸ばす女の子だった。
(助かってくれたなら、それでいい。)
◇
「ようこそ。」
優しい女性の声が聞こえた。
悠斗はゆっくりと目を開ける。
一面が白かった。
空も。
地面も。
どこまで見渡しても白しかない、不思議な世界だった。
「ここは……。」
身体を起こす。
痛みはない。
服も汚れていない。
夢の中のような、不思議な感覚だった。
「初めまして。」
声の方を見る。
そこには、一人の女性が立っていた。
腰まで届く金色の髪。
純白の翼。
穏やかな笑みを浮かべた、美しい女性。
その姿を見た瞬間、悠斗は何となく察した。
「……女神様、ですか?」
女性は嬉しそうに微笑んだ。
「はい。私は女神ルミナです。」
「あなたをここへ迎えました。」
やっぱりか。
驚きは、不思議なくらい少なかった。
それよりも先に、気になることがある。
「さっきの女の子は。」
ルミナは静かに頷く。
「無事です。」
「あなたのおかげで助かりました。」
その一言を聞いた瞬間、肩の力が抜けた。
「それなら、よかった。」
ルミナは、その笑顔を見つめて優しく目を細めた。
「あなたなら、そう言うと思っていました。」
「神崎悠斗さん。」
「お願いがあります。」
「お願い?」
「別の世界で、もう一度人生を歩んでいただけませんか。」
「異世界、ですか。」
「はい。」
悠斗は少し考え、照れくさそうに笑う。
「俺、勇者とかには向いてませんよ。」
「剣も使えませんし。」
「勇者ではありません。」
「魔王討伐でもありません。」
「世界を救うことでもありません。」
「じゃあ、何をするんです?」
ルミナは柔らかく微笑んだ。
「幸せに暮らしてください。」
「……それだけ?」
「はい。」
拍子抜けしてしまう。
けれど、その言葉は妙に悠斗らしいとも思えた。
「もちろん、生活に困らないよう力も授けます。」
「生活魔法です。」
「生活魔法?」
「掃除、料理、洗濯、修理、栽培。暮らしを支えるための魔法です。」
戦うためではない。
生きるための魔法。
悠斗は思わず笑った。
「その方が、俺には向いてそうですね。」
「私もそう思います。」
二人は顔を見合わせて笑う。
穏やかな空気が流れた。
しかし、ルミナは少しだけ困ったような表情になる。
「あの……。」
「もう一つ、大切なお話があります。」
「なんですか?」
「あなたが向かう世界には、男性が存在しません。」
「……え?」
「住人は全員女性です。」
「全員?」
「はい。」
悠斗は思わず聞き返す。
「それって……。」
「しかも。」
ルミナは苦笑しながら続けた。
「全員、サキュバスです。」
「…………。」
思考が止まる。
「サキュバス?」
「ですが、あなたが想像するような恐ろしい種族ではありません。」
「穏やかで家族思いの、優しい方たちです。」
「ただ、少しだけ愛情表現が豊かです。」
「その『少しだけ』が、一番気になるんですけど……。」
悠斗が苦笑すると、ルミナは思わず吹き出した。
「ふふっ。」
「きっと皆さん、あなたを歓迎してくれます。」
「歓迎、ですか……。」
嫌な予感しかしない。
するとルミナは、とどめを刺すように言った。
「ちなみに。」
「あなたは、その世界で唯一の男性になります。」
「…………。」
悠斗は数秒間、何も言えなかった。
「…………え?」
「はい。」
「俺だけ?」
「はい。」
悠斗はゆっくりと白い空を見上げ、小さくため息をつく。
「……静かに暮らせる気がしない。」
その呟きに、ルミナはくすりと笑った。
「大丈夫です。」
「きっと。」
「『きっと』なんですね……。」
二人の笑い声が白い世界へ溶けていく。
次の瞬間、眩い光が悠斗の身体を包み込んだ。
「それでは、いってらっしゃい。」
「ちょっ、待ってください!」
「まだ心の準備が!」
「ルミナさぁぁぁぁぁん!」
光はさらに強くなり、悠斗の姿は白い世界から消えていった。
こうして神崎悠斗は、サキュバスしかいない異世界へ旅立つ。
ただ静かに暮らしたい。
その、ささやかな願いを胸に。




