↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
サンシャーラ神話物語 翡翠の皇女  作者: 宝田旗子
第一部 皇女誘拐事件
6/7

第5話 帝都の影で

 捜索隊が入るたび、道は変わった。


 三週間、五人は同じ方角へまっすぐ歩けたことがなかった。

 昼は森と廃屋に潜み、動いたのは夜明け前と日没後だけだった。

 半日で着くはずの道程に、その日々が溶けていった。


 食料は切り詰め、廃屋に残された乾物や、放棄された畑の落ち穂を探した。

 足りない分は、野草と木の実で埋めた。


 衣服は汚れ、靴の縫い目はどれも開きかけていた。


 人の通う道へ近づいた日から、フィエリサは長い髪を布で覆っていた。

 白銀の軽鎧も、埃と泥を吸った外套の下へ隠していた。


 覆いの縁から零れる翡翠色の髪だけが、宮廷にいた頃の面影をわずかに残していた。


◇


 その子供を見つけたのは、ヴェロナへ続く廃道の途中だった。


 崩れた斜面の下で、うつ伏せに倒れている。


 ケントゥルが手で全員を止め、先に斜面の上を確かめた。

 廃道へ折れた車輪跡も、新しい軍靴の跡もない。


「こっちへ兵が入った跡はない」


 フィエリサは、その言葉を最後まで聞かなかった。

 すでに斜面を下りていた。


 マルケラとルキナも、その後を追った。

 ケントゥルとレグリウスも周囲を確かめてから、遅れて斜面を下りた。


 少年は生きていた。

 足首は輪郭を失うほど腫れ、脛には浅い裂傷が走っている。

 傷口には泥と、細かい小石が食い込んでいた。


 フィエリサが傍らへ膝をつくと、少年の目がわずかに開いた。


「……お姉ちゃんたち、誰?」


 掠れた声だった。


「旅の者です。あなたを助けます」


 フィエリサは身を屈め、声を和らげた。


「何があったのですか?」

「山羊を、森へ連れていって……兵が来たから、逃げて……ここから落ちて……」


 少年は顔をしかめ、言葉を詰まらせた。


「もう話さなくてよい。ルキナ、手当を」


 フィエリサが告げると、ルキナは膝をつき、裂傷の縁へ指を添えた。


「傷は深くありません。ただ、先に泥を落とさなければ」


 言ってから、腰の革袋を振った。

 中の水が、底で小さく鳴っただけだった。


 フィエリサは布の覆いを直した。

 外套の内で水ファルサを握ると、石がひやりと冷えた。


 フィエリサは空いた手を、傷の上へ差し出した。


 指先の周りで、空気が湿った。

 草の露が、土の底に残った水気が、細い糸になって掌へ集まっていく。


「水を使えるのか」


 ケントゥルの声に、マルケラは、ティトがフィエリサの手元を見ているか確かめた。


「そのまま、少しずつお願いいたします」


 ルキナは傷口から目を離さなかった。


 やがて掌の窪みから、糸ほどの水が傷口へ落ちはじめた。

 泥が緩み、小石が流れ、その下から赤い傷口が現れる。


 少年が、ぼんやりとフィエリサの掌を見た。


「……治せるの?」


 フィエリサは手を止めなかった。


「私にできるのは、洗うことだけです」


 水は多くない。

 傷を塞ぐこともできない。

 一行の飲み水を賄えるほどではない。


 それでも、泥だけは流れていった。


 ルキナが傷へ清潔な布を当て、腫れた足首を動かさぬよう、添え木を沿わせて固定した。


 ケントゥルとレグリウスが、外套と枝で担架を組んだ。


 ケントゥルが少年へ尋ねた。


「名前は?」

「……ティト」


 少年は担架の上で言った。


「村は、ヴェロナ……この道を、先へ行けば」


 ケントゥルとレグリウスの視線が交わった。

 一行が三週間かけて目指してきた集落の名だった。


 ケントゥルとレグリウスが担架を持ち上げた。

 前を持ったレグリウスが、ティトへ声をかけた。


「よかったな、坊主。俺たちもヴェロナへ行く途中だ」


 ティトは目を閉じたまま、わずかに頷いた。


◇


 村が見える手前で、二人は担架を下ろした。

 ケントゥルはフィエリサたちを手招きし、ティトから少し離れたところで口を開いた。


「戦火を逃れてきた貴族の娘。途中で荷の大半を失った。護衛が二人、侍女が二人。それでいく」


 マルケラが、フィエリサの覆いの結び目をもう一度きつく締めた。


「お嬢様。村では顔を伏せ、瞳を見られぬようになさってくださいませ」


 フィエリサは頷いた。


 自分の名がここで知られれば、この道の先にある家々がそのまま危険になる。

 それだけは、もう理解していた。


 夕方、五人はティトを担架で運び、ヴェロナへ入った。


 畑にいた者が、鍬を持ったまま後ずさる。

 扉が次々に閉じられ、犬が一匹だけ吠え続けた。


 武装した男が二人。

 村がまず見たのは、それだった。


 だが、担架の上にいるのがティトだと気づかれるまでに、時間はかからなかった。


「ティトだ」


 誰かが声を上げた。


 ケントゥルとレグリウスが担架を地面へ下ろすと、女が一人、家から走り出てきた。

 続いて二人。三人。


 ティトの母親は、息子の名を呼びながら担架へ縋りつき、それから固定された足首へ目を落とした。


 添え木。

 巻かれた布。

 泥を落とした脚。


「誰が、これを……」


 母親が顔を上げた。

 誰も答えなかった。


 村には、傷薬も、傷へ回せる清潔な布も、もう残っていなかった。


 集まった者たちの視線が、担架から五人へ移った。

 年嵩の男が、顔を伏せたフィエリサを見た。


「そっちの娘は、なぜ顔を上げない?」


 マルケラが半歩前へ出た。

 ケントゥルが、それを手で制した。


「戦火を逃れてきた貴族の娘だ。途中で荷の大半を失った。俺とこいつが護衛、あとの二人は侍女だ」


 ケントゥルはフィエリサへ向けられた視線を遮るように立った。


「顔を晒したくない事情がある。それだけだ」


 年嵩の男は、俯いたフィエリサをしばらく見ていた。


「一晩だけなら、村外れに空き家がある。だが、今夜だけだ」

「分かった。一晩借りる」


 ケントゥルはそれ以上を求めなかった。


 ティトは母親と村人たちに引き取られ、五人は年嵩の男に案内されて、村外れの空き家へ向かった。


 信用されたわけではない。

 ティトを助けたことが、一晩だけ泊める理由になった。


 空き家へ入ると、ケントゥルは荷を下ろし、ひとつだけを手元へ残した。


 毛布に包んだ小箱を収めた荷袋。

 それだけは、壁へ立てかけずに膝の脇へ置いた。


 マルケラの視線が、一度だけそこへ落ちた。


 借りた空き家には、逃げた家族の道具がそのまま残っていた。


 欠けた椀。

 子供の背丈を刻んだ柱。


 ルキナは壁際へ腰を下ろし、強張った指を一本ずつ開いた。

 フィエリサも外套を脱がぬまま、低い椅子へ身を預けた。


 屋根と壁に囲まれているだけで、張りつめていた身体から力が抜けていく。


 マルケラは、空になりかけた水袋を持ち上げた。


「ルキナ。井戸へ行って、水を分けてもらってきなさい」

「はい」


 ルキナが壁へ手をつき、立ち上がろうとした。


「私が行きます」


 フィエリサが身を起こした。


 ルキナが戸惑って顔を上げた。


「ですが、でん……お嬢様もお疲れでしょう」

「あなたはティトの手当をしてくれました。ありがとう。今は休みなさい」


 フィエリサは椅子から立ち上がった。


「マルケラ、行きましょう」


 マルケラは手にした水袋へ目を落とし、フィエリサの覆いを確かめてから頷いた。


◇


 マルケラとともに井戸へ向かったフィエリサは、そこで自分の話を聞いた。


「西の兵が言ってたぞ。東の傭兵が、皇女様を攫ったんだと」

「この前来た行商人は、逆のことを言ってた。東の軍が、皇女様を助けに向かってるとさ」

「どっちが本当なんだろうな?」

「どっちでもいいさ。どっちが来ても、麦は持っていかれる」


 誰も答えを出さないまま、桶を担いで散っていった。


 フィエリサは布の下で俯いたまま、動かなかった。


 西では、攫われた皇女。

 東では、救出を待つ皇女。


 そのどちらの話にも、彼女が東西いずれにも行かないと告げた夜は、存在しなかった。


 彼らはフィエリサのために苦しんでいるのではなかった。

 皇女の行方とは関係なく、戦はすでに彼らの暮らしを削り続けていた。

 宮廷から歩いて半日の場所で、それは続いていた。


 水袋を満たし、二人は空き家へ戻った。


◇


 ケントゥルは長く留まるつもりはなかった。

 道が開けば、明日にでも発つ。


 マルケラが先に口を開いた。


「お嬢様。長く留まれば、この方々まで危険にさらします」

「分かっています」


 フィエリサは、戸口の向こうへ目を向けた。

 ティトの家の窓に、細い灯りが揺れている。


「それでも、このまま立ち去ることはできません」


 それからケントゥルへ向き直った。


「私たちが去ったあとも、この方々は、徴発に怯えて暮らすことになるのですか?」

「だろうな。俺たちに、この集落すべてを守る力はない」

「……どうすればよいのです?」

「どうする、とは?」


 ケントゥルは、フィエリサの顔を見た。


「例えば、集落の住人全員を連れて、別の場所にでも避難させる方法か?」

「……」


 フィエリサは答えられなかった。


 どこへ連れていくのか。

 食料はどうするのか。

 そもそも、この村の人々が自分について来る理由などない。


「忘れるな。今の俺たちには、何もできない」

「いいえ」


 布の覆いが、肩の上で滑った。

 翡翠色の髪が、一房だけ肩へこぼれた。

 灯りのない部屋で、それでも色を失わなかった。


「私は、何もできないままでいるために、どちらにも行かないと決めたのではありません」

「なら、どうする」


 ケントゥルの問いに、フィエリサは口を開いた。

 だが、言葉は出なかった。


 この集落を守る力はない。

 行き先も、物資もない。

 追手を避ける方法も分からない。


「……分かりません」


 フィエリサは目を伏せた。


「けれど、このまま立ち去りたくはありません」


 ケントゥルは答えなかった。

 代わりに立ち上がり、外へ出た。


 しばらくして戻ったケントゥルは、確かめたことをレグリウスへ伝えた。


 村へ入る道。

 裏手の畦から森へ抜ける道。

 井戸の位置。

 風の向き。


 レグリウスは黙って聞いていた。


◇


 マルケラが竈に小さな火を入れ、持参した穀物を煮ていた。


 松明が見えたのは、その夜だった。


 街道の遠く、木立の切れ目を、橙の点が連なって進んでいく。


 ヴェロナの灯りが、端から順に消えていった。


 軍の火が見えたら灯りを落とす。

 それが、この村で十年続いた生き残り方だった。


 ケントゥルは竈の火に灰をかぶせ、荷袋を背負った。


 レグリウスが裏口の閂を外し、外の闇へ目を凝らす。

 マルケラとルキナが、左右からフィエリサの腕を取った。


 フィエリサたちは裏口の手前まで下がり、息を潜めた。


 村へ入られたら、五人だけで裏から出る。

 追手を、この家々から遠ざける。


 ここで刃を抜けば、ヴェロナは皇女を匿った村になってしまう。


 松明が近づいた。


 橙の連なりが、木立の向こうで大きくなる。

 蹄と、鎧の擦れる音まで届いた。


 フィエリサは息を詰めた。

 布の下で、汗が首筋を伝っていく。


 裏口の闇の中で、翡翠の瞳だけが、松明の方角へ向いたまま動かなかった。


 ――そして、火は分岐で折れた。


 橙の列は村へ続く道には入らず、東の街道へ流れていった。

 音が薄れ、木立の輪郭がまた闇へ沈む。


 ルキナが、長く止めていた息を吐いた。


「行ってくれて、よかったですね」


 ケントゥルは荷袋を下ろさなかった。


「今夜はな」


 やがて背から荷袋を外すと、戸と窓から光が漏れないことを確かめ、竈の灰を掻いた。

 熾火はまだ残っていた。


 荷の底から、油紙に包んだ焙煎豆を取り出した。


 三週間、一度も開けなかった包みだった。


 自分の水筒から、水を一杯分だけ小鍋へ移した。

 炎は立てず、熾火の熱だけで、時間をかけて濃く煮出した。


 焦げた香りに気づいたのか、フィエリサが小鍋へ目を向けた。


「それは、何ですか?」

「焙煎豆を煮出したものだ」

「美味しいのですか?」

「苦い」


 ケントゥルは器へ注ぎ、小鍋を脇へ置いた。


 フィエリサは、湯気の向こうの黒い水面をしばらく見つめていた。


 乳も、甘味も入れない。

 ケントゥルが口をつけると、焦げた苦みが舌の奥に残った。


 湯気の立つ器を手に、空き家の戸口へ出た。

 荷袋も持ち出し、腰を下ろすと足元へ置いた。


 ヴェロナの家々は、まだどれも暗いままだった。

 その暗がりの内側で、人々は軍の火が戻らないことを確かめるまで、息を潜めていた。


 ケントゥルは、暗い家々を背に街道を見つめた。

 かつては軍の側から村を見ていた男が、今は村の側から軍を見ていた。


◇


 レグリウスは、戸口から少し離れた場所に立っていた。


 松明の消えた東の道が、闇の中へ続いている。


 目にした事実が、頭の中で一つの考えへ結びつき始めていた。


 皇女は、このまま立ち去りたくないと言った。

 ケントゥルは、今度もその望みを受け入れるのではないか。


 皇女と皇統印を東へ戻せば、この戦は終わるかもしれない。

 皇女を隠し続ければ、いずれヴェロナごと焼かれる。

 東軍へ知らせれば――村を巻き込まず、皇女と印だけを渡せるかもしれない。


 レグリウスは、まだその考えに名を与えぬまま、東へ続く道の闇を見つめ続けた。



第一部「皇女誘拐事件」完

三日だけ身を寄せるはずだったヴェロナで、フィエリサたちは新たな流民たちと出会う。

歩ける者だけを連れて進むのか、それとも立ち止まるのか――皇女は再び自ら決断する。

そして、煤で作った墨と古い家計帳に、最初の一人の名が記される。

次回、第二部・第6話「ヴェロナの朝」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。