序文
ここに、編纂者ラトゥナ・ケートが記す。
かつて、西世界にレムリアという名の帝国があった。
その帝国は、広大な版図と、整えられた法と、幾多の街道によって栄えた。
人々は帝国の平和を疑わず、それが永遠に続くものと信じていた。
だが、帝国は一夜にして裂けたのではない。
その崩壊は、皇太子夫妻の死から始まった。
帝国歴263年。
時の皇帝には、三人の皇子がいた。
長子ピエトゥス・ヴィリディア。
次子オルディウス・ヴィリディア。
三子アンビリオ・ヴィリディア。
老帝は、長子ピエトゥスを正式な皇太子に指名していた。
また、ピエトゥスに万一のことがあれば、その正統な子へ皇位継承権を移すことも定められていた。
ピエトゥスには、一人の娘がいた。
翡翠色の髪と瞳を持つ皇女。
フィエリサ・ヴィリディア。
皇女が七歳の年、皇太子ピエトゥスは妃とともに、帝都の宮廷で命を落とした。
公には、賊の襲撃による死とされた。
事件に関わる記録の多くは、後の混乱の中で散逸し、あるいは廃棄された。
事件の真相が明らかになるまでには、長い歳月を要した。
老帝は、残された二人の皇子を疑っていた。
しかし、決定的な証拠は得られなかった。
オルディウスは東方軍団と官僚機構を、アンビリオは帝都と近衛軍、大貴族を掌握していた。
どちらか一方を排除すれば、もう一方が兵を挙げる。
二人を同時に討つだけの力も、もはや老帝には残されていなかった。
そこで老帝は、軍務長官プルデリウスの献策を受け、苦肉の共同統治令を出した。
東方をオルディウスに。
西方をアンビリオに。
二人を暫定的な共同皇帝とし、帝国を分けて治めさせる。
ただし、その体制は永続するものではなかった。
皇女フィエリサが十七歳となった時、帝国会議を招集し、帝国の統治と皇位継承について改めて審議する。
老帝が望んだのは、皇女が成人するまで帝国を壊さずに残すことであった。
だが、老帝の死とともに、その望みは潰えた。
オルディウスとアンビリオは、それぞれ自らこそ唯一の皇帝であると宣言した。
東の帝国。
西の帝国。
どちらも再統一を掲げ、どちらも相手を僭称者と呼んだ。
戦は十年に及んでいた。
街道は寸断され、都市は焼かれ、畑は踏み荒らされた。
兵は給金を待ち、民は供出に耐え、誰もが終わりの見えぬ戦に疲れ果てていた。
そして、帝国歴273年。
皇女フィエリサ・ヴィリディアは、十七歳となった。
二人の皇帝が恐れていたのは、皇女が生きていることではなかった。
彼女が十七歳になることだった。
十七歳となった皇族は、自らの名と皇統印で勅令を発することができる。
そしてフィエリサには、二人の叔父よりも上位の皇位継承権があった。
両親を失ってからの十年、彼女は西帝国の「保護」のもとで育てられていた。
表向きは、帝国に愛される皇女。
実際には、自らの行き先さえ自由には決められない皇位継承者であった。
彼女には軍団がなかった。
玉座もなく、都もなく、自らの旗さえなかった。
あったのは、フィエリサ・ヴィリディアという名。
父から継いだ皇位継承権。
皇統印。
そして、彼女の傍らに残った、わずかな者たちだけだった。
裂かれた帝国を、再び一つにしたのは誰か。
東の皇帝ではない。
西の皇帝でもない。
一人の皇女と、彼女のもとへ集った人々である。
傭兵。
侍女。
老軍務官。
地方の兵。
商人。
そして、帳面に名を記された、数え切れぬ人々。
これより記すのは、軍団も持たぬ一人の皇女が、人々と出会い、町々と結び、裂かれた帝国を再び一つに縫い直すまでの物語である。
時に、帝国歴273年。
十年の沈黙を破り、翡翠の皇女が歴史の表舞台へ歩み出す。
――編纂者ラトゥナ・ケート 識
十年続く内戦のさなか、捕虜交換の停戦地帯へ赴くフィエリサ。
十七歳となった彼女は、東西二人の皇帝にとって無視できない存在となっていた。
そしてその陰で、皇女と《皇統印》を狙う者たちが動き始める。
次回、第1話「十七歳の皇女」




