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サンシャーラ神話物語 翡翠の皇女  作者: 宝田旗子
第一部 皇女誘拐事件
3/7

第2話 停戦を破る刃

 男が泥へ落ちるより早く、別の弦音が響いた。


 物資置き場の陰だ。


 ケントゥルが振り仰いだときには、櫓の上でカシオスの身体がくの字に折れていた。


 矢は脇腹の肉だけを斜めに深く抉り、そのまま後ろへ抜けた。


 弓が指から滑り落ち、硬い音を立てて梁を打った。


「降りろ」


 命じるまでもなく、カシオスは動いていた。

 片腕を梯子へ絡め、震える脚だけで下の段を探る。

 下半分まで来たところで、その脚から力が抜けた。


 プロブスが梯子の下へ踏み込み、落ちてくるカシオスの腰帯を掴んだ。

 重みを正面から受け止めようとはせず、カシオスの身体を梯子へ押しつけ、落下の勢いを殺しながら地面まで下ろした。


 カシオスの踵が泥をズルリと掻いた。


「覆いを剥げ」


 ルキウスが荷車へ飛びついた。

 掛けてあった麻布を引き落とすと、積み荷の底から、油紙に包まれた槍と小盾が現れた。

 外套の下へ隠せなかった得物は、初めからそこにあった。


 レグリウスは小盾を引き抜き、槍を包む油紙を歯で食いちぎった。

 そのまま低い姿勢で、フィエリサとマルケラ、ルキナの斜め前へ滑り込む。

 飛んできた矢が一本、盾の面を打って弾かれた。

 レグリウスは盾の陰から槍を突き出し、踏み込んできた男の胸を柄で叩き返した。


 ルキウスが、武器を抜いた荷車へ肩を当てた。

 軋みが上がり、片方の車輪が浮く。

 そのまま荷車を横倒しにした。

 麻袋と木箱が散らばり、路面へ低い壁ができた。


 矢の音が途切れた。


 ルキナが駆け寄った。

 カシオスの脇腹の血を見て、一度だけ息を呑む。

 それから泥の上に膝をつき、腰の短剣を抜いた。

 刃を前掛けに当て、一気に布を切り裂く。

 切り取った布を丸めて傷口へ押し当てる。

 両手の付け根に、自分の体重を乗せた。


「動くな」


 プロブスがカシオスの肩を抱きかかえた。

 カシオスは聞かず、足に力を入れて立とうとした。

 だが、脇腹へ力が入った瞬間、膝が泥へ落ちる。

 押し当てた布へ、みるみる赤い血が広がった。

 声は上げなかった。

 歯を食いしばり、ただプロブスの腕を強く掴み返した。


 礼拝所の裏手と物資置き場の影から立ち上がった男たちが、外套を脱ぎ捨てて走り出した。

 さらに、兵士の列へ紛れていた男たちまで外套を脱ぎ捨てる。

 その下からも、先ほど覗いたものと同じ東方軍団風の軍装が現れた。


「フィエリサはどこだ!」

「皇女を探せ! 逃がすな!」


 怒号が飛び交い、男たちは周囲を見回しながら散っていく。


「東軍だ!」

「停戦を破りやがった!」


 西軍の兵たちが槍を取り、襲撃者へ向かっていく。

 離れた東軍区画でも、兵が慌てて武器へ手をかけはじめている。


 それでも、近衛は来ない。

 先ほどから空いていた通路は、騒ぎが始まった今も空のままだった。


 ケントゥルはマルケラへ目を向けた。


「近衛はどうした?」


 マルケラが周囲を見回す。


「分かりません。近衛が持ち場を離れるような命令が出たとは聞いておりません」


 ケントゥルはそれ以上聞かなかった。


 フィエリサへ迫った男が、頭上から刃を振り下ろす。

 ケントゥルはそれを剣で受け、そのまま鍔で男の手首を強く打った。

 続けて一歩踏み込み、肩を男の胸へぶつけて進路の外へ押し出す。

 崩れた男を、そのまま次に踏み込んできた男へぶつけた。


 視界の端で、別の一人がマルケラへ向かっていた。


「あったぞ! あの箱だ!」


 男の手はマルケラの喉ではなく、胸に抱えた小箱へ伸びた。

 マルケラが身体を丸めて箱を庇い、後ずさる。


 横からレグリウスの槍が入った。

 小箱へ伸びた男の腕を弾き上げる。


 ケントゥルは剣を握り直した。


「下がれ。荷車の線まで」


 倒した荷車とレグリウスの盾を頼りに、一行は少しずつ後ろへ下がる。

 プロブスがカシオスの片腕を自分の肩へ回し、立たせた。

 ルキナは反対側につき、傷口を押さえたまま身体を支えた。


 そのとき、マルケラが息を止めた。


「あの者を見たことがございます」


 ケントゥルは剣を構え、敵から目を離さない。


「どこでだ」

「宮廷です。アンビリオ陛下の侍従府へ出入りしておりました」


 マルケラは小箱を抱き締めた。


 消えた近衛。

 東方軍団風の軍装をまとった、宮廷の男。

 皇女とともに狙われた、あの箱。

 三つが一本の線になるのに、時間は要らなかった。


 西側の誰かが皇女を殺し、印を持ち去り、東の仕業に仕立てる。

 命令書はない。

 署名もない。

 それでも、西へ戻せば皇女が殺されると判断するには足りていた。


◇


 背後から、マルケラの震える声がした。


「十年前も、護衛の方々は別の命令で持ち場を離れておりました」


 フィエリサの足が止まった。

 閉ざされていく回廊の厚い扉。

 自分を抱いて走るマルケラの、汗ばんだ首筋。

 朝になっても、父と母は戻らなかった。

 遠くで誰かが叫んでいる。

 賊だ、と。


 十年前の光景が、時を越えて今へ重なった。


「……また、同じなのですね」


 誰が仕組んだのかは分からない。

 しかし今回も、護衛は退けられ、襲撃者は外から来た者を装っている。

 十年前と、同じ形だった。


 腕を強く取られた。


「殿下、今はお進みください」


 ルキナの手は震えていた。

 それでも、フィエリサの腕を離さなかった。


 前を行く大男が、振り返りもせずに言う。


「止まるな」


 フィエリサは短く息を吸い、吐いた。

 恐怖は消えなかった。

 消えないまま、自分の足を前へ出した。


 遺骸運搬用の裏路地の入口で、ケントゥルが立ち止まった。

 石造りの曲がり角が、礼拝所からの射線を切っている。


 レグリウスが盾を構え、路地の入口を塞いだ。

 ケントゥルが振り返る。


「ここに残れば死ぬ。来い」


 マルケラがフィエリサとケントゥルの間へ出た。


「殿下をどこへ連れていくおつもりです」

「まず、ここから生きて出す」

「あなた方も、殿下を狙っていたのでしょう」

「そうだ」


 否定も、言い訳もなかった。


「皇女と皇統印を東へ運ぶ契約だった」


 マルケラの喉が動いた。

 それでもなお、この男の前へ立とうとする。


 フィエリサは、その肩へそっと手を置いた。


「マルケラ、ルキナ。行きます」

「殿下……」

「帝都へ戻る道は、もうありません」


 背後の礼拝所前では、近衛の姿もないまま、東西の兵が入り乱れていた。


 フィエリサは二人の前を通り抜けた。


 長い翡翠色の髪が、泥と煙を含んだ風に揺れる。


 顔を上げ、その髪と同じ色の瞳で、泥にまみれた男をまっすぐ見た。


「案内しなさい」


 ケントゥルは答えなかった。

 ただ、路地の奥を顎で示した。


◇


 裏路地は、遺骸を運ぶためだけに踏み固められた道だった。


 ルキウスが先頭を走り、角ごとに立ち止まって手を挙げて安全を知らせる。

 プロブスはカシオスの腕を自分の肩へ回し、腰を支えて歩いた。

 ルキナは進みながら、傷の圧迫を止めなかった。

 レグリウスが盾を後ろへ向け、槍の間合いへ入った敵を突きで押し返す。

 ケントゥルは列の前後を見て、いちばん遅いカシオスの歩みに合わせて全体の速度を落とした。


 石畳の路地へ、追手が殺到する。


 ケントゥルが立ち止まり、片手を地面へ向けた。

 石畳の下で土が動いた。

 数枚の敷石が、指一本分だけ持ち上がる。

 先頭を走る男の爪先がそこへ引っかかり、前のめりに倒れた。

 止まれなかった後ろの者たちが、その背中へ次々と折り重なる。


 フィエリサは、浮いた敷石へ一瞬だけ目を向けた。

 何も尋ねなかった。


 外郭沿いの排水路へ入る。

 天井は低く、足首まで濁った水が溜まっていた。

 出口の側壁には、長い年月でできた亀裂が走っている。


 頭上で石がずれ、壁が低く軋んだ。

 ケントゥルが根元へ手を置く。

 揺れが止まった。

 全員が外へ抜けたのを確かめてから、彼は手を離した。


 背後で石が崩れ落ちた。

 瓦礫が、排水路の穴を完全に塞いだ。


 追ってくる足音が、壁の向こうで途切れた。

 外の空気は冷えていた。


「東の合流地点へ向かう」


 ケントゥルが言った。

 レグリウスが短く頷いた。


 歩きながら、マルケラが瓦礫に塞がれた排水路を振り返った。


「あなた方は、どうやって殿下のお側まで?」


 ケントゥルが、一度だけ背後を見る。


「遺骸運搬の一団に紛れた。西の連中が護衛を退かせたおかげで、ここまで入り込めた」


 マルケラが、皇統印の小箱を抱く腕に力を込めた。


「殿下を害するために空けた道を、あなた方も使ったのですね」

「そういうことだ」


 ケントゥルは再び前を向いた。

 フィエリサは、その広い背を見つめた。


「……なんという皮肉でしょう」


 誰も答えなかった。


◇


 一行は街道を避け、日の落ちかけた森へ入った。

 木々の間は、すでに夜の色をしている。

 遠くで、まだ騒乱の音が続いていた。


 カシオスはプロブスの肩を借りて歩いている。

 ルキナが押さえ続ける布はもう赤黒く、時折、新しい血の染みが広がった。

 誰も走れなかった。


 フィエリサは、前を行く広い背中へ声をかけた。


「私を、どこへ連れていくのか」

「コンスタリオンだ」

「オルディウス叔父上のもとへ?」

「そういう契約だ」


 ケントゥルは振り返らなかった。

 背後の西には、自分を殺そうとした者たちがいる。

 前の東には、自分と印を欲しがる叔父がいる。

 胸の奥に生まれかけていた安堵が、静かに冷えていった。


 フィエリサは何も答えなかった。

 ただ一度だけ、マルケラが胸に抱えた小箱へ目を向けた。


 東へ続く暗い道を、一行は歩いていった。

東帝国への受け渡しを前に、ケントゥルは不穏な兵の配置と追加指示を目にする。

西へ戻ることも、東へ渡ることもできない――フィエリサに残された道とは。

そして皇女は、生まれて初めて自らの意思で一つの契約を結ぶ。

次回、第3話「契約の外へ」

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