第2話 停戦を破る刃
男が泥へ落ちるより早く、別の弦音が響いた。
物資置き場の陰だ。
ケントゥルが振り仰いだときには、櫓の上でカシオスの身体がくの字に折れていた。
矢は脇腹の肉だけを斜めに深く抉り、そのまま後ろへ抜けた。
弓が指から滑り落ち、硬い音を立てて梁を打った。
「降りろ」
命じるまでもなく、カシオスは動いていた。
片腕を梯子へ絡め、震える脚だけで下の段を探る。
下半分まで来たところで、その脚から力が抜けた。
プロブスが梯子の下へ踏み込み、落ちてくるカシオスの腰帯を掴んだ。
重みを正面から受け止めようとはせず、カシオスの身体を梯子へ押しつけ、落下の勢いを殺しながら地面まで下ろした。
カシオスの踵が泥をズルリと掻いた。
「覆いを剥げ」
ルキウスが荷車へ飛びついた。
掛けてあった麻布を引き落とすと、積み荷の底から、油紙に包まれた槍と小盾が現れた。
外套の下へ隠せなかった得物は、初めからそこにあった。
レグリウスは小盾を引き抜き、槍を包む油紙を歯で食いちぎった。
そのまま低い姿勢で、フィエリサとマルケラ、ルキナの斜め前へ滑り込む。
飛んできた矢が一本、盾の面を打って弾かれた。
レグリウスは盾の陰から槍を突き出し、踏み込んできた男の胸を柄で叩き返した。
ルキウスが、武器を抜いた荷車へ肩を当てた。
軋みが上がり、片方の車輪が浮く。
そのまま荷車を横倒しにした。
麻袋と木箱が散らばり、路面へ低い壁ができた。
矢の音が途切れた。
ルキナが駆け寄った。
カシオスの脇腹の血を見て、一度だけ息を呑む。
それから泥の上に膝をつき、腰の短剣を抜いた。
刃を前掛けに当て、一気に布を切り裂く。
切り取った布を丸めて傷口へ押し当てる。
両手の付け根に、自分の体重を乗せた。
「動くな」
プロブスがカシオスの肩を抱きかかえた。
カシオスは聞かず、足に力を入れて立とうとした。
だが、脇腹へ力が入った瞬間、膝が泥へ落ちる。
押し当てた布へ、みるみる赤い血が広がった。
声は上げなかった。
歯を食いしばり、ただプロブスの腕を強く掴み返した。
礼拝所の裏手と物資置き場の影から立ち上がった男たちが、外套を脱ぎ捨てて走り出した。
さらに、兵士の列へ紛れていた男たちまで外套を脱ぎ捨てる。
その下からも、先ほど覗いたものと同じ東方軍団風の軍装が現れた。
「フィエリサはどこだ!」
「皇女を探せ! 逃がすな!」
怒号が飛び交い、男たちは周囲を見回しながら散っていく。
「東軍だ!」
「停戦を破りやがった!」
西軍の兵たちが槍を取り、襲撃者へ向かっていく。
離れた東軍区画でも、兵が慌てて武器へ手をかけはじめている。
それでも、近衛は来ない。
先ほどから空いていた通路は、騒ぎが始まった今も空のままだった。
ケントゥルはマルケラへ目を向けた。
「近衛はどうした?」
マルケラが周囲を見回す。
「分かりません。近衛が持ち場を離れるような命令が出たとは聞いておりません」
ケントゥルはそれ以上聞かなかった。
フィエリサへ迫った男が、頭上から刃を振り下ろす。
ケントゥルはそれを剣で受け、そのまま鍔で男の手首を強く打った。
続けて一歩踏み込み、肩を男の胸へぶつけて進路の外へ押し出す。
崩れた男を、そのまま次に踏み込んできた男へぶつけた。
視界の端で、別の一人がマルケラへ向かっていた。
「あったぞ! あの箱だ!」
男の手はマルケラの喉ではなく、胸に抱えた小箱へ伸びた。
マルケラが身体を丸めて箱を庇い、後ずさる。
横からレグリウスの槍が入った。
小箱へ伸びた男の腕を弾き上げる。
ケントゥルは剣を握り直した。
「下がれ。荷車の線まで」
倒した荷車とレグリウスの盾を頼りに、一行は少しずつ後ろへ下がる。
プロブスがカシオスの片腕を自分の肩へ回し、立たせた。
ルキナは反対側につき、傷口を押さえたまま身体を支えた。
そのとき、マルケラが息を止めた。
「あの者を見たことがございます」
ケントゥルは剣を構え、敵から目を離さない。
「どこでだ」
「宮廷です。アンビリオ陛下の侍従府へ出入りしておりました」
マルケラは小箱を抱き締めた。
消えた近衛。
東方軍団風の軍装をまとった、宮廷の男。
皇女とともに狙われた、あの箱。
三つが一本の線になるのに、時間は要らなかった。
西側の誰かが皇女を殺し、印を持ち去り、東の仕業に仕立てる。
命令書はない。
署名もない。
それでも、西へ戻せば皇女が殺されると判断するには足りていた。
◇
背後から、マルケラの震える声がした。
「十年前も、護衛の方々は別の命令で持ち場を離れておりました」
フィエリサの足が止まった。
閉ざされていく回廊の厚い扉。
自分を抱いて走るマルケラの、汗ばんだ首筋。
朝になっても、父と母は戻らなかった。
遠くで誰かが叫んでいる。
賊だ、と。
十年前の光景が、時を越えて今へ重なった。
「……また、同じなのですね」
誰が仕組んだのかは分からない。
しかし今回も、護衛は退けられ、襲撃者は外から来た者を装っている。
十年前と、同じ形だった。
腕を強く取られた。
「殿下、今はお進みください」
ルキナの手は震えていた。
それでも、フィエリサの腕を離さなかった。
前を行く大男が、振り返りもせずに言う。
「止まるな」
フィエリサは短く息を吸い、吐いた。
恐怖は消えなかった。
消えないまま、自分の足を前へ出した。
遺骸運搬用の裏路地の入口で、ケントゥルが立ち止まった。
石造りの曲がり角が、礼拝所からの射線を切っている。
レグリウスが盾を構え、路地の入口を塞いだ。
ケントゥルが振り返る。
「ここに残れば死ぬ。来い」
マルケラがフィエリサとケントゥルの間へ出た。
「殿下をどこへ連れていくおつもりです」
「まず、ここから生きて出す」
「あなた方も、殿下を狙っていたのでしょう」
「そうだ」
否定も、言い訳もなかった。
「皇女と皇統印を東へ運ぶ契約だった」
マルケラの喉が動いた。
それでもなお、この男の前へ立とうとする。
フィエリサは、その肩へそっと手を置いた。
「マルケラ、ルキナ。行きます」
「殿下……」
「帝都へ戻る道は、もうありません」
背後の礼拝所前では、近衛の姿もないまま、東西の兵が入り乱れていた。
フィエリサは二人の前を通り抜けた。
長い翡翠色の髪が、泥と煙を含んだ風に揺れる。
顔を上げ、その髪と同じ色の瞳で、泥にまみれた男をまっすぐ見た。
「案内しなさい」
ケントゥルは答えなかった。
ただ、路地の奥を顎で示した。
◇
裏路地は、遺骸を運ぶためだけに踏み固められた道だった。
ルキウスが先頭を走り、角ごとに立ち止まって手を挙げて安全を知らせる。
プロブスはカシオスの腕を自分の肩へ回し、腰を支えて歩いた。
ルキナは進みながら、傷の圧迫を止めなかった。
レグリウスが盾を後ろへ向け、槍の間合いへ入った敵を突きで押し返す。
ケントゥルは列の前後を見て、いちばん遅いカシオスの歩みに合わせて全体の速度を落とした。
石畳の路地へ、追手が殺到する。
ケントゥルが立ち止まり、片手を地面へ向けた。
石畳の下で土が動いた。
数枚の敷石が、指一本分だけ持ち上がる。
先頭を走る男の爪先がそこへ引っかかり、前のめりに倒れた。
止まれなかった後ろの者たちが、その背中へ次々と折り重なる。
フィエリサは、浮いた敷石へ一瞬だけ目を向けた。
何も尋ねなかった。
外郭沿いの排水路へ入る。
天井は低く、足首まで濁った水が溜まっていた。
出口の側壁には、長い年月でできた亀裂が走っている。
頭上で石がずれ、壁が低く軋んだ。
ケントゥルが根元へ手を置く。
揺れが止まった。
全員が外へ抜けたのを確かめてから、彼は手を離した。
背後で石が崩れ落ちた。
瓦礫が、排水路の穴を完全に塞いだ。
追ってくる足音が、壁の向こうで途切れた。
外の空気は冷えていた。
「東の合流地点へ向かう」
ケントゥルが言った。
レグリウスが短く頷いた。
歩きながら、マルケラが瓦礫に塞がれた排水路を振り返った。
「あなた方は、どうやって殿下のお側まで?」
ケントゥルが、一度だけ背後を見る。
「遺骸運搬の一団に紛れた。西の連中が護衛を退かせたおかげで、ここまで入り込めた」
マルケラが、皇統印の小箱を抱く腕に力を込めた。
「殿下を害するために空けた道を、あなた方も使ったのですね」
「そういうことだ」
ケントゥルは再び前を向いた。
フィエリサは、その広い背を見つめた。
「……なんという皮肉でしょう」
誰も答えなかった。
◇
一行は街道を避け、日の落ちかけた森へ入った。
木々の間は、すでに夜の色をしている。
遠くで、まだ騒乱の音が続いていた。
カシオスはプロブスの肩を借りて歩いている。
ルキナが押さえ続ける布はもう赤黒く、時折、新しい血の染みが広がった。
誰も走れなかった。
フィエリサは、前を行く広い背中へ声をかけた。
「私を、どこへ連れていくのか」
「コンスタリオンだ」
「オルディウス叔父上のもとへ?」
「そういう契約だ」
ケントゥルは振り返らなかった。
背後の西には、自分を殺そうとした者たちがいる。
前の東には、自分と印を欲しがる叔父がいる。
胸の奥に生まれかけていた安堵が、静かに冷えていった。
フィエリサは何も答えなかった。
ただ一度だけ、マルケラが胸に抱えた小箱へ目を向けた。
東へ続く暗い道を、一行は歩いていった。
東帝国への受け渡しを前に、ケントゥルは不穏な兵の配置と追加指示を目にする。
西へ戻ることも、東へ渡ることもできない――フィエリサに残された道とは。
そして皇女は、生まれて初めて自らの意思で一つの契約を結ぶ。
次回、第3話「契約の外へ」




