第21話 当たり前になる前に
明けて3月。
マンションが決まり、引っ越し。
土曜の朝から荷物を搬入し、段ボールを開け始めたところまでは、順調だった。
「部屋ごとに段ボールの番号表を貼ってくれて助かった。引っ越し屋さんにすごくスムーズだったって云われてさ」
「2軒分の引っ越しだから、迷惑をかけないようにしたかったの。よかった。でも、これから、ね」
とうこさんは、箱の角を撫でる。
まだ、生活の匂いがしていない部屋。
「あー、何日かかるんだろう」
「私が少しずつ開けていくから大丈夫よ」
「ほんとに、無理しなくていいよ」
珍しく、ふたりで家にいるのにほとんど会話もなく黙々と作業する。
段ボールを裂く音、ガムテープのはがれる音、食器が触れ合う乾いた音。
「もろもろの配線とかをやってもらえる?」
「そうだね。そうするか」
配線。
まさか、あの実験装置をこの部屋で。なわけない、と否定する。
朝9時から始めて、休憩をはさみ、気づけば9時間。
昼は、簡単に食べられるようにと、なぜか箱で優美ちゃんが送ってくれたマルちゃんをすすった。
引越祝い、らしい。
「疲れたな、そっちはどう?」
「キッチンの半分くらいまで来たけど、ゴールがまったく見えません」
「箱で、壁が見えないんだけど。2回目マルちゃんもさすがになんだし、駅前にあったモツ屋さんでも行ってみる?」
「もう、賛成。ごめんね、作る元気がない」
「分かってる、行こう」
重い足取りで店に着く。
と、奥のカウンターに。
「いたっ!」
振り返って、
「来たっ!」
「みきの、いっしょにどう?」
引っ越し、終わったの?」
そう言いながら、嬉しそうに席を替える。
「あんたたち、なんか老けた?」
「今日が引っ越しって知ってただろ。なぜ、顔を出さない」
「前回のとーこの引っ越しとはわけが違うじゃん。行ったら老ける」
「ちっ!読まれてたか」
「落ち着いたら行くよ」
「うん、待ってるね」
丸め込まれてる?
「まあ、時間かけて片付ければいいんじゃない?それもまた君たちには楽しいでしょ?」
「絶対にもう引っ越さない。人手がほしい」
「あたしは人のことをかまってられないの」
そういう人間が、大体、かまってちゃんになるのだ。
「引っ越しに乾杯!」
「ありがとう。乾杯。この辺のことを教えてね」
「うん、大丈夫。あそこみたいなスーパーあるけど、明日行ってみる?」
「行きたい」
「ゆーきはおっきな冷蔵庫買った?」
「買った。さっき届いた」
「じゃ、1時くらいに迎えに行く」
「待ってるね」
両家の間は徒歩5分。
近すぎる距離。
なんか怖い出来事があれこれ起きそうな予感がする。
一瞬、みきのがニヤッと笑った。
「店長さ、この2人、今日近所に越してきたからよろしくね」
「あいよ」
「ここ、何でもおいしいね」
「でしょっ」
「確かに。濃くなくて、下味がしっかりしてる」
「ゆーきに何が分かる?」
「それくらいは分かる。優しい」
「ほお、大人になったんだ」
「2人とも、小犬みたいね」
小犬。
かむ力の強い小犬が一匹。
「朝から荷ほどきしてたんでしょ」
「そう、ほんとうに終わる気がしないの。100箱?晩ごはんを作る気にもなれない」
「布団くらいは出しといた方がいいよ」
「あっ」
聞くの忘れてた。
「枕、忘れてきたかもしんない」
「なわけないじゃん。最後にチェックしたんでしょ」
「さっき、ベッドに広げた時になかった。どっかにあるはずだ」
「なくても寝れる!」
「申し訳ないけど、今日の捜索は、日没のため終了とします」
なんか2人とも急に老けた気がする。
みきのだけは元気で。
「町のみんなはすごくあったかいんだ。何でも教えてくれる。あたしもすぐに人気者になったし」
人気占い師。
「それと、飲み屋に行けば、全員が地元だから誰とでも仲良くなるよ」
「さっきので、すごくよく分かった」
「でしょ。人気者は忙しいのよ」
とうこさんが、また優しい顔で子犬たちを見る。
「ここに住んじゃうとさ、仕事はけたらすぐ帰ってきたくなる」
「分かるなあ。いい町ね」
「うん、嫌な事があったり、悩むことがあったりしたら帰りたくなる場所」
「私が育ったところとは違うね。ほっとかれない感じがする」
「その通りだ。はい、引っ越し祝いのモツ鍋。新婚さんじゃないのか?気持ちがもつ、なんてな」
「店長、笑えない」
「ありがとうございます」
「いいってこと」
店長が去る。
「みきのの物云いはここで生まれたんだな」
「そう?」
「絶対に」
「かもね」
「こういう所に住みたかったんだよな。あー、もう楽しい」
「押上、押上って言い続けてありがとう。毎日が楽しくなりそう。せっかくだし、いただきましょう」
「そうそう、あ、うまっ」
「おいしい、だろ」
「おいしい、です」
「何だそれ」
少しだけ疲れが取れた。
明日は日曜。
でも朝から、また段ボール。
「じゃあ、とーこ、明日ね」
「うん、また明日」
家へ戻る。
玄関を開けて、2人同時に溜め息。
片付いていない。
片付く気がしない。
そして枕もない。
ダブルベッドで布団類は一緒に入れただろうに、なぜない?
まあ、そのうち見つかる。
段ボールの隙間に立ちながら、
この部屋がいつか、当たり前の風景になる日を想像する。
帰ってきたくなる場所。
悩んだら戻る場所。
そんなふうに、ここで歳を重ねていくのだろうか。
とうこさんは、箱の上にちょこんと座っている。
段ボールと、見つからない枕と、
あたたかい町の匂いの中にいる。




