第二部
ホールに響く拍手。
ステージに当たるライトの熱を右頬に感じながら、咲良はその中央へ進んだ。
この曲ではコンサートマスターの席に座る浅井が立ち上がり、咲良に右手を伸ばした。いつもと変わらない穏やかで優しい笑顔は、彼女を落ち着かせる。
咲良は、ほほ笑んでその手を握りかえした。
「がんばれ」
浅井は小さく咲良にそう言い、手を離して席に着いた。
客席の方を向くと、最前列の家族の横には支社長が加わり、こちらを見つめていた。端の方にいた記者の渡部の姿はない。ソロをあのカメラで捉えられるのは気分が悪いので、いないのは何よりだが、逆にここを撮らずに何を撮るつもりだろう、とも思った。
指揮者の合図で、ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 Op.35は、弦楽器のなめらかな音と共に幕を開ける。ソロ演奏が始まると、咲良にそれまでの緊張と邪念は消えた。曲の世界に入り込み、弦を押さえる指先を滑らせ、弓を大きく動かす。
第一楽章が次第に盛り上がり、オーケストラ全体が力強く全奏したあと、急に音は止み、咲良一人の音がホールを支配する──独奏部に入った。
この超絶技巧も、今では自分の身体から奏でるように、自由に思うままに表現できる。目を閉じると、初めて弾いたころの記憶がよみがえった。
──十二年前──
「上手いじゃん、チャイコン」
音大生だった咲良は、その声にハッとしてレッスン室の入り口に顔を向けた。
「浅井さん!」
いつの間にかドアを開けた浅井がこちらをのぞいていた。こっそりこんな大それた曲を練習しているところを見つかってしまい、思わず頬が紅潮するのを感じた。
「やだ……いつからドア開けてたんですか? 外に聞こえるじゃないですか」
「カデンツァの最初から」
浅井は咲良の反応を面白そうに見ている。
「もう……」
咲良は手で熱くなった顔をあおぎながら、レッスン室の外に誰もいないか、廊下をのぞこうとする。
「誰もいないよ」
浅井はそう言い、中に入って防音の厚く重たいドアを閉めた。
「斉藤先生に言わないでくださいよ」
「なんで?」
「だって、課題曲の練習のためにこの部屋を借りてるのに、全く関係ない曲を練習してたなんて……」
浅井は、このときから変わらない、優しいほほ笑みを咲良に向けた。
「咲良はいつか、大きな舞台でこの曲を演るよ」
「えぇ……?」
このときは、とてもそんなことは考えられなかったので、ますます恥ずかしかった。
「だから、そのときにむけて練習だろ? 大事だよ、そういうの。チャンスが巡ってきたときに弾けた方がいいよ」
音大のヴァイオリン専攻同士は、先輩も後輩も皆ライバル。お互いを牽制し合うこともある生活のなか、浅井だけはそうではなかった。
「……ところで、どうしてここに?」
「あぁ、知人にリサイタルのピアノ伴奏を頼まれてさ。『なつかしい土地の思い出』の『メロディ』。俺はヴァイオリンだってのに、伴奏だってさ」
浅井は笑いながら状況を説明した。
『なつかしい土地の思い出 Op.42』は、チャイコフスキーのピアノ伴奏によるヴァイオリンの曲だ。三つの小品から成り、三曲目の『メロディ』は美しい旋律が人気で演奏されることが多い。
「ピアノの練習したいから付き合ってくれない? 咲良、弾けるだろ、『メロディ』」
「ええ、いいですよ」
浅井がここに来た理由など、咲良にとってはなんでも良かった。ヴァイオリンだけに全てをかけ、殺伐とした学生生活の中で、彼の存在だけが気持ちを高揚させるものだったからだ。
それから二人でメロディを演奏した。浅井の寄り添うような伴奏が、咲良に心地よくヴァイオリンを演奏させた。そのたった数分が、楽しくて幸せだった。
「ピアノでもやっぱり、咲良とはやりやすいな」
「そうですか?」
私も──浅井さんとは、いちばんやりやすい。
勇気を出してそう言いかけた、そのとき。レッスン室のドアにノックの音がした。
「友梨奈」
ドアの窓から中をのぞいていたのは、江崎友梨奈だった。咲良は彼女と目を合わせて会釈をする。すると重たいドアがゆっくり開いた。
「拓也、ここにいたのね」
友梨奈と浅井は仲が良かった。社長令嬢の友梨奈と、外交官の父親を持つ浅井は、お似合いのカップルだと噂されていた。
咲良は、平凡なサラリーマン家庭で育った。音大への進学は両親にとって経済的に楽なものではなく、奨学金を得て入学した。そんな咲良と二人は、越えられない隔たりがあるように感じていた。
二人がつきあい始めたと聞いたのは、それから間もなくしてだった。
──やっぱり、自分とは、住む世界が違うんだ。
それから咲良は、ますますヴァイオリンに打ち込んでいった。
カデンツァも終わりに近づき、指揮者と目を合わせる。そのあとふたたび、オーケストラはフルートの旋律で鳴り始める。咲良はその音を飾るように、高音のトリルを静かに弾いた。
そこからゆっくりと上りつめるように、第一楽章の盛り上がりは最高潮に達し、終わった。
かるく楽器を調整したあと、すぐに第二楽章が始まる。木管楽器の憂いを含んだメロディ。
本番前、噂話で皮肉を口にしていた後藤のクラリネットが聞こえる。リードの調子は良いのだろう。寂寥感のある深い音色が美しく響く。咲良はそれに乗るように、悲哀あふれる旋律を奏で始めた。
ずっと夢見てきた、このヴァイオリン・コンチェルトのソロ。それがやっと、現実になった。この場を与えてくれたのは駿やその家族だ。
咲良はそんな思いを胸に、あふれ出す感情を音に託しながら、意識はただひたすら無心に、弓を滑らせ続けた。
盛り上がっては落ち、また盛り上がっては落ちる。それはまるで、人生を語るようだ。この曲が愛されるのは、人々がみずからの人生を重ねるからだろう。
──七年前──
音楽で生計を立てるというのは、どんな名門の音大を卒業したとて、難しいことだ。それはほんの一握りの人間にしか成し得ない。
音大卒業後、咲良は日本でいくつかプロオーケストラのオーディションを受けたが、合格できなかった。エキストラを掛け持ちして生活をしながら、コンクールに挑戦する日々が続いた。
コンクールで上位に入賞すれば、世界のオーケストラから声がかかる。優勝ともなれば、世界的なマネジメント会社がつき、一流指揮者との共演、CDデビュー、一気に世界のソリストになる。
だが、現実は甘くない。コンクールは予選落ちの連続だった。
そんな生活をしていたとき、ロシアのチャイコフスキー国際コンクールの予選で駿と出会った。彼はその年に新たに創設された金管楽器部門にエントリーしていた。
「学生時代は呑気だったよね。親の力で通わせてもらってさ、いかにも音楽家です、みたいな顔して」
当時、お金が無かった咲良たちは、本選を前に日本から持って来たカップラーメンをホテルの駿の部屋で一緒にすすっていた。
「あー、あったまる、なんだかもう日本に帰りたくなっちゃった……」
こんなインスタント食品にすら、ホームシックを覚えた。母親について来てほしかったが、そんなお金があるはずもなく、一人で予選会場にいたところを、同じ日本人の駿に声をかけられた。
「なに言ってんの、明日本選だよ。夢にまで見た本選」
割り箸片手に明るく笑う駿。彼は、わざわざこんなところでカップラーメンをすする人生を歩まなくてもいいだろうに、単身で海外を周っており、このロシアに乗り込んで来ていた。
「駿くん……お父さんの会社に入ろうとは、思ったことないの?」
駿の父親が、何かものすごく大きく有名な会社の経営者だということは聞いていた。
「入らないよ、そんなもん。会社は兄が入ってるしさ。僕は、僕の好きなことで成功したいんだ。そのために今までお金も出してもらってきたし、トランペットで成功しなきゃ恩返しになんないよ」
駿は、何度コンクールに落ちても腐ることなく、ひたむきに夢を追っていた。ダメなら父親の会社があるのに、それには全く興味がなく、ブレない信念を持っているところが、二つ年下ながら頼もしかった。
「咲良ちゃんこそ、美人なんだからさ、そのへんの音楽家つかまえて結婚する道もあるよ?」
「いやよそんなの。私、結婚願望とかないもん。ヴァイオリンで成功することが私の人生の目標だし。駿くんだってそうでしょ?」
すると駿は、真顔で一瞬黙る。
「……結婚願望、ないの?」
そこ、聞き返すわけ?
咲良は不思議に思いながら、素早く瞬きをしてうなずいた。
「考えられないもの」
駿はそう答える咲良を横目に、ラーメンのカップを片手に持ち、汁をズズズッと吸いこんで息をついた。
「ああ、美味しかった」
「そうね、カップラーメン、ブラボー」
「ブラボー」
咲良と駿は、そのときのコンクールで、お互い初めて入賞することができた。
同じころ、友梨奈の父親の会社が傾き、彼女の華やかな生活が一変したという噂を聞いた。それに浅井も巻き込まれて大変なことになっているらしい、とも。詳しい事情は知らなかったし、知ろうとも思わなかった。当時は咲良も他人のことどころではなかったし、すでに浅井は過去の人になっていたからだ。
そこからさらに四年が経ち、共に切磋琢磨しながら演奏活動を続けてきた駿と結婚した。浅井とは帝都フィルで再会を果たすことになる。咲良は、先に入団していた駿の勧めで、次期コンサートマスターの椅子を用意され入団したが、浅井が音大の先輩だったということは、駿も知らないことだった。
そしてそのとき浅井には、友梨奈ではなく、ヴィオラ奏者の妻がいた。
──結局、そこに落ち着いたのか。
そう思った。
咲良は、第二楽章を過去の思い出と共に弾ききった。そのまま続く第三楽章は、それまでの感情を振り払うように力強く駆け抜け、今日いちばんの魂を込めたボウイングでヴァイオリン・コンチェルトを終えた。
「ブラボー!」
同時に会場に響く称賛の声、割れんばかりの拍手。咲良の瞳に、スタンディング・オベーションが映った。
やりきった──
達成感と、安堵と──なにより高揚感が、体からあふれ出しそうだった。
そして鳴り止まない拍手のなか、万鈴が大きな花束を持ってステージの袖から姿を現した。
「サクラちゃん」
「万鈴ちゃん……いつの間に?」
万鈴が花束を持って来るなど聞いていなかった。
「すっごいかっこよかった! マリンも絶対、サクラちゃんみたいになる!」
その言葉は、何よりの称賛だった。滅多に泣くことなどない咲良も、このときばかりは目に涙がうかんだ。
良かった──無事、コンチェルトを演奏しきった。
「ありがとう、万鈴ちゃん」
万鈴をハグしたそのとき。冷ややかな視線を感じた。
ステージの袖──
カーテンからこちらをのぞく、友梨奈の、鋭い視線。
団員たちが万鈴の登場に和やかな表情を見せているそのなかで、彼女の冷たい視線だけが異質だった。




