第3話 契約の外へ
街道には出なかった。
一行は林の縁と涸れ沢の底を選んで進んだ。
東側から指定された受け渡し地点は、まだ先にある。
皇女と皇統印を東へ運ぶ契約は、形の上ではまだ生きていた。
カシオスの脇腹は、矢で深く裂かれていた。
腹の中までは達していないとルキナは言ったが、男は自分の足では進めず、プロブスの肩へ体重を預けたまま、半ば引きずられるように歩いていた。
日が沈みきる前に、街道沿いの廃宿駅へ着いた。
ここは、受け渡し前の待機場所として指定されていた。
かつては馬と荷を替えるための施設だったのだろう。
屋根は片側が落ち、馬留めの木は腐って、指で押せば崩れそうだった。
壁には雨染みが幾筋も垂れている。
飼葉桶は、どれも空だった。
プロブスが土間へカシオスを下ろすと、男は歯を鳴らして息を吸った。
汗が引いて、震えが来ている。
ルキナが膝をつき、傷に当てた布の表面へ指を当てた。
新しい血の滲みを確かめる手つきには、迷いがなかった。
「このままでは身体が冷えます。横にして、傷を押さえ直させてください。雨風をしのげる場所はございませんか」
ケントゥルがプロブスへ顎を振ると、男は奥の廊下へ入っていった。
フィエリサがカシオスへ目を向けた。
割れた壁から差す最後の斜光が、ひとつにまとめられた長い髪の上を滑った。
土と血に汚れた廃屋の中で、フィエリサの髪だけが、深い翡翠色を返している。
カシオスへ向けられた瞳も、同じ色だった。
濁りのない緑の奥に、迷いのない光があった。
ほどなく、プロブスが戻った。
「廊下を曲がった先に、一室だけ残ってる。寝台は割れてるが、壁と屋根はある」
マルケラが即座に言った。
「では殿下、そちらでお休みくださいませ。慣れない道を歩かれて、お疲れでございましょう」
「彼を、先に中へ」
フィエリサの声は、頼みでも遠慮でもなかった。
マルケラが口を開こうとする。
その前に、フィエリサは続けた。
「重傷の者を土間に残して、私だけ休むことなどできません」
「殿下――」
「部屋が一つしかないのなら、私もそこで休みます。それで足ります」
マルケラは何も言えず、頭を下げた。
ケントゥルは口を挟まなかった。
ただ、プロブスへ短く合図した。
「運べ」
カシオスは両側から支えられ、廊下の奥へ運ばれた。
ルキナは傷口を押さえたまま、半歩ずつ横へ歩いた。
床へ外套が何枚か重ねて敷かれ、男はそこへ横たえられた。
フィエリサは壁際へ腰を下ろした。
白銀の膝当てが、埃の上で鈍く光った。
マルケラは、土間から小部屋へ続く廊下の曲がり角に立った。
肩越しに皇女を確かめ、顔を上げれば土間を見渡せる位置だった。
フィエリサが、立ち去ろうとする男を呼び止めた。
「あなた方は、長く傭兵をしているのですか?」
「長い奴が多い。俺もな」
短い返事だった。
フィエリサは、その横顔をしばらく見てから尋ねた。
「あなたの名は?」
「ケントゥルだ」
それだけ答えると、彼はルキウスを連れて外へ出た。
◇
裏手には物見台の骨組みが残っていた。
ケントゥルは骨組みを登り、残った梁へ身を伏せた。
受け渡し地点は、街道が浅い谷を渡る場所にあった。
篝火はまだ焚かれていない。
それでも、日の残りで人の輪郭は数えられた。
槍兵が、街道の両側を塞いでいる。
斜面の上には弓を持った兵が伏せていた。
森へ走った者を、背から射られる位置だった。
馬車が一台。
客を乗せるための造りではない。
荷台は頭上まで格子で囲まれ、乗降口には外から閂を掛ける造りになっている。
そして、見張りの多くは谷の外ではなく、受け渡し場の内側へ視線を向けていた。
「……何人だ」
ルキウスが声を潜めた。
ケントゥルは答えず、端からもう一度数え直した。
皇女を一人受け取るには、多すぎる。
ケントゥルの暗い赤毛が、風に乱れた。
夕映えを受けた毛先だけが、鈍い赤を帯びていた。
それを払いもせず、彼は谷を見ていた。
「迎えるための兵じゃない」
いつの間にか、骨組みの下にレグリウスが立っていた。
レグリウスも梁へ上がり、自分の目で同じ配置を確かめた。
◇
角灯の光が、崩れた戸口の向こうで揺れた。
現れたのは一人だった。
ケントゥルとレグリウスが、土間でその男を迎えた。
覆いを半分だけ開けた角灯を土間へ置き、男は名乗らずにケントゥルへ折り畳んだ書きつけを差し出した。
「受け渡し前の確認に参りました」
東側受領部隊の指揮官名義で出された追加指示だった。
皇帝の勅令ではない。
封蝋に押されていたのも、部隊印だった。
記されていたのは二行だけだった。
移送対象は、皇女フィエリサ・ヴィリディア一名および皇統印とする。
皇女の身柄および皇統印を損なうことなく指定地点まで移送せよ。
ケントゥルは二度読んだ。
短い。
書かれていないことのほうが多い紙だった。
「谷の受け渡し場では、書面に記された対象のみを受領します」
ケントゥルは紙から目を上げた。
「侍女が二人いる」
「承知しています」
男はそれだけ答えて、外套の合わせへ手をやった。
夜気が入るのを嫌ったような、何でもない動作だった。
留め具を掛け直したとき、腰の剣の柄頭が、外套の隙間から覗いた。
抜く気配はない。
ただ、そこにあることが見えただけだった。
廊下の曲がり角に立つマルケラの腕に、力がこもった。
小箱の角が、侍女長の胸元へ食い込む。
「受け取らないなら、どうする」
「随行者の処置は、受領部隊指揮官が現地で判断するとのことです」
男は角灯を取り上げた。
覆いが下がり、土間の影が一度、大きく動いた。
それきり感情を見せず、男は背を向けた。
「受け渡し時刻を過ぎれば、受領部隊がこちらを捜しに来ます」
戸口の外で、足音が土を噛んで遠ざかっていく。
廊下の奥から布を裂く音がした。
続いて、カシオスの短いうめきが漏れた。
マルケラは動かなかった。
振り向かず、皇女へ何も告げず、ただ小箱を抱える腕を組み直しただけだった。
◇
崩れかけた厩舎の陰で、ケントゥルは谷の方角を指した。
「兵の配置を見ただろう。あれは皇女を客として迎える陣形じゃない」
「……西へ戻して殺されるよりはましだ」
「侍女二人はどうなると思う?」
レグリウスの視線が、廃宿駅の壁の向こうへ流れた。
灯りは点いていない。
短い沈黙があった。
それから彼は、ケントゥルの手の中の紙を指した。
「書面には一言もない……あれは末端が口で足した話だ。陛下のご命令ではない」
「その口で足す連中へ、今から皇女を渡すのか?」
「引き渡しが済めば、正式な報告が中央へ上がる。あの場で好きにはさせない」
レグリウスの声は荒れていなかった。
この男が頼みにしているのは東皇帝ではなく、書面に残った命令なのだと、ケントゥルには見えた。
ケントゥルは反論を重ねなかった。
レグリウスに背を向け、書きつけを手にしたまま、廊下の奥へ戻った。
◇
フィエリサは、割れた壁から差す残りの明かりへ、ケントゥルから受け取った指示書をかざした。
二行を読み終え、それでも視線を上げず、もう一度だけ、自分の名を読み直した。
肩越しに書面を覗き込んだマルケラが、口を開かないまま顔を上げた。
そこに記されていたのは、フィエリサ・ヴィリディアの名と皇統印だけだった。
マルケラの名もない。
ルキナの名もない。
侍女という言葉すら、なかった。
書かれていない者は、受け取られない。
「向こうが受け取るのは、お前と印だけだ。侍女二人をどうするかは、現地の指揮官が決めると言われた」
ケントゥルは紙の端を指で示した。
フィエリサの眉がわずかに寄った。
「なぜです。二人は、ただ私に仕えているだけです」
「東から見れば、そうとは限らない。西がお前につけた監視役か、間者だと言えば、拘束する理由にはなる」
「では、あなた方も?」
「俺たちも、西の間者に仕立てられて口を塞がれるかもしれん」
ケントゥルはそこで言葉を切った。
「受け渡し場には、外から閂を掛ける馬車があった。兵は、森へ逃げる者を射られる位置についていた」
フィエリサの指が、紙の端で止まった。
「ただ、殺されると決まったわけじゃない。そこは俺の憶測だ」
ケントゥルは続けた。
「東へ行けば、西にいた時よりいい扱いを受けるかもしれない。侍女二人もそのまま側に置かれるかもしれない。俺には分からん」
それから、フィエリサの手の中の指示書へ目を落とした。
「ただ、東への引き渡しを拒めば、西だけじゃなく東からも追われる」
ケントゥルは、まっすぐに彼女を見た。
「俺に分かるのは、ここまでだ」
フィエリサは答えず、手元の紙を見つめた。
床では、ルキナが巻き終えた布の上から、カシオスの傷を押さえていた。
手は離していなかったが、その横顔は固かった。
傍らのマルケラは、皇統印の小箱を胸元へ抱いたまま、何も言わずフィエリサを見ていた。
その顔には、不安が隠しきれずに浮かんでいる。
フィエリサはしばらく黙り、それから尋ねた。
「あなたは、どの道を選ぶつもりですか?」
「俺が決めれば、今度は俺の都合で運ぶことになる」
薄闇の中でも、ケントゥルの短い赤毛だけはかすかに見分けられた。
「決めろ。お前の名前と命だ」
風が、割れた壁の隙間を鳴らして通り抜けた。
フィエリサは、すぐには答えなかった。
宮廷では、どこへ行くかも、誰のもとに立つかも、自分では決められなかった。
停戦地では、生き延びるためにこの男についてきた。
今、問われているのは、その先だった。
呼吸を一つ整えて、彼女は言った。
「西へは戻れません。東で厚遇されるとしても、私の名と印を誰かの判断に委ねるつもりはありません」
薄闇の中で、フィエリサはケントゥルから目を逸らさなかった。
「ならば……私は、どちらにも行きません」
誰も、すぐには口を開かなかった。
「ケントゥル」
初めて、彼女はその名を呼んだ。
「あなたに命じます。私と共に来なさい」
「断る」
マルケラが息を呑んだ。
フィエリサも、一瞬だけ言葉を失った。
「俺は、お前の臣下じゃない」
ケントゥルは彼女を見下ろしたまま、それ以上は言わなかった。
フィエリサの唇が、わずかに動いた。
「……では、雇います」
「報酬は」
「今の私には、支払えるものがありません」
フィエリサはそう答え、それからマルケラの抱えた小箱へ目を向けた。
「……いいえ。私の名と、この印だけは残っています」
「印は報酬にならない」
「承知しています」
フィエリサは目を逸らさなかった。
「ですが、私があなたを雇い、報酬を支払うという約束の証にはなります」
ケントゥルはしばらく黙っていた。
「どこまで連れていけばいい」
「東西どちらの軍にも捕らわれず、私が自分の行き先を選べるところまで」
「そんな場所があるとは限らない」
「それでも、探します」
暗がりの中で、ケントゥルが息を吐いた。
「後払いか」
「必ず支払います」
「なら、死ぬな」
ケントゥルは手を差し出した。
「死者からは取り立てられない」
フィエリサは指示書をケントゥルへ返し、それから差し出された手を取った。
傭兵の掌は硬く、乾いていた。
それが、フィエリサが自らの意思で結んだ最初の契約だった。
フィエリサはマルケラへ手を差し出した。
侍女長は動かなかった。
それでも、主の手が下ろされないと分かると、ためらいながら小箱を渡した。
「私たちが捕らえられれば、この箱は真っ先に奪われます」
フィエリサは両手でそれを持ち、ケントゥルへ差し出した。
「あなたに預けます」
マルケラの声が低くなった。
「殿下。皇統印を、奪いに来た者へお預けになるのですか」
フィエリサはケントゥルを見たまま答えた。
「今も奪うつもりなら、私に決めさせたりはしません」
ケントゥルは黙って受け取った。
「報酬じゃないんだろう」
「はい」
フィエリサは小箱から手を離した。
「私たちの契約と、約束の証です」
彼は荷袋の前に膝をつき、小箱を毛布で包んで底へ収めた。
それから立ち上がり、東へ続く道の方角に背を向けた。
「進路を変える」
戸口の外で、レグリウスが動いた。
「契約を破るのか」
「そうなる」
「東西双方から追われるぞ」
「承知の上だ」
ルキウスが、思わず口を挟んだ。
「本気か。引き渡さなきゃ、報酬もなくなるぞ」
ケントゥルは答えなかった。
プロブスが低く息を吐く。
「……話はあとだ。受け渡しの刻限まで、そう長くない。ここにいれば東の連中が来る」
レグリウスも、ルキウスも、プロブスも賛成とは言わなかった。
だが、今ここで離れるとも言わなかった。
プロブスが廃屋から外れかけた戸板を運び出し、その上へ外套を敷いた。
カシオスを担架へ乗せる。
レグリウスは槍をルキウスへ渡し、プロブスとともに担架を持ち上げた。
一行は廃宿駅を発った。
◇
受け渡し時刻を過ぎても、傭兵たちは現れなかった。
東側の受領部隊は廃宿駅へ踏み込んだ。
残っていたのは血の染みと、踏み荒らされた古い藁だけだった。
皇女も、印も、移送を請け負った五人も見つからない。
報告には、契約違反および移送対象未引渡しと記された。
同じ夜、西の帝都メディオラムでは別の文言が用意されていた。
東帝国の傭兵が停戦の場を破り、皇女と皇統印を攫った――西帝国はそう公表した。
夜明け前、東西それぞれの街道守備隊へ人相書きが回された。
そこに挙げられた五人は、東西で同じだった。
◇
廃宿駅を発った時、受け渡しの刻限はまだ来ていなかった。
戸板に外套を敷いた担架が、歩くたびに軋んだ。
カシオスの上には乾いた外套がもう一枚重ねられ、ルキナは折を見て担架を止めさせ、巻いた布に血が滲んでいないかを指で確かめた。
街道へは戻らず、涸れ沢を伝って森の奥へ入る。
重傷者を運びながらでは、速くは進めない。
それでも受領部隊が廃宿駅へ踏み込む前に、追跡しにくい涸れ沢の奥まで移る必要があった。
ケントゥルは最後に一度だけ足を止め、来た道を振り返った。
夜風が、暗い赤毛をかき上げた。
追手の姿を確かめる必要はなかった。
東の受け渡し場では、今ごろ空の馬車が待っている。
西は、皇女を失った理由を自分たちの落ち度にはしない。
「これで、両方が敵になった」
誰も答えなかった。
フィエリサは、小箱を収めたケントゥルの荷へ一度だけ目をやった。
木立の隙間から落ちた月明かりが、フィエリサの長い翡翠色の髪を撫でていく。
闇の中ではほとんど黒く沈んでいたが、光に触れた一筋だけが、深い緑を返した。
フィエリサが顔を上げると、同じ色の瞳にも細い月光が宿った。
それから、自分の足で、契約の外にある道へ踏み出した。
東西双方から追われる逃避行の中、負傷した仲間を前に一行は最初の別れを選ぶ。
追手をかわすケントゥルの過去と、彼がフィエリサを守り続ける理由も少しずつ明らかに。
そしてフィエリサは、戦乱を終わらせるために背負うものの重さを知っていく。
次回、第4話「守れる範囲」




