初めての男性
森の中を、数人のサキュバスがゆっくりと歩いていた。
先頭を歩くのは村長のミレア。
その後ろにはリリアと、数人の村人が続く。
「本当にいるのね?」
一人が小声で尋ねる。
「……うん。」
リリアは何度も頷いた。
「さっき、ここで会ったの。」
尻尾が落ち着かないように左右へ揺れている。
「怖かった?」
別の女性が優しく聞く。
リリアは少しだけ考えた。
(怖かった……のかな。)
青年の顔を思い浮かべる。
優しく笑っていた。
怒ってもいなかった。
(……怖くは、なかった。)
首を小さく横へ振る。
「びっくりしたの。」
その言葉に、村人たちは不思議そうな顔を見合わせた。
その時だった。
「……あ。」
リリアが小さく声を漏らす。
木々の向こうに、一人の青年が立っていた。
白いシャツに革のベスト。
見覚えのある後ろ姿。
(あの人……。)
青年は空を見上げながら、手にした黒い板を眺めている。
何をしているのかは分からない。
でも、森で見た時と同じだった。
「リリア。」
「はい。」
「あの方ですか?」
「……うん。」
小さく頷く。
村人たちの間に緊張が走る。
誰も声を出せない。
すると青年が、こちらへ振り返った。
「あ。」
目が合う。
青年は少し驚いたような顔をしたあと、ふっと笑った。
「こんにちは。」
軽く頭を下げる。
その一言だけで、村人たちは固まった。
(しゃべった……。)
(本当に男……。)
(普通に挨拶した……。)
誰も返事ができない。
静かな森に沈黙が流れる。
「えっと……。」
青年は困ったように頭を掻いた。
「また驚かせちゃいましたか?」
その声は穏やかだった。
怒っている様子もない。
むしろ、こちらを気遣っているようにも見える。
ミレアは一歩前へ出た。
「初めまして。」
ゆっくりと一礼する。
「私はローズベル村の村長、ミレアと申します。」
青年も慌てて頭を下げた。
「神崎悠斗です。」
「よろしくお願いします。」
その姿を見て、村人たちが小さくざわめく。
「礼儀正しい……。」
「思ってたのと違う。」
「もっと怖い人かと……。」
ひそひそ声が聞こえる。
悠斗は少し照れくさそうに笑った。
「女神様から、この世界には男性がいないって聞いていたので。」
「驚かせてしまっていたら、すみません。」
村人たちは顔を見合わせた。
謝っている。
男の人が。
伝承では、男性はもっと威厳があって、近寄りがたい存在として描かれていた。
目の前の青年は、それとはまるで違う。
リリアも不思議そうに悠斗を見つめる。
(また謝ってる……。)
(どうして?)
悪いことなんて何もしていないのに。
ミレアは穏やかに微笑んだ。
「謝る必要はありません。」
「むしろ驚いてしまったのは、私たちの方です。」
悠斗は安心したように息をついた。
「よかった。」
その笑顔を見て。
リリアの尻尾がぴくりと揺れた。
(……また笑った。)
なんだろう。
見ていると少しだけ安心する。
そんな笑顔だった。
「ところで。」
ミレアが静かに口を開く。
「先ほどから持っておられる、その黒い物は何でしょうか?」
悠斗は手元を見る。
「ああ、これですか。」
スマートフォンを軽く持ち上げる。
「スマートフォンっていう道具です。」
「すまーと……?」
「ふぉん?」
聞き慣れない言葉に、村人たちが首を傾げる。
リリアも同じだった。
(すまーとふぉん……。)
(変な名前。)
悠斗は苦笑する。
「説明するのは少し難しいんですけど……。」
「もしよければ、村でゆっくりお話しします。」
ミレアは頷いた。
「ぜひ、お聞かせください。」
そして改めて一礼する。
「神崎悠斗さん。」
「ローズベル村へようこそ。」
悠斗は少しだけ驚いたように目を丸くした。
「歓迎してもらえるとは思ってませんでした。」
「最初は驚きました。」
ミレアは優しく微笑む。
「ですが、あなたが礼節を重んじる方だということは分かりました。」
「でしたら、まずはお茶でも飲みながらお話をしましょう。」
悠斗は村人たちを見渡した。
まだ緊張している人もいる。
興味津々でこちらを見ている人もいる。
木の陰からそっと覗いている子どもたちもいた。
その光景に自然と笑みが浮かぶ。
「よろしくお願いします。」
そう言って、もう一度頭を下げた。
こうして悠斗は、ローズベル村への第一歩を踏み出す。
それが、静かなスローライフの始まりになることを、この時はまだ誰も知らなかった。




