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サンシャーラ神話物語 翡翠の皇女  作者: 宝田旗子
第二部 焼かれた集落
7/7

第6話 ヴェロナの朝

 日の出前の空は、まだ藍の底に沈んでいた。


 その暗がりの中を、人影が音もなく集まってくる。


 村の中ほどに、石を積んだ竈が一つある。

 ヴェロナで、普段の炊事に火を使う場所はそこだけだった。


 女たちが順に鍋を置き、夜のうちに刈ってきた穀物を少しずつ煮る。

 話し声はない。

 薪は布で包んで折り、その音まで殺している。


 朝の煙は、夜明けの霧に紛れて消える。

 それがこの村の炊事だった。


 フィエリサは空き家の戸口の陰から、それを見ていた。

 覆いの縁から覗きかけた翡翠色の一房を、指で内側へ押し込んだ。


 共同竈へ小鍋を運んだのは、マルケラとルキナだった。

 五人分の粟と乾物を煮る。

 村の穀物には手をつけない。


 やがて、二人が煮上がった小鍋を抱えて戻ってきた。


「熾火が残っているうちなら、私どもの鍋を置いてもよいそうです」


 ルキナの言葉を聞きながら、フィエリサは灰を被せられていく共同竈を見つめた。


「あれほどまでに、火を隠さなければならないのか?」

「煙が上がれば、遠くからでも人がいると分かります」


 マルケラが答えた。


「兵に見つかれば、食料を持っていかれるだけでは済まないこともあるのでしょう」

「村を守るはずの兵も、食料がなければ村から取るしかありません」


 ルキナが声を落として続けた。


「村の人々から奪ってまで、戦を続けなければならないのか?」

「その理由を知りたいなら、東西の皇帝に聞いた方が早いな」


 ケントゥルが言った。


 フィエリサは、灰の下へ消えていく火を見つめた。

 十年続いた戦は、戦場から離れた村にまで、生きる音を隠すことを強いていた。


 ケントゥルは一度だけフィエリサへ目を向けると、戸口の脇で荷を開いた。


 乾物、粟、塩。

 水筒の残り。

 革袋の口を一つずつ確かめ、分けて並べていく。


 村を出たあと、しばらく補給できないものとして要る量。

 それを先に取り分ける。


 残ったのが、ヴェロナで使える分だった。


「三日だ」


 ケントゥルは低く言った。


「それ以上ここで食えば、出た先で足りなくなる」


 三日のうちに、周りの軍の動きと退路を見る。

 靴と装備を直す。

 最後に、もう一度すべてを確かめる。


 それで終わりだった。


 背後では、マルケラとルキナが、煮上がった粟を五つの椀へ分けていた。

 乾物をわずかに添え、一つずつ皆へ渡していく。

 どの椀にも、余分なひと口はなかった。


 朝食を配り終えたころ、年嵩の男が来た。


「昨夜は見逃した」


 男は空き家の竈へ顎を向けた。


「だが、次に火を使うなら、あそこだけだ」

「分かった」


 ケントゥルは即座に頷いた。


 それから、東の街道の方角を指した。


「昨夜の部隊がまだあの先にいるかもしれない。今出るのは危険だ」

「では、いつ出る」

「三日後の夜明けに出る。それまで、村の食料には手をつけない」


 男は答えなかった。


 ケントゥルが続けた。


「三晩、夜の見張りを俺とレグリウスで半分引き受ける。それでどうだ」


 男はしばらく黙っていた。


「三日だけだ」


 そう言って、背を向けた。


◇


 日が昇ってから、ルキナがティトの足首を診た。


 昨夜より腫れが広がっている。

 傷口に膿はない。

 だが、指で軽く押さえただけで、少年は息を止めた。


「三日では、歩けません」


 ルキナは布を巻き直しながら言った。


「杖をついて歩けるようになるまでにも、まだかかります」


 土間の隅で、ティトの母親がフィエリサへ頭を下げた。


「ティトが申していました。顔を伏せたお嬢さんが、水で傷を洗ってくださったと」


 フィエリサはさらに顔を伏せ、母親の足元を見た。


「手当をしたのはルキナです」

「それでも」


 母親は言った。


「最初に洗ってくださったのは、あなたでしょう? この子の母として、感謝します」


 フィエリサは、どう返せばよいのか分からなかった。


 自分一人の手柄として受け取ることも、ティトの言葉を否むこともできない。


 結局、もう一度だけ頭を下げた。


 家の外へ出ると、日はもう畑の上まで来ていた。

 刈られていない穂が、風の中でひとかたまりに揺れていた。


◇


 集落の裏手へ回ると、地面は思った以上に深く落ち込んでいた。


「下に何かあるな」


 ケントゥルは斜面の縁から谷底を覗き、そのまま足を踏み入れた。

 レグリウスも後に続く。


 木立と剥き出しの岩が重なり、上からの視線を遮っている。

 街道からは見えず、地図にも載っていない場所だった。


 やがて、谷の底に古い橋が現れた。


「これを渡るのか?」


 レグリウスが眉を寄せる。


 橋板の多くは端から腐り、靴先で縁を押すと、乾いた木屑となって崩れた。


 ケントゥルは残った板へ慎重に体重をかけた。


「荷車は無理だな」

「人なら?」

「板を選んで、一人ずつなら渡れる」


 ケントゥルは対岸まで続く橋を見渡した。


「だが、大勢を通すには危険すぎる」


 ケントゥルは支柱の根元へ手を当てた。

 湿っている。

 だが、芯まで腐ってはいない。


「板の折れているところを覚えておけ。それから、上を見張ってろ」

「どこへ行く」

「下だ」


 ケントゥルは一人で川筋を下った。


 岩壁と谷の間に、靴一足分ほどの踏み跡が続いていた。

 岩へ手を掛け、横向きに進まなければならない。


 身軽な大人一人なら、抜けられるかもしれない。

 だが、子供や老人を支えては通れず、担架など入る余地もなかった。


 ケントゥルはそれだけ確かめ、上へ戻った。


 風が谷を吹き上げ、暗い赤毛を一度だけ乱していった。

 彼はそれを払わなかった。


「道はあったか?」


 レグリウスが訊いた。


「大勢で使える道はない」


 それだけ答えた。


◇


 二日目から三日目の昼までは、静かに過ぎた。


 マルケラが靴の縫い目を糸で寄せ直す。

 ケントゥルが水を分け直し、乾物を数え直す。

 ルキナが外套の裾の泥を落とし、貴族の従者に見えるだけの形を整える。


 夜は、ケントゥルとレグリウスが交代で村外れに立った。


 ルキナとフィエリサは、朝と夕にティトの足を見に行った。

 腫れは、少しずつ引き始めていた。


 三日目の昼、ケントゥルが告げた。


「明日の夜明けに出る」


 レグリウスはすぐに荷をまとめ、荷紐を固く結び始めた。

 フィエリサは、その手元を黙って見つめていた。


◇


 その夕方、旧道の先に人が現れた。


 先に立っていたのは、片方の肩当てだけを残した男だった。

 兵の装備だが、部隊の徽章はどこにも残っていない。


 畑に人影がある。

 犬が吠える。

 扉が閉まる音がする。


 男は村の手前で足を止め、後ろへ手を上げて一団を待たせた。


 そして一人だけ、歩いてきた。


「旧道の先に、屋根の残る廃村があったと覚えていた。人がいるとは知らなかった」


 ケントゥルは戸口から外を確かめ、フィエリサたちを振り返った。


「ここにいろ。外へ出るな」


 返事を待たず、剣の柄へ手を置いて外へ出た。

 レグリウスもその後に続く。


 村外れに止まっているのは、十人だった。


 軍装の男の後ろには、担架が一つあった。

 担ぐ若者が二人。

 杖に縋る老人と、それを支える女。

 幼い子を二人連れた女。

 その少し後ろに、単身の若者が立っていた。


 ケントゥルは一団を見渡した。

 武器を持っているのは、軍装の男だけだった。


 単身の若者が、一歩前へ出た。


「あんたたちも旅の途中なんだろ。出るときは、俺も連れていってくれ」


 ケントゥルは、その若者から担架へ視線を移した。


「歩ける者だけなら、連れて行ける」

「俺は行かない」


 軍装の男が言った。


「ここまで連れてきた者たちを、置いてはいけない」


 ケントゥルは、その言葉を一度だけ確かめるように見返し、それ以上は問わなかった。


 空き家の戸口へ目を向ける。


「人数と、歩ける者を確かめたい」


 フィエリサは頷き、傍らのマルケラを見た。


「行ってください。ですが、気をつけて」


 マルケラはフィエリサと目を合わせ、その意図を確かめるように一度だけ頷いた。


「承知いたしました」


 マルケラが空き家から出てきた。


「レグリウス、護衛しろ」


 ケントゥルの指示を受け、レグリウスがマルケラの横へ立った。

 ルキナは空き家に残り、フィエリサの傍らを離れなかった。


 マルケラは一団の前へ進んだ。

 名はまだ聞かなかった。

 まず、誰と誰が連れで、誰が歩けるのかを確かめていった。


 老人と、それを支える女は父娘だった。

 もう一人の女と子供二人は親子だった。

 単身の若者には、連れがいなかった。


 マルケラが食料を見せるよう求めると、差し出された袋の底には、粗い穀物しか残っていなかった。

 十人で四日ももたない。


 その間に、村人の女たちが担架へ近づいた。

 一人が負傷者の額へ手を当て、もう一人が傷を覆う布を確かめる。


◇


 フィエリサはルキナとともに、戸口の陰から一団を見ていた。


 担架を担いできた若者二人は、柄から手を離さない。

 老人を支える娘も、その腕を放そうとはしなかった。

 子供を連れた女は、二人の頭へそれぞれ手を置いている。


「あの人たちは、どうなるのか……」


 フィエリサが小声で尋ねる。


 ルキナは、担架の男と老人を見つめた。


「歩ける方だけが先へ進めば、あの方々は……おそらく、ここへ残ることになるかと」


 歩ける者と、出発できる者は、同じではなかった。


 マルケラが確認を終えると、ケントゥルたちは空き家へ戻った。


 フィエリサとルキナが待つ土間へ、マルケラが戸を閉めてから報告する。


「自分で歩ける者は八人です。ですが、担架を担ぐ二人、老人を支える娘、親子三人は、私どもの速さでは出られません。先頭の軍装の男も、一団を残すつもりはないと申しております。明日、私どもと一緒に出られるのは、先ほどの若者一人だけです」


 ケントゥルが壁際の荷へ目を向けた。


「一人だけか」

「残される人たちは、どうなるのか?」


 フィエリサが尋ねた。


「今は、ここに残るしかない」


 フィエリサはしばらく黙り、戸の向こうへ目を向けた。


 ヴェロナへ着いた夜、彼女は答えを持っていなかった。

 三日が過ぎた今も、人々を救う方法は分からない。


 それでも、決められることが一つだけあった。


「私は出発しません」


 土間の空気が止まった。


 マルケラが目を見開き、ルキナが小さく息を呑む。

 レグリウスは眉を寄せた。


 ケントゥルはフィエリサを見据えた。


「何を言っているのか、分かっているのか?」

「はい」

「村との約束は明日の朝までだ。食料も足りない。人が増えれば、軍に見つかる危険も上がる」

「分かっています」


 フィエリサは戸の向こうを見たまま答えた。


「どうすればよいのかは、まだ分かりません。ですが、先へ進めない方々をここへ残して、私だけ先へ進むことはできません」


 ケントゥルは黙ったまま、フィエリサを見ていた。


「村が俺たちを置くとは限らない。それでも、明日の朝には出ないと決めたんだな?」


 フィエリサは、今度はケントゥルを正面から見返した。


「はい。私は出発しません」


 マルケラもルキナも、言葉を失ったままフィエリサを見つめている。

 レグリウスは納得していない様子だったが、口は挟まなかった。


 やがて、ケントゥルが短く息を吐いた。


「……分かった。明日の出発は取りやめる」


 そこで言葉を切り、戸へ目を向ける。


「だが、村が認めなければ、ここにも残れない」

「承知しています」


 ケントゥルは戸を開け、外へ出た。

 レグリウスも、その後に続く。


 村外れでは、流民たちが先ほどと同じ場所で待っていた。


 ケントゥルは彼らの前まで歩くと、告げた。


「明日の出発はいったん取りやめる。村とはこれから話す」


 流民たちの間に、小さなどよめきが起きる。


「自力で出る者を止めるつもりもない。出るなら道は教える」


 単身の若者が顔を上げた。


「……夜が明けたら、俺は出る」

「そうか」


 ケントゥルはそれだけ答えた。

 引き止めもしなかった。


◇


 村人たちが反発した。


 食料が減る。

 足跡が増える。

 人影と物音が増える。


 軍に見つかる。


 村外れには、フィエリサたちが借りている家とは別に、屋根の残った空き家がもう一軒あった。


 年嵩の男がケントゥルへ言った。


「お前たちとの約束も、明日の朝までだ」

「承知しています」


 フィエリサが前へ出て答えた。


「ですが、その前に、この方々のお話を聞かせてください」

「集落の外へ出せばいい」


 村人の一人が言った。


 ケントゥルは首を振り、その空き家を指した。


「外で焚火をすれば遠くから見える。集落の外にだけ人影があれば、かえって目につく。あの空き家へ入れて窓を塞いだ方が、見つかりにくい」


 年嵩の男は、しばらく空き家の窓を見ていた。


「今夜を含めて五晩だけだ。食べ物は出せない。灯りも一つだけだ。それ以上は置けない」


 フィエリサは頭を下げた。

 それ以上は求めなかった。


 流民たちは、その空き家を使うことになった。

 ケントゥルとレグリウスが、窓を残っていた布で塞いだ。


 その夜、軍装の男が、粗い穀物の入った袋を差し出した。


 ケントゥルは、夜明けに出る若者の分を先に取り分けた。

 それから、自分たちの革袋から、出発用の分を除いた残りを合わせた。


 一人あたりの分を削れば、約束の期限までは持つ。

 そのぶん、次に出るときの余裕は薄くなった。


 レグリウスは、翌朝のために結んでいた荷紐へ手を伸ばした。


 何も言わず、一つずつ解いていった。


◇


 流民から事情を聞くため、フィエリサとマルケラ、ルキナはもう一軒の空き家へ向かった。

 ケントゥルは荷袋を肩に掛け、その後に続いた。

 レグリウスは戸口の外に残り、待っている流民たちを見ていた。


 ほかの流民には、戸口の外で待ってもらった。


 担架の男だけが先に運び込まれた。

 担ぎ手の若者二人も外へ出る。

 マルケラが戸を閉めた。


 事情を聞くなら、覚えておくためのものが要る。


 マルケラは室内を見回した。

 壁際の棚を探り、その裏から古い家計帳を引き出した。

 棚の奥には、油皿も一つ残っていた。

 マルケラが火を入れると、小さな灯りが室内を照らした。


 穀物の量と日付が途中まで書き込まれ、その先は白いまま残されていた。


 使いかけの筆も一本見つかった。

 穂先は割れかけていたが、まだ使えそうだった。


 墨はなかった。


 マルケラは竈の内側から煤を削り、欠けた椀へ入れた。

 そこへ水を落として指で溶くと、灰色がかった粗い黒ができた。


 男は熱に浮かされたように目を閉じたままだった。


 それを確かめてから、ルキナは傷を診た。


 固まった布を外すには、水が要る。


 フィエリサは外套の内で水ファルサを握り、傷の上へ手を差し出した。

 糸ほどに集まった水が、布と傷口にこびりついた泥を流していく。


 その傍らで、マルケラが家計帳と筆をフィエリサの席の前へ置いた。


 準備が整ったのを確かめてから、フィエリサは戸口へ目を向けた。


「まず、一人ずつ事情を聞かせてください」


 最初に呼ばれたのは、その軍装の男だった。


 彼は鞘ごと剣を腰に下げたまま、戸をくぐろうとした。


 ケントゥルが手で止めた。


「中へ入るなら、その剣はここに置け。村では抜くな」


 男は動かなかった。

 それから、鞘の紐へ手をかけた。


 腰から外し、戸口の脇へ立てかける。


 土間へ入ると、フィエリサが低い椅子に座っていた。

 布は解いていない。


「名前を教えてください」

「第七軍団所属、槍兵長です」


 それが、自分の名より先に口をつく男の答え方だった。


 フィエリサは首を横に振った。


「部隊ではなく、あなたの名前です」


 男は口を閉じ、しばらくして答えた。


「……アントニーです」


 フィエリサは家計帳を開いた。


 穀物の記録が途切れた次の行に、煤の墨でその名を書いた。


 アントニー。

 一人だけ。


 フィエリサは続けて、ここへ来るまでの経緯を尋ねた。

 聞いた要点を、同じ頁へ書き留めていく。


 油皿の灯りが、煤の墨で記された一つの名を照らしていた。


 アントニーは席を立ち、戸口脇の剣を鞘ごと腰へ戻した。


◇


 戸口の外では、年嵩の男がまだ待っていた。


 村人たちが引き上げる前に、男は窓の布を自分で確かめた。


 端をもう一度きつく押し込み、外へ回って隙間を見る。


「灯りは一つだけだ。外へ漏らすな」


 それだけ告げて、村人たちは帰っていった。


 窓を布で塞いだ空き家には、家を失った者たちの小さな灯りだけが残った。

ヴェロナには行き場を失った流民が次々と集まり、フィエリサの帳面には名も所属も持たない人々が増えていく。

やがて食料を巡る争いが起こり、村人と流民は一触即発の事態へ。

異なる者たちが共に生きるため、フィエリサたちは初めて「皆が従う決まり」を作り始める。

次回、第7話「数えられない人々」

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