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サンシャーラ神話物語 翡翠の皇女  作者: 宝田旗子
第一部 皇女誘拐事件
4/8

第3話 契約の外へ

 街道には出なかった。

 一行は林の縁と涸れ沢の底を選んで進んだ。


 東側から指定された受け渡し地点は、まだ先にある。

 皇女と皇統印を東へ運ぶ契約は、形の上ではまだ生きていた。


 カシオスの脇腹は、矢で深く裂かれていた。


 腹の中までは達していないとルキナは言ったが、男は自分の足では進めず、プロブスの肩へ体重を預けたまま、半ば引きずられるように歩いていた。


 日が沈みきる前に、街道沿いの廃宿駅へ着いた。

 ここは、受け渡し前の待機場所として指定されていた。


 かつては馬と荷を替えるための施設だったのだろう。

 屋根は片側が落ち、馬留めの木は腐って、指で押せば崩れそうだった。

 壁には雨染みが幾筋も垂れている。

 飼葉桶は、どれも空だった。


 プロブスが土間へカシオスを下ろすと、男は歯を鳴らして息を吸った。

 汗が引いて、震えが来ている。


 ルキナが膝をつき、傷に当てた布の表面へ指を当てた。

 新しい血の滲みを確かめる手つきには、迷いがなかった。


「このままでは身体が冷えます。横にして、傷を押さえ直させてください。雨風をしのげる場所はございませんか」


 ケントゥルがプロブスへ顎を振ると、男は奥の廊下へ入っていった。


 フィエリサがカシオスへ目を向けた。


 割れた壁から差す最後の斜光が、ひとつにまとめられた長い髪の上を滑った。


 土と血に汚れた廃屋の中で、フィエリサの髪だけが、深い翡翠色を返している。


 カシオスへ向けられた瞳も、同じ色だった。

 濁りのない緑の奥に、迷いのない光があった。


 ほどなく、プロブスが戻った。


「廊下を曲がった先に、一室だけ残ってる。寝台は割れてるが、壁と屋根はある」


 マルケラが即座に言った。


「では殿下、そちらでお休みくださいませ。慣れない道を歩かれて、お疲れでございましょう」

「彼を、先に中へ」


 フィエリサの声は、頼みでも遠慮でもなかった。

 マルケラが口を開こうとする。

 その前に、フィエリサは続けた。


「重傷の者を土間に残して、私だけ休むことなどできません」

「殿下――」

「部屋が一つしかないのなら、私もそこで休みます。それで足ります」


 マルケラは何も言えず、頭を下げた。


 ケントゥルは口を挟まなかった。

 ただ、プロブスへ短く合図した。


「運べ」


 カシオスは両側から支えられ、廊下の奥へ運ばれた。

 ルキナは傷口を押さえたまま、半歩ずつ横へ歩いた。

 床へ外套が何枚か重ねて敷かれ、男はそこへ横たえられた。


 フィエリサは壁際へ腰を下ろした。

 白銀の膝当てが、埃の上で鈍く光った。


 マルケラは、土間から小部屋へ続く廊下の曲がり角に立った。

 肩越しに皇女を確かめ、顔を上げれば土間を見渡せる位置だった。


 フィエリサが、立ち去ろうとする男を呼び止めた。


「あなた方は、長く傭兵をしているのですか?」

「長い奴が多い。俺もな」


 短い返事だった。


 フィエリサは、その横顔をしばらく見てから尋ねた。


「あなたの名は?」

「ケントゥルだ」


 それだけ答えると、彼はルキウスを連れて外へ出た。


◇


 裏手には物見台の骨組みが残っていた。

 ケントゥルは骨組みを登り、残った梁へ身を伏せた。


 受け渡し地点は、街道が浅い谷を渡る場所にあった。


 篝火はまだ焚かれていない。

 それでも、日の残りで人の輪郭は数えられた。


 槍兵が、街道の両側を塞いでいる。

 斜面の上には弓を持った兵が伏せていた。

 森へ走った者を、背から射られる位置だった。


 馬車が一台。

 客を乗せるための造りではない。

 荷台は頭上まで格子で囲まれ、乗降口には外から閂を掛ける造りになっている。


 そして、見張りの多くは谷の外ではなく、受け渡し場の内側へ視線を向けていた。


「……何人だ」


 ルキウスが声を潜めた。


 ケントゥルは答えず、端からもう一度数え直した。

 皇女を一人受け取るには、多すぎる。


 ケントゥルの暗い赤毛が、風に乱れた。

 夕映えを受けた毛先だけが、鈍い赤を帯びていた。

 それを払いもせず、彼は谷を見ていた。


「迎えるための兵じゃない」


 いつの間にか、骨組みの下にレグリウスが立っていた。

 レグリウスも梁へ上がり、自分の目で同じ配置を確かめた。


◇


 角灯の光が、崩れた戸口の向こうで揺れた。


 現れたのは一人だった。

 ケントゥルとレグリウスが、土間でその男を迎えた。


 覆いを半分だけ開けた角灯を土間へ置き、男は名乗らずにケントゥルへ折り畳んだ書きつけを差し出した。


「受け渡し前の確認に参りました」


 東側受領部隊の指揮官名義で出された追加指示だった。


 皇帝の勅令ではない。

 封蝋に押されていたのも、部隊印だった。


 記されていたのは二行だけだった。


 移送対象は、皇女フィエリサ・ヴィリディア一名および皇統印とする。

 皇女の身柄および皇統印を損なうことなく指定地点まで移送せよ。


 ケントゥルは二度読んだ。

 短い。

 書かれていないことのほうが多い紙だった。


「谷の受け渡し場では、書面に記された対象のみを受領します」


 ケントゥルは紙から目を上げた。


「侍女が二人いる」

「承知しています」


 男はそれだけ答えて、外套の合わせへ手をやった。

 夜気が入るのを嫌ったような、何でもない動作だった。


 留め具を掛け直したとき、腰の剣の柄頭が、外套の隙間から覗いた。

 抜く気配はない。

 ただ、そこにあることが見えただけだった。


 廊下の曲がり角に立つマルケラの腕に、力がこもった。

 小箱の角が、侍女長の胸元へ食い込む。


「受け取らないなら、どうする」

「随行者の処置は、受領部隊指揮官が現地で判断するとのことです」


 男は角灯を取り上げた。

 覆いが下がり、土間の影が一度、大きく動いた。

 それきり感情を見せず、男は背を向けた。


「受け渡し時刻を過ぎれば、受領部隊がこちらを捜しに来ます」


 戸口の外で、足音が土を噛んで遠ざかっていく。

 廊下の奥から布を裂く音がした。

 続いて、カシオスの短いうめきが漏れた。


 マルケラは動かなかった。

 振り向かず、皇女へ何も告げず、ただ小箱を抱える腕を組み直しただけだった。


◇


 崩れかけた厩舎の陰で、ケントゥルは谷の方角を指した。


「兵の配置を見ただろう。あれは皇女を客として迎える陣形じゃない」

「……西へ戻して殺されるよりはましだ」

「侍女二人はどうなると思う?」


 レグリウスの視線が、廃宿駅の壁の向こうへ流れた。


 灯りは点いていない。


 短い沈黙があった。

 それから彼は、ケントゥルの手の中の紙を指した。


「書面には一言もない……あれは末端が口で足した話だ。陛下のご命令ではない」

「その口で足す連中へ、今から皇女を渡すのか?」

「引き渡しが済めば、正式な報告が中央へ上がる。あの場で好きにはさせない」


 レグリウスの声は荒れていなかった。

 この男が頼みにしているのは東皇帝ではなく、書面に残った命令なのだと、ケントゥルには見えた。


 ケントゥルは反論を重ねなかった。

 レグリウスに背を向け、書きつけを手にしたまま、廊下の奥へ戻った。


◇


 フィエリサは、割れた壁から差す残りの明かりへ、ケントゥルから受け取った指示書をかざした。


 二行を読み終え、それでも視線を上げず、もう一度だけ、自分の名を読み直した。


 肩越しに書面を覗き込んだマルケラが、口を開かないまま顔を上げた。


 そこに記されていたのは、フィエリサ・ヴィリディアの名と皇統印だけだった。


 マルケラの名もない。

 ルキナの名もない。


 侍女という言葉すら、なかった。


 書かれていない者は、受け取られない。


「向こうが受け取るのは、お前と印だけだ。侍女二人をどうするかは、現地の指揮官が決めると言われた」


 ケントゥルは紙の端を指で示した。


 フィエリサの眉がわずかに寄った。


「なぜです。二人は、ただ私に仕えているだけです」

「東から見れば、そうとは限らない。西がお前につけた監視役か、間者だと言えば、拘束する理由にはなる」

「では、あなた方も?」

「俺たちも、西の間者に仕立てられて口を塞がれるかもしれん」


 ケントゥルはそこで言葉を切った。


「受け渡し場には、外から閂を掛ける馬車があった。兵は、森へ逃げる者を射られる位置についていた」


 フィエリサの指が、紙の端で止まった。


「ただ、殺されると決まったわけじゃない。そこは俺の憶測だ」


 ケントゥルは続けた。


「東へ行けば、西にいた時よりいい扱いを受けるかもしれない。侍女二人もそのまま側に置かれるかもしれない。俺には分からん」


 それから、フィエリサの手の中の指示書へ目を落とした。


「ただ、東への引き渡しを拒めば、西だけじゃなく東からも追われる」


 ケントゥルは、まっすぐに彼女を見た。


「俺に分かるのは、ここまでだ」


 フィエリサは答えず、手元の紙を見つめた。


 床では、ルキナが巻き終えた布の上から、カシオスの傷を押さえていた。

 手は離していなかったが、その横顔は固かった。


 傍らのマルケラは、皇統印の小箱を胸元へ抱いたまま、何も言わずフィエリサを見ていた。

 その顔には、不安が隠しきれずに浮かんでいる。


 フィエリサはしばらく黙り、それから尋ねた。


「あなたは、どの道を選ぶつもりですか?」

「俺が決めれば、今度は俺の都合で運ぶことになる」


 薄闇の中でも、ケントゥルの短い赤毛だけはかすかに見分けられた。


「決めろ。お前の名前と命だ」


 風が、割れた壁の隙間を鳴らして通り抜けた。


 フィエリサは、すぐには答えなかった。


 宮廷では、どこへ行くかも、誰のもとに立つかも、自分では決められなかった。

 停戦地では、生き延びるためにこの男についてきた。

 今、問われているのは、その先だった。


 呼吸を一つ整えて、彼女は言った。


「西へは戻れません。東で厚遇されるとしても、私の名と印を誰かの判断に委ねるつもりはありません」


 薄闇の中で、フィエリサはケントゥルから目を逸らさなかった。


「ならば……私は、どちらにも行きません」


 誰も、すぐには口を開かなかった。


「ケントゥル」


 初めて、彼女はその名を呼んだ。


「あなたに命じます。私と共に来なさい」

「断る」


 マルケラが息を呑んだ。

 フィエリサも、一瞬だけ言葉を失った。


「俺は、お前の臣下じゃない」


 ケントゥルは彼女を見下ろしたまま、それ以上は言わなかった。

 フィエリサの唇が、わずかに動いた。


「……では、雇います」

「報酬は」

「今の私には、支払えるものがありません」


 フィエリサはそう答え、それからマルケラの抱えた小箱へ目を向けた。


「……いいえ。私の名と、この印だけは残っています」

「印は報酬にならない」

「承知しています」


 フィエリサは目を逸らさなかった。


「ですが、私があなたを雇い、報酬を支払うという約束の証にはなります」


 ケントゥルはしばらく黙っていた。


「どこまで連れていけばいい」

「東西どちらの軍にも捕らわれず、私が自分の行き先を選べるところまで」

「そんな場所があるとは限らない」

「それでも、探します」


 暗がりの中で、ケントゥルが息を吐いた。


「後払いか」

「必ず支払います」

「なら、死ぬな」


 ケントゥルは手を差し出した。


「死者からは取り立てられない」


 フィエリサは指示書をケントゥルへ返し、それから差し出された手を取った。

 傭兵の掌は硬く、乾いていた。


 それが、フィエリサが自らの意思で結んだ最初の契約だった。


 フィエリサはマルケラへ手を差し出した。


 侍女長は動かなかった。


 それでも、主の手が下ろされないと分かると、ためらいながら小箱を渡した。


「私たちが捕らえられれば、この箱は真っ先に奪われます」


 フィエリサは両手でそれを持ち、ケントゥルへ差し出した。


「あなたに預けます」


 マルケラの声が低くなった。


「殿下。皇統印を、奪いに来た者へお預けになるのですか」


 フィエリサはケントゥルを見たまま答えた。


「今も奪うつもりなら、私に決めさせたりはしません」


 ケントゥルは黙って受け取った。


「報酬じゃないんだろう」

「はい」


 フィエリサは小箱から手を離した。


「私たちの契約と、約束の証です」


 彼は荷袋の前に膝をつき、小箱を毛布で包んで底へ収めた。

 それから立ち上がり、東へ続く道の方角に背を向けた。


「進路を変える」


 戸口の外で、レグリウスが動いた。


「契約を破るのか」

「そうなる」

「東西双方から追われるぞ」

「承知の上だ」


 ルキウスが、思わず口を挟んだ。


「本気か。引き渡さなきゃ、報酬もなくなるぞ」


 ケントゥルは答えなかった。

 プロブスが低く息を吐く。


「……話はあとだ。受け渡しの刻限まで、そう長くない。ここにいれば東の連中が来る」


 レグリウスも、ルキウスも、プロブスも賛成とは言わなかった。

 だが、今ここで離れるとも言わなかった。


 プロブスが廃屋から外れかけた戸板を運び出し、その上へ外套を敷いた。

 カシオスを担架へ乗せる。


 レグリウスは槍をルキウスへ渡し、プロブスとともに担架を持ち上げた。


 一行は廃宿駅を発った。


◇


 受け渡し時刻を過ぎても、傭兵たちは現れなかった。


 東側の受領部隊は廃宿駅へ踏み込んだ。

 残っていたのは血の染みと、踏み荒らされた古い藁だけだった。


 皇女も、印も、移送を請け負った五人も見つからない。


 報告には、契約違反および移送対象未引渡しと記された。


 同じ夜、西の帝都メディオラムでは別の文言が用意されていた。


 東帝国の傭兵が停戦の場を破り、皇女と皇統印を攫った――西帝国はそう公表した。


 夜明け前、東西それぞれの街道守備隊へ人相書きが回された。

 そこに挙げられた五人は、東西で同じだった。


◇


 廃宿駅を発った時、受け渡しの刻限はまだ来ていなかった。


 戸板に外套を敷いた担架が、歩くたびに軋んだ。


 カシオスの上には乾いた外套がもう一枚重ねられ、ルキナは折を見て担架を止めさせ、巻いた布に血が滲んでいないかを指で確かめた。


 街道へは戻らず、涸れ沢を伝って森の奥へ入る。


 重傷者を運びながらでは、速くは進めない。

 それでも受領部隊が廃宿駅へ踏み込む前に、追跡しにくい涸れ沢の奥まで移る必要があった。


 ケントゥルは最後に一度だけ足を止め、来た道を振り返った。

 夜風が、暗い赤毛をかき上げた。


 追手の姿を確かめる必要はなかった。


 東の受け渡し場では、今ごろ空の馬車が待っている。

 西は、皇女を失った理由を自分たちの落ち度にはしない。


「これで、両方が敵になった」


 誰も答えなかった。


 フィエリサは、小箱を収めたケントゥルの荷へ一度だけ目をやった。


 木立の隙間から落ちた月明かりが、フィエリサの長い翡翠色の髪を撫でていく。

 闇の中ではほとんど黒く沈んでいたが、光に触れた一筋だけが、深い緑を返した。


 フィエリサが顔を上げると、同じ色の瞳にも細い月光が宿った。


 それから、自分の足で、契約の外にある道へ踏み出した。

東西双方から追われる逃避行の中、負傷した仲間を前に一行は最初の別れを選ぶ。

追手をかわすケントゥルの過去と、彼がフィエリサを守り続ける理由も少しずつ明らかに。

そしてフィエリサは、戦乱を終わらせるために背負うものの重さを知っていく。

次回、第4話「守れる範囲」

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