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アンコール



 序曲『1812年』のために、エキストラが次々とステージへ上がる。


 咲良は、袖の方へ視線を向け、万鈴が出てくるのを待っていた。背丈の小さなオレンジ色のドレスの端が、カーテンの向こうにチラチラ見える。


「あそこにいるね」


 浅井も咲良と一緒の方向に視線を向けた。


「呼んでおいでよ」


 言いながら、咲良の楽器に手を伸ばす。


「はい、ありがとうございます」


 少し難しいかもしれないが、万鈴を客演で舞台に上げてはどうかと提案してくれたのは浅井だった。

 

 咲良は、浅井に自分の楽器を預け、万鈴を迎えにステージの袖へ進んだ。その先で、万鈴は顔を上げて誰かと話しているようだった。さらに数歩進むと、話している相手が友梨奈だとわかった。


 反射的に、首の後ろが、ヒヤリとする。


 友梨奈は、万鈴の二分の一サイズのヴァイオリンを手に持っていたが、咲良の姿に気がつくと、滑り込ませるようにそれを万鈴の手に戻した。


「ありがとうございます」


 万鈴は、友梨奈にそう言った。


「いいえ。ヴァイオリニスト同士だもの」


 友梨奈はにっこり笑ってそう言い、かがんで万鈴と視線の高さを合わせる。


「お互い、頑張りましょうね」


「はい」


 万鈴は、ぎこちない笑顔を見せた。


「万鈴ちゃん、こっちよ」


 咲良が声をかけると、万鈴は安心したような顔を見せた。


「サクラちゃん!」


 咲良は万鈴を連れて席に戻った。


 客席では、孫娘の姿をこれでもかと言わんばかりの下がった目尻で見つめる駿の両親、そして少し緊張した面持ちで見守っている兄夫婦の姿があった。


「楽譜は、おじさんも一緒に見るけど、いいかな」


 万鈴を挟んで座る浅井は、小さなヴァイオリニストの姿に顔をほころばせる。


「うん……あ、はい」


 万鈴はステージに出てきて少々緊張した様子だ。


「譜めくりはおじさんがするからね」


「はい」


 まるで先生に話しかけられているかのようにうなずく。しかし次の瞬間には違うことが気になったようで、キョロキョロする。


「シュンくんは?」


 咲良は万鈴に顔を寄せ、ステージ中央の奥、ひな壇の上を指さした。


「あそこよ、真ん中の高いところ」


 駿は金色のトランペットを上げて万鈴に合図した。万鈴はそれに応えて弓を振る。その姿に咲良の頬も自然とゆるんだ。


 指揮者がタクトを振り下ろすと、チェロとヴィオラによる重厚な聖歌がホールに響き渡った。ヴァイオリンを構えたまま待機する咲良の目に、最前列でカメラを構える記者の渡部の姿が映った。今になって戻ってきている。


 その行動に呆れたものの、もう最後だ。好きに撮ればいい。半ば投げやりにそう思った。


 水田のオーボエのソロが響く。心の奥底から湧き上がる熱情を歌うようなその旋律は、まるでビロードの光沢のように品のある音で、咲良は弓を動かしながら舌を巻いた。


 ──さすがだ。

 

 喫煙スペースで下世話な噂をしていた男が出す音とは思えない。もちろんピッチの狂いなど寸分もなかった。


 そこからフランス国歌のラ・マルセイエーズが流れ、さらにロシア民謡の旋律が混ざり合う。混沌とした戦場を表す金管楽器が鳴り、厳しいロシアの冬の到来と共にナポレオン軍は追い詰められる。やがて勝利を知らせる鐘が高らかに鳴り始めた。


 万鈴は一生懸命楽譜を追いながら、要所要所で指揮者をチラッと見た。クライマックスに近づき、咲良は万鈴の楽器の弦を支える駒が微妙に傾いていることに気づいた。


 あ──


 倒れる。


 即座に楽器を膝に置き、左手を伸ばしながら身をかがめたそのとき。


 祝砲のバスドラムが、ドン! と鳴った。同時に、バチン! と鋭い悲鳴を上げる万鈴の楽器。


「あ……っ」


 声を上げる万鈴。


 咲良は、とっさに、万鈴が弾け飛んだ駒で怪我をしないよう、彼女の小さな身体からだを自分の身体で守った。


 二度目のバスドラムが響くと同時に、空気を切り裂くような硬質な風が、咲良の頭上をかすめて通り抜けた。


「っ?!」


 向かい側のチェロ奏者の譜面台が火花と共に弾け飛んだ。


「キャアッ!」


 何?


 咲良は思わず万鈴を両手に抱いて椅子の上に伏せた。


 バスドラムの音が立て続けに鳴ると同時に、咲良の周りの譜面台が弾かれて次々に倒れる。


「なんだ?!」


 あたりに漂う、火薬の焦げ臭いにおい。


 浅井がさらに咲良の上に覆いかぶさるようにして、二人をかばう。


「えっ、銃声……」


「きゃああぁっ!」


「まさか!」


「伏せろ!」


「やめやめ! 中止だ!」


 途端にステージはパニックに陥り、客席も何事なにごとかと騒ぎ始める。


「渡部!」


 駿が叫ぶ声が聞こえた。


「あのカメラマンだ! あいつが撃った!」


 非常ベルが鳴り響く中、渡部がカメラをかかえて会場のドアから姿を消した。


 まさかあの黒いレンズが、銃口?


「みんないったん袖へ!」


 浅井の声に団員は一斉に袖へ駆け込む。


「万鈴!」


 ステージの下から駿の兄が万鈴に腕を伸ばす。


「お父さん! あっ、楽器……」


「万鈴ちゃん、いったん楽器はいいから、みんな置いていくから!」


 咲良は万鈴を義兄ぎけいに託した。


「咲良、こっち!」


 浅井が咲良の手首を掴んで引いた。その行動に、浅井らしくない乱暴さを感じた。だがすぐに、この非常事態だからと自分に言い聞かせた。


「みなさん、落ち着いて!」


 義父が声を上げる。


「撃った犯人の映像を特定してドローンが追跡中です! 慌てて外へ殺到するのは危険です!」


「落ち着いてください! NDTのシステムがみなさんを守ります!」


 続けて義兄も声を上げる。


「後藤さん!」


 背後から緊迫した駿の声が聞こえた。振り返ると、クラリネットの後藤がステージ上に倒れ、右脚から血を流していた。


「救急車! 誰か救急車を呼んでください!」


 駿が後藤の横にひざまずく。


「後藤さん!」


 立ち止まって振り返っている咲良の腕を浅井が引っ張る。


「後藤さんは駿くんに任せて、きみは逃げるんだ」


「待って、でも……」


「いいから!」


 浅井に引っ張られ、咲良はステージの袖へ移動した。


「こっちだ」


 騒ぎの中、咲良は浅井に腕を引かれるまま進み、暗く狭いステージ裏の通路に出た。


「待って浅井さん、どこに?」


「上にいればいい、安全だ」


「上?」


「音響制御用の部屋がある」


 強引に咲良の腕を引き、螺旋階段を登る浅井の背中に違和感を覚える。なぜ自分をステージから離れたところに連れて行こうとするのか。妻のこともかまわずに。


 浅井は、登りつめたところにある部屋のドアを開け、咲良を連れて中に入った。


「ここにいればいい」


 そこは、音響制御室としてはすでに使われておらず、倉庫のようになっていた。窓から遥か下のステージが見下ろせる。


 浅井は身をかがめて窓からステージを確認し、それから初めて大きく息をついた。


 照明の隙間から、中央あたりに倒れている後藤が見えた。足元から床に血が流れている。


「後藤さん……」


 その横に駿がついているのが見えた。


「こんなはずじゃ……」


 咲良の隣で、確かにそうつぶやいた。


「え?」


 どういうこと──?


 浅井の横顔を見上げたときだった。ドアが開いた。


「見つけた」


 友梨奈が姿を現した。


「友梨奈! あのカメラマン、どういうつもりだ!」


 浅井の責めるような言葉に友梨奈はふふんとかるく笑った。


「どういうつもりも何も……あなたが雇ってお金を渡した男じゃない」


「ステージを狙えなんて言ってない!」


 吐き捨てた直後、浅井はハッと息を呑み、絶望的な後悔がにじむ目で咲良を見下ろした。


「……どういうこと……?」


 浅井が、お金を渡した……? まさか──


 咲良は唖然として浅井を見上げる。


「こういうこと」


 友梨奈はそう言いながら咲良の前まで歩み寄り、後ろ手に隠していたスプレーのようなものを出して咲良の顔に吹きつけた。


「……っ!」


 鼻と喉の奥にツンとした刺激を感じると同時に、ギュッと強く目を閉じる。


「ちょっとした麻酔よ。大丈夫、痛い思いはさせないわ」


 友梨奈はそう言ってクスッと笑う。


「……なにをするつもり……?」


 咲良は、頭がクラッとするのを感じ、後ろによろけた。


「咲良!」


 浅井が崩れ落ちそうになる咲良の身体を抱き止める。


 友梨奈は、立てかけられているパイプ椅子を持ち上げると、備品を入れている棚のガラス戸に思い切り打ちつけた。


 ガシャーン!! と派手な音をたてて、割れたガラスが床に散乱した。


「あなたは、慌ててここに逃げ込んで、このガラス戸にぶつかって左腕の腱を切るのよ……」


 左腕の腱を……切る──?


 遠のいていく意識のなかで、床に散らばるガラスの破片が、照明を反射してギラリと不気味に光った。


 身体はもう、ピクリとも動かない。


「さ、早くやって、拓也」


 ガラスの破片を手に持った友梨奈が近づいて来た。


「咲良を傷つけるつもりはない」


 友梨奈はフンと笑う。


「俺たちが恨んでいる相手は、NDTだ。襲撃の対象は社長の中川哲郎だったはずだ」


 義父を……?


「なぜ……そんな、こと……」


 咲良は遠のく意識のなか、そうつぶやいた。


「夫婦で優雅に暮らしてて……何も知らないのね」


 友梨奈はガラスの破片を咲良の頬に付けた。


 視界はぼやけ、体の感覚ももうよくわからない。自分が座っているのか横になっているのかも。ただ、浅井がすぐそばにいることはわかった。彼は自分の味方だと思いたかった。


「私の父の会社は、NDTに潰されたのよ。それを苦に母は自死を選んだ」


 七年前、噂で聞いた話はそれだ──


「拓也の父親も、潰された。……彼と私は同じ穴のむじななのよ。昔も、今も」


 友梨奈は、咲良の頬に当てたガラスの破片を下ろし、スーッと肩から左腕へ、愛おしむように滑らせていく。もう、感覚は完全に、ない。


「事情通だった記者の渡部がお金に困っててね。助けてあげる代わりに、NDTの社長襲撃を依頼したんだけど……そんなんじゃ、私はおもしろくないわけよ」


「おもしろくない?」


 浅井が友梨奈に聞き返す。


「おもしろいわけないでしょ!」


 低く凄む声。


「中川哲郎にとっては、輝かしい経歴のあるヴァイオリニストの嫁と、大事な大事な孫娘が、自分のせいで傷つけられる方が苦しいはずよ」


 だから、ステージの自分と万鈴を狙ったのか──


「咲良たちは関係ない! だから姪っ子はステージに上げるようにしたんだ」


 それで──


 万鈴を客演でステージに上げてはどうかと提案したのは、銃撃に巻き込まないようにするためだったのか。


「拓也……それが、私はおもしろくないの」


 友梨奈は、静かに、浅井にそう言った。


「許さないわよ……今さら、この女が特別だなんて」


 友梨奈のそのセリフに、咲良のぼんやりする頭の中で、認めたくはない点と点が、線でつながってしまう。


 裏口で彼女と話していた、男性の声。


 あの声は──

 

 浅井だ。


「ドレスに細工したり、脅迫メモを残したり……挙げ句、ステージを銃撃させるなんて……計画はぐちゃぐちゃだ」


「あなたが好きなこの女をぐちゃぐちゃにするためよ!」


「友梨奈やめろ!」


 そのときだった。


「こんの、アバズレが!!」


 突如、男の罵声が聞こえた。


「きゃあっ!」


 友梨奈が声を上げて横に倒れた。その後ろに姿を見せたのは、オーボエを握りしめて肩を上下に揺らす水田だった。


「コソコソ舞台裏から上がって行くのが見えたから、ついて来てみりゃ……絶対ロクな女じゃねぇと後藤と話してたんだ!」


「ロクな女じゃないのは、この女の方よ! 人の不幸も知らずにのうのうとコンマスの座について。本当は拓也の席だったのに。それもこれも全部、NDTのせいよ!」


「あぁ?! 寝言いうんじゃねぇ!」


 水田は床に唾でも吐き捨てんばかりに、友梨奈を睨みつけた。


「そりゃスポンサーの嫁は鼻につく。けどヴァイオリンの腕は本物じゃねぇか。伊達だてに世界で戦ってきたわけじゃねぇってこった! それを……おまえらのくだらねぇ復讐のダシにすんじゃねぇ!」


「くだらねぇって何よ!」


「くだらねぇことに音楽を巻き込むな! っつってんだよ!」


 言い合う二人の横に、ふっとオレンジ色の小さなドレス姿が現れた。


「だからマリンの楽器の駒が倒れたの?」


「ま……」


 咲良は、渾身こんしんの力をふりしぼり、万鈴に手を伸ばす。


「ステージの袖で、マリンの楽器を調整してあげるって言ったよね? ウソだったの?」


「万鈴! こんなところにいたのか!」


 慌てて義兄が飛び込んでくる。


「でも、サクラちゃんにこんなイジワルしなくてもいいじゃない!」


 とたんに、ウワァーン! と声を上げて泣きだす万鈴。抱きしめる義兄。倉庫となった音響制御室に、ドヤドヤとたくさんの人がなだれ込んで来るのがわかった。


「咲良、ごめん」


 浅井は、涙声だった。そして、ぐったりする咲良を抱きしめて、耳元で、ささやいた。


「ずっと──好きだったんだ」


 あのとき──


 音大のレッスン室で聞きたかったのは、その言葉だった。


 あのとき、その言葉を聞いていたら──

 今日のこの未来は、変わっていただろうか。



 そこからは、よく覚えていない。駿が見たこともない顔をして、すごい剣幕で近づいてきたことと、水田のオーボエの音は覚えている。


「あぁ、無事で良かった、楽器」


 さすが──

 

 この状況で、殴った女性の友梨奈のことより、楽器の心配をしている。




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