第5話 帝都の影で
捜索隊が入るたび、道は変わった。
三週間、五人は同じ方角へまっすぐ歩けたことがなかった。
昼は森と廃屋に潜み、動いたのは夜明け前と日没後だけだった。
半日で着くはずの道程に、その日々が溶けていった。
食料は切り詰め、廃屋に残された乾物や、放棄された畑の落ち穂を探した。
足りない分は、野草と木の実で埋めた。
衣服は汚れ、靴の縫い目はどれも開きかけていた。
人の通う道へ近づいた日から、フィエリサは長い髪を布で覆っていた。
白銀の軽鎧も、埃と泥を吸った外套の下へ隠していた。
覆いの縁から零れる翡翠色の髪だけが、宮廷にいた頃の面影をわずかに残していた。
◇
その子供を見つけたのは、ヴェロナへ続く廃道の途中だった。
崩れた斜面の下で、うつ伏せに倒れている。
ケントゥルが手で全員を止め、先に斜面の上を確かめた。
廃道へ折れた車輪跡も、新しい軍靴の跡もない。
「こっちへ兵が入った跡はない」
フィエリサは、その言葉を最後まで聞かなかった。
すでに斜面を下りていた。
マルケラとルキナも、その後を追った。
ケントゥルとレグリウスも周囲を確かめてから、遅れて斜面を下りた。
少年は生きていた。
足首は輪郭を失うほど腫れ、脛には浅い裂傷が走っている。
傷口には泥と、細かい小石が食い込んでいた。
フィエリサが傍らへ膝をつくと、少年の目がわずかに開いた。
「……お姉ちゃんたち、誰?」
掠れた声だった。
「旅の者です。あなたを助けます」
フィエリサは身を屈め、声を和らげた。
「何があったのですか?」
「山羊を、森へ連れていって……兵が来たから、逃げて……ここから落ちて……」
少年は顔をしかめ、言葉を詰まらせた。
「もう話さなくてよい。ルキナ、手当を」
フィエリサが告げると、ルキナは膝をつき、裂傷の縁へ指を添えた。
「傷は深くありません。ただ、先に泥を落とさなければ」
言ってから、腰の革袋を振った。
中の水が、底で小さく鳴っただけだった。
フィエリサは布の覆いを直した。
外套の内で水ファルサを握ると、石がひやりと冷えた。
フィエリサは空いた手を、傷の上へ差し出した。
指先の周りで、空気が湿った。
草の露が、土の底に残った水気が、細い糸になって掌へ集まっていく。
「水を使えるのか」
ケントゥルの声に、マルケラは、ティトがフィエリサの手元を見ているか確かめた。
「そのまま、少しずつお願いいたします」
ルキナは傷口から目を離さなかった。
やがて掌の窪みから、糸ほどの水が傷口へ落ちはじめた。
泥が緩み、小石が流れ、その下から赤い傷口が現れる。
少年が、ぼんやりとフィエリサの掌を見た。
「……治せるの?」
フィエリサは手を止めなかった。
「私にできるのは、洗うことだけです」
水は多くない。
傷を塞ぐこともできない。
一行の飲み水を賄えるほどではない。
それでも、泥だけは流れていった。
ルキナが傷へ清潔な布を当て、腫れた足首を動かさぬよう、添え木を沿わせて固定した。
ケントゥルとレグリウスが、外套と枝で担架を組んだ。
ケントゥルが少年へ尋ねた。
「名前は?」
「……ティト」
少年は担架の上で言った。
「村は、ヴェロナ……この道を、先へ行けば」
ケントゥルとレグリウスの視線が交わった。
一行が三週間かけて目指してきた集落の名だった。
ケントゥルとレグリウスが担架を持ち上げた。
前を持ったレグリウスが、ティトへ声をかけた。
「よかったな、坊主。俺たちもヴェロナへ行く途中だ」
ティトは目を閉じたまま、わずかに頷いた。
◇
村が見える手前で、二人は担架を下ろした。
ケントゥルはフィエリサたちを手招きし、ティトから少し離れたところで口を開いた。
「戦火を逃れてきた貴族の娘。途中で荷の大半を失った。護衛が二人、侍女が二人。それでいく」
マルケラが、フィエリサの覆いの結び目をもう一度きつく締めた。
「お嬢様。村では顔を伏せ、瞳を見られぬようになさってくださいませ」
フィエリサは頷いた。
自分の名がここで知られれば、この道の先にある家々がそのまま危険になる。
それだけは、もう理解していた。
夕方、五人はティトを担架で運び、ヴェロナへ入った。
畑にいた者が、鍬を持ったまま後ずさる。
扉が次々に閉じられ、犬が一匹だけ吠え続けた。
武装した男が二人。
村がまず見たのは、それだった。
だが、担架の上にいるのがティトだと気づかれるまでに、時間はかからなかった。
「ティトだ」
誰かが声を上げた。
ケントゥルとレグリウスが担架を地面へ下ろすと、女が一人、家から走り出てきた。
続いて二人。三人。
ティトの母親は、息子の名を呼びながら担架へ縋りつき、それから固定された足首へ目を落とした。
添え木。
巻かれた布。
泥を落とした脚。
「誰が、これを……」
母親が顔を上げた。
誰も答えなかった。
村には、傷薬も、傷へ回せる清潔な布も、もう残っていなかった。
集まった者たちの視線が、担架から五人へ移った。
年嵩の男が、顔を伏せたフィエリサを見た。
「そっちの娘は、なぜ顔を上げない?」
マルケラが半歩前へ出た。
ケントゥルが、それを手で制した。
「戦火を逃れてきた貴族の娘だ。途中で荷の大半を失った。俺とこいつが護衛、あとの二人は侍女だ」
ケントゥルはフィエリサへ向けられた視線を遮るように立った。
「顔を晒したくない事情がある。それだけだ」
年嵩の男は、俯いたフィエリサをしばらく見ていた。
「一晩だけなら、村外れに空き家がある。だが、今夜だけだ」
「分かった。一晩借りる」
ケントゥルはそれ以上を求めなかった。
ティトは母親と村人たちに引き取られ、五人は年嵩の男に案内されて、村外れの空き家へ向かった。
信用されたわけではない。
ティトを助けたことが、一晩だけ泊める理由になった。
空き家へ入ると、ケントゥルは荷を下ろし、ひとつだけを手元へ残した。
毛布に包んだ小箱を収めた荷袋。
それだけは、壁へ立てかけずに膝の脇へ置いた。
マルケラの視線が、一度だけそこへ落ちた。
借りた空き家には、逃げた家族の道具がそのまま残っていた。
欠けた椀。
子供の背丈を刻んだ柱。
ルキナは壁際へ腰を下ろし、強張った指を一本ずつ開いた。
フィエリサも外套を脱がぬまま、低い椅子へ身を預けた。
屋根と壁に囲まれているだけで、張りつめていた身体から力が抜けていく。
マルケラは、空になりかけた水袋を持ち上げた。
「ルキナ。井戸へ行って、水を分けてもらってきなさい」
「はい」
ルキナが壁へ手をつき、立ち上がろうとした。
「私が行きます」
フィエリサが身を起こした。
ルキナが戸惑って顔を上げた。
「ですが、でん……お嬢様もお疲れでしょう」
「あなたはティトの手当をしてくれました。ありがとう。今は休みなさい」
フィエリサは椅子から立ち上がった。
「マルケラ、行きましょう」
マルケラは手にした水袋へ目を落とし、フィエリサの覆いを確かめてから頷いた。
◇
マルケラとともに井戸へ向かったフィエリサは、そこで自分の話を聞いた。
「西の兵が言ってたぞ。東の傭兵が、皇女様を攫ったんだと」
「この前来た行商人は、逆のことを言ってた。東の軍が、皇女様を助けに向かってるとさ」
「どっちが本当なんだろうな?」
「どっちでもいいさ。どっちが来ても、麦は持っていかれる」
誰も答えを出さないまま、桶を担いで散っていった。
フィエリサは布の下で俯いたまま、動かなかった。
西では、攫われた皇女。
東では、救出を待つ皇女。
そのどちらの話にも、彼女が東西いずれにも行かないと告げた夜は、存在しなかった。
彼らはフィエリサのために苦しんでいるのではなかった。
皇女の行方とは関係なく、戦はすでに彼らの暮らしを削り続けていた。
宮廷から歩いて半日の場所で、それは続いていた。
水袋を満たし、二人は空き家へ戻った。
◇
ケントゥルは長く留まるつもりはなかった。
道が開けば、明日にでも発つ。
マルケラが先に口を開いた。
「お嬢様。長く留まれば、この方々まで危険にさらします」
「分かっています」
フィエリサは、戸口の向こうへ目を向けた。
ティトの家の窓に、細い灯りが揺れている。
「それでも、このまま立ち去ることはできません」
それからケントゥルへ向き直った。
「私たちが去ったあとも、この方々は、徴発に怯えて暮らすことになるのですか?」
「だろうな。俺たちに、この集落すべてを守る力はない」
「……どうすればよいのです?」
「どうする、とは?」
ケントゥルは、フィエリサの顔を見た。
「例えば、集落の住人全員を連れて、別の場所にでも避難させる方法か?」
「……」
フィエリサは答えられなかった。
どこへ連れていくのか。
食料はどうするのか。
そもそも、この村の人々が自分について来る理由などない。
「忘れるな。今の俺たちには、何もできない」
「いいえ」
布の覆いが、肩の上で滑った。
翡翠色の髪が、一房だけ肩へこぼれた。
灯りのない部屋で、それでも色を失わなかった。
「私は、何もできないままでいるために、どちらにも行かないと決めたのではありません」
「なら、どうする」
ケントゥルの問いに、フィエリサは口を開いた。
だが、言葉は出なかった。
この集落を守る力はない。
行き先も、物資もない。
追手を避ける方法も分からない。
「……分かりません」
フィエリサは目を伏せた。
「けれど、このまま立ち去りたくはありません」
ケントゥルは答えなかった。
代わりに立ち上がり、外へ出た。
しばらくして戻ったケントゥルは、確かめたことをレグリウスへ伝えた。
村へ入る道。
裏手の畦から森へ抜ける道。
井戸の位置。
風の向き。
レグリウスは黙って聞いていた。
◇
マルケラが竈に小さな火を入れ、持参した穀物を煮ていた。
松明が見えたのは、その夜だった。
街道の遠く、木立の切れ目を、橙の点が連なって進んでいく。
ヴェロナの灯りが、端から順に消えていった。
軍の火が見えたら灯りを落とす。
それが、この村で十年続いた生き残り方だった。
ケントゥルは竈の火に灰をかぶせ、荷袋を背負った。
レグリウスが裏口の閂を外し、外の闇へ目を凝らす。
マルケラとルキナが、左右からフィエリサの腕を取った。
フィエリサたちは裏口の手前まで下がり、息を潜めた。
村へ入られたら、五人だけで裏から出る。
追手を、この家々から遠ざける。
ここで刃を抜けば、ヴェロナは皇女を匿った村になってしまう。
松明が近づいた。
橙の連なりが、木立の向こうで大きくなる。
蹄と、鎧の擦れる音まで届いた。
フィエリサは息を詰めた。
布の下で、汗が首筋を伝っていく。
裏口の闇の中で、翡翠の瞳だけが、松明の方角へ向いたまま動かなかった。
――そして、火は分岐で折れた。
橙の列は村へ続く道には入らず、東の街道へ流れていった。
音が薄れ、木立の輪郭がまた闇へ沈む。
ルキナが、長く止めていた息を吐いた。
「行ってくれて、よかったですね」
ケントゥルは荷袋を下ろさなかった。
「今夜はな」
やがて背から荷袋を外すと、戸と窓から光が漏れないことを確かめ、竈の灰を掻いた。
熾火はまだ残っていた。
荷の底から、油紙に包んだ焙煎豆を取り出した。
三週間、一度も開けなかった包みだった。
自分の水筒から、水を一杯分だけ小鍋へ移した。
炎は立てず、熾火の熱だけで、時間をかけて濃く煮出した。
焦げた香りに気づいたのか、フィエリサが小鍋へ目を向けた。
「それは、何ですか?」
「焙煎豆を煮出したものだ」
「美味しいのですか?」
「苦い」
ケントゥルは器へ注ぎ、小鍋を脇へ置いた。
フィエリサは、湯気の向こうの黒い水面をしばらく見つめていた。
乳も、甘味も入れない。
ケントゥルが口をつけると、焦げた苦みが舌の奥に残った。
湯気の立つ器を手に、空き家の戸口へ出た。
荷袋も持ち出し、腰を下ろすと足元へ置いた。
ヴェロナの家々は、まだどれも暗いままだった。
その暗がりの内側で、人々は軍の火が戻らないことを確かめるまで、息を潜めていた。
ケントゥルは、暗い家々を背に街道を見つめた。
かつては軍の側から村を見ていた男が、今は村の側から軍を見ていた。
◇
レグリウスは、戸口から少し離れた場所に立っていた。
松明の消えた東の道が、闇の中へ続いている。
目にした事実が、頭の中で一つの考えへ結びつき始めていた。
皇女は、このまま立ち去りたくないと言った。
ケントゥルは、今度もその望みを受け入れるのではないか。
皇女と皇統印を東へ戻せば、この戦は終わるかもしれない。
皇女を隠し続ければ、いずれヴェロナごと焼かれる。
東軍へ知らせれば――村を巻き込まず、皇女と印だけを渡せるかもしれない。
レグリウスは、まだその考えに名を与えぬまま、東へ続く道の闇を見つめ続けた。
第一部「皇女誘拐事件」完
三日だけ身を寄せるはずだったヴェロナで、フィエリサたちは新たな流民たちと出会う。
歩ける者だけを連れて進むのか、それとも立ち止まるのか――皇女は再び自ら決断する。
そして、煤で作った墨と古い家計帳に、最初の一人の名が記される。
次回、第二部・第6話「ヴェロナの朝」




