第4話 守れる範囲
十年前、皇帝アウレリヌスの長男、皇太子ピエトゥス夫妻が暗殺された。
残された一人娘フィエリサは、まだ七歳で、帝国を統治できる年齢ではなかった。
かといって二人の皇子のどちらか一人だけに統治を委ねれば、もう一方との争いを招きかねない。
皇帝は次男オルディウスと三男アンビリオを暫定的な共同皇帝とし、東西の統治を分け与えた。
これが、アウレリヌス帝の共同統治令だった。
ただし共同統治令には、フィエリサが十七歳となれば、帝国会議で皇位継承を再審議することが定められていた。
亡き皇太子の一人娘である彼女は、二人の叔父に優先する継承権を持っていた。
だが、アウレリヌス帝の崩御後、二人の叔父はそれぞれ自分こそ唯一の皇帝であると宣言した。
帝国は東西に割れ、内戦は十年続いた。
フィエリサは、そのまま当時の帝都レムリアの宮廷に囲い置かれた。
そして今、十七歳になった。
彼女がどちらの叔父を皇帝として認めるかで、もう一方の正統性が揺らぐ。
彼女自身の意思が、帝国の行方を左右する時が来ていた。
◇
東西双方を敵に回し、逃亡を始めてから数日が過ぎていた。
夜明け前の林は、まだ夜の色をしていた。
先頭はルキウスだった。
その後ろを、プロブスとレグリウスが戸板の担架を担いで進む。
戸板の両脇には、持ち手にする棒が縛りつけてあった。
カシオスは担架の上で目を閉じていた。
脇腹に巻いた布は幾度も替えられ、血を吸った古い布は荷の隅へまとめられている。
ルキナは休止のたびに膝をつき、布に新しい血が滲んでいないか確かめた。
確かめ終えると立ち上がり、また歩き出す。
マルケラは休息から立つたび、木の幹へ手をついた。
ルキナは歩く時に、右足だけをわずかに外へ流している。
フィエリサも立ち上がる前に、一度だけ動きを止めた。
ケントゥルは列の後ろから、三人の変化を見ていた。
空が白みはじめ、木立の隙間から最初の光が落ちた。
束ねられた長い髪の上を、その光が滑っていく。
土に汚れても、フィエリサの翡翠色は闇の中から一番先に浮かび上がった。
日が高くなる前に、ケントゥルは行程を組み直した。
一度に進む距離を縮め、担架を交代する間隔を短くする。
石と落葉の多い場所を選ぶ。
昼の移動はできるだけ避け、夜明け前と日没後を中心に動く。
水場と、屋根の残った廃屋を優先する。
担架を担ぐ者が荷を持たずに済むよう、交代に合わせて荷も持ち替えた。
「このままじゃ追いつかれる」
ルキウスが言った。
偵察から戻ってきたばかりで、まだ息が上がっている。
ケントゥルは、担架のカシオスと、疲れの見える三人へ目を向けた。
「これ以上、無理はさせられない」
「進めない者は置いていけばいい」
「それをするなら、最初から連れてきていない」
ルキウスは、それ以上言わなかった。
代わりに、偵察で見たものを報告した。
北の街道には検問があり、街道を避ける農道にも兵の影があった。
踏まれて間もない軍靴の跡も見つけたという。
◇
石の多い涸れ沢へ下りたのは、その日の夕方だった。
沢底には水がなく、拳ほどの石が一面に転がっている。
足跡は残らない。
石を踏む足音が、狭い沢に響いた。
二人が担架を下ろすと、ルキナがカシオスの額へ手を当てた。
熱が出ている。
布をめくって短く息を止めた。
赤黒く乾いていたはずの染みの中心に、新しい色が広がっている。
担架の上で、カシオスの目が一度開き、また閉じた。
「このままでは危険です。どこかで治療しないと」
「どこか、か――」
ケントゥルが低く繰り返した。
「私にできるのは、血を止めておくことだけです。傷を閉じるための道具も、薬もございません」
ルキナは血の滲んだ布を押さえたまま、顔を上げなかった。
フィエリサは担架の脇に立ち、カシオスの浅い呼吸を見つめていた。
助けるよう命じることはできても、治療ができる場所を生み出すことはできない。
その瞳が、行き場を求めるように涸れ沢の先へ向けられた。
プロブスは、担架の柄を握ったままカシオスを見下ろした。
「……こいつは、ここまでみたいだな」
ケントゥルが目を向ける。
「このまま俺たちについて来させたら、もたない」
プロブスは沢の上流を見た。
「街道から外れたところに、古い修道院がある。施療所が残ってるはずだ。ここからなら、担架でも半日だ」
「知っているのか」
「昔、そこで縫ってもらった」
帝国の施設ではない。
街道からも外れている。
追手の捜索が及ぶまでには、時間がかかるはずだった。
ルキナが顔を上げた。
「では、殿下もそちらへ向かわれては――」
「駄目だ」
ケントゥルが短く遮った。
「皇女まで連れていけば、施療所そのものを捜索に巻き込む。皇女と印がなければ、負傷した傭兵を仲間が運び込んだだけで通るかもしれない」
ルキナは言葉を失った。
フィエリサはしばらくカシオスを見つめ、それから静かに頷いた。
「……分かりました。私たちは行かない方がよいのですね」
「ああ」
プロブスは、担架の柄を握ったままケントゥルへ向き直った。
「俺はこいつをそこまで連れていく。東西どちらにつく気もない」
「なら、隊はここで解散だな」
「ああ。そうさせてもらう」
ルキウスが、担架の反対側の柄へ手をかけた。
「俺も降りる」
そのまま、ケントゥルを見上げる。
「街道だけじゃない。裏道にも見張りが出てる」
「だから降りるのか」
「ああ。ここまでは運よく抜けられた。だが、次も逃げ道に穴があるとは限らない」
ルキウスは、担架の柄から手を離さなかった。
偵察で見た兵の数と道筋を、頭の中でまだ数えているようだった。
「俺は二人の皇帝を敵に回す契約まではしていない」
「なら、施療所までこいつを運べ」
「それくらいはやる」
ケントゥルは荷を下ろし、干し肉と麦の袋を抜き出した。
「三人で三日もつ分は持っていけ」
ルキウスは、取り出された食料へ目を落とした。
「もし追手に捕まっても、あんたの行き先は知らないと言うから」
「本当に知らないだろう」
「……そりゃそうだな」
ルキウスは苦笑した。
食料袋の重みを確かめてから、ケントゥルは残っていた銀貨をプロブスの荷へ押し込んだ。
プロブスが、それを押し返そうとする。
ケントゥルは受け取らなかった。
「治療には金が要る」
「隊の金だろう」
「もう隊じゃない」
プロブスは、それ以上拒まなかった。
担架の上で、カシオスがわずかに首を動かした。
その目が、傍らのルキナへ向く。
乾いた唇が開いた。
「……ここまで持ったのは、あんたのおかげだ」
ルキナは言葉を返さず、深く頭を下げた。
カシオスは次に、ケントゥルを見た。
「隊長。あとは好きにしろ」
ケントゥルは何も答えず、一度だけ頷いた。
プロブスは担架を持ち上げる前に、レグリウスへ目を向けた。
「お前はどうするんだ?」
レグリウスはすぐには答えず、ケントゥルを横目で見た。
ケントゥルは荷を背負い直していたが、問いかけるような視線は向けなかった。
「俺は残る」
「隊はもうないぞ」
「分かってる。それでも、こいつと行く」
プロブスはケントゥルとレグリウスを見比べ、それ以上は何も言わずに頷いた。
ルキウスが担架の柄を握り直した。
「じゃあな、皇女様。達者でな」
フィエリサは、ルキウスをまっすぐに見た。
自分を連れ去った者の一人であることは変わらない。
それでも、負傷した仲間を施療所まで運ぼうとしていることも事実だった。
「あなたも、どうかご無事で」
ルキウスは少し意外そうに目を見開き、やがて笑って頷いた。
三人は沢底を伝って上流へ向かった。
石を踏む音が、しばらく聞こえていた。
五人は沢を横切り、東側の岩場を越えた。
◇
翌日の午後、遠くの丘の上に狼煙が立った。
一本。
少し離れて、また一本。
ケントゥルが手を上げ、全員を伏せさせた。
畑の縁に、干上がった用水路が走っている。
底には割れた土と枯れ草が溜まっていた。
五人はそこへ滑り込み、身を低くした。
農道を、四騎の騎兵が通った。
速くはない。
街道へ急ぐのではなく、道の両側を確かめながら進む速さだった。
誰も声を出さなかった。
ケントゥルが指で、それぞれの位置を示す。
マルケラはフィエリサの肩へ腕を回し、さらに低く伏せさせた。
ルキナも身じろぎせず、息を殺している。
蹄の音が農道を西へ遠ざかり、風の音だけが戻ってきた。
ケントゥルは半身を起こし、用水路へ滑り込んだ最後の数歩へ手を伸ばした。
土が動いた。
崩れた縁から土が落ち、重なっていた足跡が形を失った。
用水路を離れ、麦畑の縁を伝って進みはじめてから、フィエリサが口を開いた。
「先日の敷石も、排水路の壁も、同じ力なのですか」
ケントゥルは前を向いたままだった。
「土のファルサだ」
「以前から、戦場でもその力を使っていたのですか」
「使っていた。だが、追う側の考え方を覚えたのは軍だ」
後ろから、レグリウスが口を挟んだ。
「こいつも俺も、元は帝国兵だ」
フィエリサの足が止まった。
マルケラも同じところで止まった。
「昔の話だ」
ケントゥルは歩き続けた。
フィエリサは歩き出し、ケントゥルの後ろへついた。
「どちらの帝国に仕えていたのです?」
「もとは同じ帝国軍だ。分裂した時、俺たちの隊は東方にいた。そのまま東軍に組み込まれた」
それ以上は言わなかった。
レグリウスがケントゥルの横へ並んだ。
歩調は乱れていない。
声も高くなかった。
「なぜ、まだ皇女についている」
「契約だからだ」
「契約?」
レグリウスは眉を寄せた。
「今の皇女に何ができる。兵も金もない。このままじゃ、何もできないまま捕まるだけだ。俺たちだって――」
「命が惜しいなら、お前も別の道を行け」
レグリウスは口を閉じた。
それでも、離れなかった。
「……報酬は、あるのか?」
「後払いだ」
「払える当てはあるのか?」
「さあな」
ケントゥルは前だけを見ていた。
「行く当てはあるのか?」
「……」
ケントゥルは答えず、歩調も変えなかった。
レグリウスは眉間に皺を寄せた。
「……期限も、行き先もない。それを契約と呼ぶのか」
「行き先なら決まってる」
「どこだ」
ケントゥルは、後ろを歩くフィエリサを振り返った。
「皇女が、自分で行き先を選べるところまでだ」
レグリウスは、ケントゥルの視線を追わずに言った。
「それは行き先じゃない」
「俺はそれで受けた」
レグリウスは少し黙った。
「……それだけか」
「俺が連れ出した」
「東西のどちらにも行かないと決めたのは皇女だ」
「その決断を認めたのは俺だ。途中で捨てれば、どちらかへ渡すのと変わらない」
「そんな場所はない」
「――そうかもしれないな」
しばらく、足音だけが続いた。
「昨日の別れ方、あんたらしくなかったな」
「何がだ」
「なぜ、あいつらに三日分の食料と金まで持たせた」
「施療所まで要る」
ケントゥルは足を止めずに答えた。
「そのまま別れて、あいつらに追い剥ぎでもさせるわけにはいかない」
「軍なら、任務を続ける者の分を優先する」
「これは軍じゃない」
レグリウスの声が少し低くなった。
「橋の時のあんたなら、そんな判断はしなかった」
ケントゥルの足が止まった。
「あの話はするな」
「あんたが命令を守ったから、俺たちは生きている」
「黙れ」
「間違っていたと言うのか」
ケントゥルは答えなかった。
荷を背負い直し、また歩き出した。
その背を、フィエリサが見ていた。
何かを尋ねようと、口を開く。
マルケラが小さく首を振った。
フィエリサは口を閉じた。
◇
それでも、メディオラムの城壁は南の地平から消えていなかった。
街道を避け、負傷者に合わせて迂回を重ねた結果だった。
メディオラムの宮廷から、歩けば半日で来られる場所に、刈られていない畑が広がっている。
麦は実ったまま倒れていた。
畦には人の膝ほどの雑草が伸び、道沿いの柵は倒れたままだった。
畑の外れを、一組の家族が歩いていた。
父と母、それに幼い子が二人。
荷車も馬もなく、四人は持てるだけの荷を背負っている。
フィエリサが足を止め、自分の荷へ手をかけた。
「駄目だ」
ケントゥルの声は低かった。
「今は助けられない」
「何もせずに通り過ぎるのですか」
「食料を分ければ、その分だけ俺たちが歩ける日が減る」
フィエリサが、まっすぐに顔を上げた。
「では、食料を使わずにできることはありませんか」
ケントゥルは、しばらく黙っていた。
それから畑を横切り、父親のところまで歩いていった。
男は警戒して身を固くした。
「南へ抜けるなら、日が落ちてから用水路沿いに行け。今の巡回は西へ向かった」
ケントゥルは、倒れた麦の向こうを指した。
男は何度か瞬きをし、それから深く頭を下げた。
一行が畑を離れるあいだ、フィエリサは前だけを見て歩いた。
荷へ伸ばしかけた手は、もう下ろされていた。
◇
その夜は、崩れた石垣の裏で休むことにした。
火は焚かない。
交代の見張りだけを決め、あとはそれぞれが身体を丸めた。
マルケラが、ケントゥルの側へ来た。
皇女の眠る位置と、ケントゥルの位置の両方を見渡せる場所で立ち止まる。
彼女の視線が、地面へ置かれた荷袋へ落ちた。
その底には、毛布に包まれた皇統印の小箱がある。
「殿下のご意思を尊重なさったとはいえ、その殿下を最初に奪おうとしたのもあなたです」
「そうだ」
「否定なさらないのですね」
「否定できることじゃない」
マルケラは荷袋から目を離さなかった。
「あなたが再び殿下を東へ引き渡すことを選べば、殿下は御名と印の双方を失います」
「そうかもしれんな」
「分かっていて、なお、ご自分でお持ちなのですね」
ケントゥルは、荷袋の口を締め直した。
「俺に預けると決めたのは、あいつだ」
マルケラは答えなかった。
立ち去る前に、荷袋の位置をもう一度だけ確かめた。
◇
翌日の夕方、涸れた小川の岸で休んだ。
少し離れたところで、マルケラとルキナも休んでいた。
フィエリサは、ケントゥルの隣の石へ腰を下ろした。
「あなたほど戦場を知っているのなら、なぜ戦乱を終わらせようとしないのですか」
「十年続いている内乱を、一人の傭兵が終わらせられるとでも思っているのか?」
フィエリサは、一瞬だけ言葉に詰まった。
「――東西の皇帝が戦を続けるのであれば、お二人とも皇位から退ければよいではありませんか」
ケントゥルは、水のない川底を見ていた。
「西も東も軍団を持っている。だが、今のお前はどうだ?」
フィエリサは、膝の上で組んだ指に力を込めた。
「軍団を倒すには、軍団がいる。兵士と食料、それを維持する金はどこにある?」
ケントゥルは返事を待たずに続けた。
「お前の名と印だけでは、二人を皇位から退けられない」
「では、必要なものを集めればよいのです」
「簡単に言うな」
「簡単だとは思っていません。しかし……」
ケントゥルは、初めて彼女の方を向いた。
「兵を集めれば、その兵に食わせるために村から穀物を取ることになる」
ケントゥルは、フィエリサを見たまま続けた。
「金を集めれば、払えない者からも税を取り立てることになる。皇帝を倒すまでに、あの畑で見たような人間が何人死ぬと思っている」
フィエリサは、その問いには答えられなかった。
それでも、視線は逸らさなかった。
風が、涸れた川床の砂を薄く運んでいった。
「……このままでは、あの畑は来年も耕されぬまま、荒れてゆくのですね」
議論はそこで途切れた。
それでもフィエリサは、その場を離れなかった。
「まだ、お礼を言っていませんでした」
「何の」
「停戦地帯で私を助け、私自身に行き先を選ばせてくれたことです」
「成り行きだ」
「成り行きであっても、あなたが選んだことに変わりはありません」
フィエリサが立った。
ケントゥルの前へ回り、身を屈める。
その頬へ、短く口づけた。
皇族が命を救った者へ謝意を示す、古い礼だった。
ケントゥルの動きが、一瞬止まった。
表情はほとんど変わらなかった。
「助けてくれたことには、感謝しています」
「……そうか」
ケントゥルは、それ以上何も言わなかった。
「それから、先ほどの話で、私の考えがあまりに浅かったことを知りました。ですが、知らないままでいるつもりもありません」
フィエリサは身を引いた。
その瞳は、ケントゥルから逸れなかった。
フィエリサの表情は、いつもよりわずかに柔らいでいた。
◇
メディオラムから外へ向かう主要街道は、西軍の検問で塞がれていた。
東へ抜ける道の先にも、受領部隊の捜索網が広がっている。
ケントゥルは枝を拾い、地面へ線を引いた。
街道。
関所。
南へ回る農道。
フィエリサたちも、その周りに集まった。
ケントゥルは線の途中で枝を止めた。
「徴発で人が減った集落がある。役人も来ない。街道から離れているから、大部隊は入りにくい。井戸と空き家が残っているはずだ」
ケントゥルは、地面に引いた線を指した。
「今の足で、関所を避けて遠くまでは行けない」
フィエリサが、地面に引かれた線を見た。
「近くへ戻るのですか?」
「追う側は、俺たちが帝都から離れると思っている」
マルケラが不安そうに眉を寄せた。
「危険ではありませんか?」
「どこへ行っても危険だ」
一晩、長くて二晩。
そこで物資を整え、追手の動きを見てから進路を決め直す。
レグリウスが枝の先を見ながら言った。
「その集落で身を隠した後はどうする」
「追手を振り切ってから考える」
レグリウスは顔を上げた。
「……俺たちは、元々皇女を東に連れて行くはずだった」
レグリウスは、しばらく地面に引かれた線を見つめた。
「皇女が行き先を選べる場所……か」
「何が言いたい」
「そんなところがあったとしても、結局は西からも東からも狙われることは変わらないぞ」
ケントゥルは枝を地面へ置いた。
「狙われない場所を探すとは言ってない。あいつが自分で選べるところまで連れていく。それだけだ」
フィエリサは何も言わなかった。
レグリウスは何も返さず、枝の先へ目を落とした。
◇
夜明け前、一行は再び歩き出した。
前を行くフィエリサの長い髪が、風に揺れている。
その隣では、足を痛めたルキナをマルケラが支えていた。
ケントゥルは、足を痛めた者に合わせて歩調をわずかに落とした。
レグリウスには、その歩調が妙に引っかかった。
橋を落とした夜の指揮官なら、選ばなかった速さだった。
レグリウスは、前を行くフィエリサの背に目を向けた。
最初は、ただ東へ引き渡せば済む皇女だと思っていた。
戦場も知らず、誰かに守られ、誰かに行き先を決められる娘だと。
だが、もうそうは見えない。
自分で行き先を選び、ケントゥルの判断まで変え始めている。
やがて東西どちらにも収まらぬ旗印になるかもしれない。
それが、レグリウスには危険だった。
三週間の逃避行の末、フィエリサたちは小さな村ヴェロナへ辿り着く。
そこで彼女が目にしたのは、皇女の行方よりも、戦争そのものに暮らしを削られた人々の現実だった。
そして夜、村へ迫る軍の火を前に、レグリウスの中である考えが形を取り始める。
次回、第5話「帝都の影で」




