ひいらぎのひとひら1 epi,.23 海を見ていた
結婚して1年が過ぎた金曜日。
残業して、22時。
玄関のドアを開ける。
「ただいま」
リビングの灯りはついている。
その灯りの中で、とうこさんが静かに座っていた。
「あなた、大事な話があるの」
ああ。
久しぶりに来た、この言葉。
胸の奥が少しだけざわつく。
もしかして。
「今日、病院に行ってきたの」
「で、どうだったの?」
子供だ。きっとそうだ。2人の。
そう思った。
それから朝まで、話すことになる。
「最近、調子が悪くて、お茶の水の主治医のところに行った。」
「ん?主治医って?」
「ここ4年位は」
そこで言葉が止まる。
がんで、寛解期だったと。
「……あまり分からないけど、余命とかって、5年とか10年とか。でも医療が進んでるから、そのうち治療薬とか出るでしょ?てか、今まで薬飲んでるとこも見たことないし、ごめん、気がついてなかったけど、」
「半年」
「病院で話を聞いたときにね、最初に思ったのは自分のことではなかった。あなたが、ひとりで生きていけるだろうか。それだけだった」
目の前が白黒になった。
音が遠くなる。
つらいのはこの人だ。なのに未来の僕を?
僕がしっかりしないと。
その後、通院しながら普通の生活を送った。
4か月を過ぎたあたり。
ある日。
「あなた、大事な話があるの」
覚悟は?
できていない。
「先生に、入院すべきだと云われたけど、お断わりして、家にいたい、と伝えようと思うけど、迷惑にならないかな」
「ここにいてほしい。当たり前だろ!」
この人に声を荒げたのは、出会って初めてだった。
とうこさんは、涙をいっぱいためて、
「ありがとう」
と云った。
それから。
介護ベッドや車いすなどをレンタルした。
時々休職しながら、ずっと一緒にいた。
お互いの家へ行ったり。
海を見に行ったり。
しょっちゅうスーパーへ買い物に行ったり。
特別なことは、何もない。
けれど、その何でもない日々が、どこまでも、かけがえのない時間だった。
ある夜。
「ゆうき、結婚した時から私が呼び方を変えたのって知ってた?」
「うん。急にあなたって呼ばれて、ちょっととまどった。なんで?」
とうこさんは、少し笑った。
「大好きになって、一生この人とって思ったら、あなたに付いてる名前は、もういらないと思ったの」
そうか。
自分は?
確か、柊子ママから、とうこさんへ、だった。
「ゆうき、大好きよ。あなたで良かった。あなたの何十倍も幸せでした」
「柊子」
「うれしいな。呼んでくれた」
泣かない。ここでは、絶対。
朝から夜まで、起きている限り、常に押し寄せ続ける不安の中でも、彼女はこうして、しっかりと生きてきたんだ。
「ゆうき、また、会いたい」
「いつかね。今度は絶対に最初からさ、もう一度」
「うん、必ず」
目を閉じた。
手を握りしめていた。
冷たくなっていく。
でも、この時間は、
絶対に誰にもじゃまをさせない。
2人で、
写真立ての海を見ていた。
朝になり、病院に電話し、実家に電話をし、静寂が破られた。人が来て、言葉が行き交い、書類が増え、足音が増え、家の中の空気が少しずつ現実に変わっていく。
仏壇もまだない部屋。
リビングのテーブルの上に骨壺を置いて、向かい合った。
「ビールでも飲もうか」
黒ネクタイをゆるめて、缶ビールを2本出す。
プシュッ、と開ける音だけが、やけに大きく響いた。
葬儀場で係の人から、
「焼けない物は外しませんか」と云われて、そこで気づいた。
結婚指輪。
忌引きで1週間休み。
その間に、ものすごい量の手続きを済ませなければならない。
役所、銀行、保険、病院。すべて、処理のための、後ろ向きなもの。
それから、葬儀場でもらったパンフレット。お墓のことも考えなければか。
柊子はどうしたいのかな。
それから1週間、動き回った。
一番大変だったのは、住民票をまだ札幌から移していなかったこと。
何か、力の入らない毎日が過ぎていく。
時間は流れているのに、自分だけが止まってしまった。




