第1話 十七歳の皇女
皇女は、名もない死者のために泥へ膝をついた。
その姿を、ケントゥルは少し離れた場所から見ていた。
布に包まれた遺骸を乗せた担架の柄が、彼の肩へ重く食い込んでいる。
ぬかるみを歩くたびに泥がはね、すり減った革靴と脛を汚した。
白銀の軽鎧をまとった、あの少女を攫うために、彼はこの死体運びの列へ紛れ込んでいた。
◇
帝国歴273年。
レムリア帝国が東西に裂けてから、十年が過ぎていた。
今日、西帝国の帝都メディオラム北東郊に広がる荒涼たる前線地帯へ人が集まっているのは、捕虜を返し、負傷兵を引き取り、戦死者の遺骸を引き渡し、身元不明者の記録を照合するためである。
この血生臭い場所で許された停戦は、たった一日限りだった。
風の匂いは幾重にも混ざっている。
踏み荒らされた泥。
乾いた血。煮出された薬草。
撒かれた石灰。
そして、腐敗を抑えるための安っぽい香料。
どれも誤魔化しきれず、戦場の本性を隠せていない。
天幕の間を東西の兵が無言で行き来する。
外套の色は違っても、鎧の合わせ方も剣を吊る位置も、もとは同じ帝国軍の流儀だった。
互いに目は合わせない。
合わせたところで、明日には再び斬り合う相手である。
ケントゥルたち五人の傭兵は、遺骸運搬人や荷役人に扮し、西軍側の区画へ入り込んでいた。
泥に汚れた群衆の中で、皇女の白銀の軽鎧だけが、冷たい光を放って浮き上がっていた。
長い緑の髪を淑やかにまとめた少女。
皇女フィエリサ・ヴィリディア。
背後には、油断なく周囲へ目を配る侍女長マルケラと、名簿を抱えた若い侍女ルキナが影のように従っていた。
「皇女を確認した」
すれ違いざま、荷を下ろす動作に紛れてレグリウスが囁いた。
ケントゥルは無言のまま担架を地面へ下ろし、息を吐いた。
「……あれか」
ここへ来るまでにも、フィエリサは解放された捕虜一人ひとりに声をかけ、負傷兵の傷の痛みを尋ね、遺族へ返される遺品を順に確かめていた。
血に染まった指輪。
刃こぼれした小刀。
擦り切れた革の紐。
どれも彼女の白く細い手のひらの上で、慈しむようにしばらく留まった。
今、皇女が膝をついているのは、身元の分からない四つの遺骸の前だった。
西軍の役人が、困惑した顔で名簿を抱えて進み出る。
「こちらの四体は、名前も所属も分かりません。規定により、名簿には人数のみを記載いたします」
フィエリサは遺骸を覆う布の端をそっとめくった。
白銀の膝当てが泥に沈むのも構わず、役人を静かに見上げる。
「名前が分からないことと、その方が存在しなかったことは同じではない」
「……しかし殿下。記載する名がございません」
「氏名不詳と書きなさい」
咎めるような響きはなかった。
ただ、揺るぎない芯が通った声だった。
「四体ではなく、四人です。一人ずつ、別の記録として残しなさい」
「……承知いたしました、殿下」
役人は静かに頭を下げた。
マルケラが進み出て、抱えていた小箱の錠を外す。
小箱に収められていたのは、皇統印。
法によって皇女個人に帰属する、正式な皇族印だった。
フィエリサは両手でそれを受け取ると、役人の差し出す名簿へ捺した。
一つ。
また一つ。
泥と血の匂いが立ち込める中で、名のない四人が、確かに帝国の記録として刻まれた。
マルケラは小箱を閉じ、施錠して顔を上げた。
鋭い視線が、儀礼の輪の外側を素早くひと巡りする。
天幕の切れ目。
積み上げられた木材の陰。
――本来ならそこに立って周囲を警戒しているはずの近衛隊長の姿が、どこにもない。
彼女は何も言わなかった。
ただ、小箱を抱える両腕へ、力がこもっただけだった。
フィエリサは静かに踵を返し、一行を従えて次の天幕へと歩き出した。
◇
残された西軍の兵たちが、堰を切ったように囁き合いはじめた。
「おい、聞いたか。殿下は十七になられたそうだぞ」
「十七になられた以上、ご自分の名で勅令を出せる」
「もし帝国会議の招集を求められたら、アンビリオ陛下はどうなさるおつもりだ……?」
言った男が、自分の放った不敬な言葉に怯えたように口をつぐむ。
年嵩の兵が周囲をギロリと睨みつけた。
「口を慎め。近衛の耳に入れば、反逆の噂を立てられて首が飛ぶぞ」
それきり、誰も皇女の話を口にしなかった。
少し離れた場所で荷を積み直しながら、ケントゥルはその会話を拾っていた。
東で依頼を受けたとき、金を出した男も同じ数字を口にしていた。
『十七』
そして、もう一つを繰り返した。
『皇女と、皇統印を』
男はその二つを何度も並べて言った。
殺すな、とも言った。
生きたまま、印とともに東へ運べ、と。
天幕の裏で、五人の傭兵たちは視線を合わせることもなく仕事を続けている。
カシオスは、資材置き場に組まれた櫓の上段、その太い梁の陰にいた。
皇女の現在位置。
屋根の上に潜む死角。
西軍の射手の並び。
この区画から抜ける最短の道筋。
目だけが休みなく動いている。
プロブスは、無表情で担架を数えていた。
畳まれた布の傷み具合を確かめ、荷車の車輪のガタつきを見て、人を担いだまま通れる路地の幅を測っている。
混乱の中で、誰を、どの道で運び出せるか。
それが彼の仕事だった。
ルキウスは、軋む荷車を押していた。
少しずつ、少しずつ、不自然にならないよう、いざという時に追手を塞げる位置へ動かしている。
掌にじっとりと汗をかいているのが、取っ手を握る指の白さで分かった。
レグリウスは日の傾きを見て、東の部隊との合流までに残された時間を測っていた。
◇
ルキウスが、ふと荷車を止めた。
「護衛が……薄すぎないか?」
ケントゥルは麻袋を肩に担いだまま、西軍の配置へ目を向けた。
近衛兵がいるべき通路が、ぽっかりと空いている。
見張りの立ち位置を目でつないでいくと、一角だけ、どの見張りの視線にも入らない抜け道ができていた。
「ああ」
ルキウスが声を潜める。
「俺たちを、通すためか?」
「違う」
麻袋を重ねながら、レグリウスが冷たく口を挟んだ。
「配置の理由まで探る必要はない。穴があるなら使い、手筈どおりに動くべきだ」
ケントゥルは、空いた通路から目を離さずに答えた。
「手筈どおりに動ける配置じゃない」
櫓の上で、カシオスの指がわずかに動いた。
素早い手信号が数を示す。
一人ではない。
仮設礼拝所の裏手。
物資置き場の影。
屋根の上の瓦の隙間。
複数の方向に、ほぼ等しい間隔で不審な者たちが配置されている。
彼らは西軍兵や荷役人の汚れた外套をまとい、人波に紛れていた。
だが、その一人が身をよじった瞬間、外套の下から東方軍団風の軍装と、東帝国式の剣の柄が覗いた。
その軍装は、不自然なほど新しかった。
野営の煙も、雨の染みも吸っていない。
鞘には、抜き差しを繰り返した金具の擦れが一切ない。
靴についた泥も、東の陣地を抜けてきた者のそれとは明らかに土の色が違った。
ケントゥルは、誰が彼らに命じたのかを考えなかった。
考えたところで、今日の答えは出ない。
分かるのは三つだけだった。
西側の誰かが、意図的に護衛を退けた。
東方風の装備をまとった、正体の知れない武装者が内側にいる。
狙われているのは、あの皇女だ。
このまま襲撃が始まれば、当初の手筈では動けない。
静かに攫って消えるという算段は、すでに崩れていた。
◇
仮設礼拝所の前に、遺品を納めた白木の箱が並べられた。
フィエリサは箱の前に立ち、静かに目を閉じている。
マルケラが皇統印の小箱を胸に抱え、その斜め後ろに油断なく控えた。
ルキナは少し離れた場所で、役人から名簿の写しを受け取っている。
西軍兵の外套をまとった男が、人の流れに逆らわず、滑るような足取りで皇女の背後へ回った。
歩幅が、重い荷を運ぶ者のそれではない。
先に異変に気づいたのは、若いルキナだった。
彼女がふと屋根を見上げると、瓦の陰に伏せていた男が身を起こし、フィエリサへ弓を向けていた。
名簿の写しが手から落ち、泥へ散る。
「殿下――!」
ルキナは声を上げ、フィエリサへ向かって駆け出した。
屋根の上の弓が動いた。
暗殺者の狙いが、祈る皇女から、走り出した侍女へ移る。
櫓の上で、カシオスの指が閃いた。
射撃の許可を求める合図。
ケントゥルは、ほとんど同時に指を返した。
カシオスに射撃を命じれば、潜入は露見する。
だが命じなければ、侍女が射抜かれる。
その混乱の中で、皇女にも刃が届く。
鋭い弦音が空気を裂いた。
屋根の上の男が仰け反り、足元の瓦が激しく鳴った。
その一矢が、すべての合図になった。
礼拝所の裏手から、物資置き場の影から、偽装した複数の武装者が一斉に立ち上がる。
皇女へ向けて刃が閃く。
同時に、プロブスは担架を蹴り捨てて退路へ身体を向け、ルキウスは荷車を引き寄せて追手の壁を作った。
ケントゥルは、すでに外套の下から使い込まれた剣を抜いていた。
物音に、フィエリサが振り返る。
泥と埃にまみれた見知らぬ大男が、剣を抜いて立っている。
だが、その切っ先は彼女ではなく、背後から迫っていた暗殺者へ真っ直ぐに向けられていた。
「予定変更だ。走れ」
短く鋭い号令とともに、ケントゥル隊が一斉に動いた。
皇女を攫うために来た男は、いま、その皇女と刃のあいだに立っていた。
停戦地帯を突如襲う、東方軍団風の軍装をまとった男たち。
狙われたのはフィエリサだけではなく、マルケラが守る《皇統印》だった。
消えた近衛と不審な襲撃――ケントゥルは、皇女を生きて連れ出すため動き出す。
次回、第2話「停戦を破る刃」




