第一部
開演のブザーが鳴った。
ざわめいていた客席は静かになる。
白いライティングに浮かび上がるようなステージ。あそこは、周りよりも温度が高い。
順に団員がステージへ入り始めると、客席からは拍手が鳴った。咲良が最後にステージへ出ると、一際拍手は大きくなる。
最前列には、駿の両親、兄夫婦とその長女、万鈴が座っているのが見えた。咲良の姿を見た万鈴はパァッと表情を輝かせる。咲良はそんな万鈴ににこっとして小さく手を振った。
咲良は、子どもは好きではなかった。産むつもりもない。それでもいいと言ってくれたから、駿と結婚した。兄夫婦にはすでに子どもが三人いる。だから自分に子どもはいなくてもいいのだと。
万鈴は末娘で小学校三年生。咲良に憧れてヴァイオリンを始めた。〝咲良ちゃん〟と呼び、自分を慕う万鈴だけはかわいいと思っていた。
最前列の端には、記者の渡部の姿も見えた。
〝祝砲で撃つ〟
レンズの黒い穴が、まるで自分を狙う銃口のように見えて、咲良は不快感から目を逸らした。
席に着くと、オーボエのAの音が響き、管楽器がそれに倣う。次いで立ち上がった咲良がAを鳴らすと、弦楽器全体の音が波のように重なっていった。
音がやみ、静寂のなかに指揮者が姿を現した。咲良は彼と握手を交わす。割れんばかりの拍手に包まれ、いつもどおりに演奏会は幕を開けた。
駿のトランペットのファンファーレを耳にして、咲良はオーケストラを牽引するように、大きく力強く弓を二度引き下ろした。
演奏が進み、楽譜の一ページ目を左隣の浅井がめくった。いつもどおりのタイミング。今日はリラックスしているのか、上半身が自由に動く気がする。一曲目のエフゲニー・オネーギンは五分程で終わり、すぐに二曲目のロメオとジュリエットに入る。
二曲目も終盤に近づいたころ、浅井の視線に気がついた。隣り合う咲良の脇のあたりをチラッと見て、視線を楽譜に戻す。そしてもう一度チラッと見た。
──なに?
ヴァイオリンが数小節休みになったタイミングで、浅井はふたたび目線を咲良の身体に落として何かを訴える。
「咲良、脇」
木管楽器の静かなパートに紛れ、浅井の声が耳に届いた。
脇?
咲良は、膝の上に置いた楽器を支える左腕をわずかに浮かせ、自分の脇のあたりに視線を向けた。
「……!」
黒いドレスの脇の縫い目が裂け、縦に大きく生地が開いていた。隙間から下着がのぞいている。
いつの間にこんな……
どうりで上半身が動きやすいと思ったはずだ。客席からは見えない左側なのが不幸中の幸いだ。
浅井は、左奥の奏者から見えないようにするためか、いつもより咲良の方に身体を向ける姿勢を取り、そのまま二曲目の演奏を終えた。
拍手の中、ステージは暗転した。
「なんでそんなことに?」
浅井は立ち上がりながら咲良に顔を寄せた。
「わかりません。着替えた時はこんなことには……」
「とりあえず袖に入ろう。どっちみち、きみはこのあと着替えだ」
浅井は自分のジャケットを脱ごうとした。咲良に着せてくれようとしているのがわかった。それは親切だったが、必要以上にも感じた。咲良は片手を上げて浅井の行動を遮った。
「いいです。腕を下ろしてれば見えない」
家族は最前列で見ている。暗転しているとはいえ、いつもと違う動きをしては異変に気づかれる。
「サクラちゃーん」
抑えた声で、ステージ下から万鈴が声をかけてきた。咲良は何事もなかったかのような態度で楽器を持って立ち上がる。
「着替えてくるわね」
口の動きだけでそう言い、小さく手を振ると、万鈴はうれしそうに手を振りかえした。咲良はほほ笑み返すと、袖に向かって足早に歩いた。記者の渡部の姿はない。
良かった。あの男に気づかれると面倒だ。
「楽器、持とう」
浅井がそう言って手を出す。
「いえ」
咲良はそう答え、ステージの方を一瞬振り返った。
「黙っててください」
そして小声で先を続けた。
「こんなこと、お義父さんにバレたらめんどくさいわ」
浅井は小さく息を吐いた。
「……確かに」
そのとき、女性の声が割って入ってきた。
「あら、舞台袖でトップ二人が秘密の話?」
今回の演奏会にエキストラで第一ヴァイオリンに入っている、江崎友梨奈だった。
「友梨奈」
彼女も浅井と同じく、音大の先輩だった。その時代に、二人はつきあっていた。
「俺の入りが遅れたフレーズがあってさ、怒られてた。……怖いだろ? うちのコンマスは耳が良すぎる」
そう言って、浅井はわざとおどけたように肩をすくめた。
「ふぅん……」
友梨奈は二人をジロジロ見る。
彼女は以前から、咲良と浅井の関係を面白半分に噂しては、浅井の妻を不安にさせていた。トラブルメーカー的なところもあり、エキストラは今回限りになりそうだ。
学生時代の彼女は、咲良が知る限り、そんなふうではなかった。父親が貿易会社の社長で、ドバイにも自宅があり、絵に描いたようなお嬢さまだった。だが卒業後、その父親の事業が失敗したという噂を聞いた。そのせいだろうか。十数年で、人は変わるものだ。
「さ、行こう。きみは着替えなきゃ」
浅井は咲良の左側に立ち、友梨奈との間を遮った。
「じゃ、友梨奈、あとはアンコール、よろしく」
第二部のヴァイオリン・コンチェルトは、ソロの音を聴かせるためにオーケストラの人数を減らす。
友梨奈は斜めにこちらを見据えたあと、ぷいっと顔を背けて控え室の方へ歩き始めた。浅井はその姿を見届けると、咲良にうなずいた。咲良もそれにうなずきかえした。
「咲良さん、どうかしたの?」
友梨奈との一部始終を見ていたのか、浅井の妻が心配そうにやって来た。妙な噂を流されたせいか、必要以上に勘ぐられている気がした。
「いえ、なんでも。着替えてきます」
咲良は浅井の妻を振り切るようにその場を去った。駿に見つからないうちに早くこの破れたドレスは脱いでしまおう。
楽屋に戻ると、楽器をケースに置き、パーテーションで仕切られた絨毯敷きのスペースの手前でパンプスを脱いだ。第二部の衣装がすぐそこにかかっている。
咲良はソロ用のピンクのサテンドレスを広げて確認した。異常はない。
そのとき、楽屋のドアにノックの音がした。
「咲良、開けていい?」
駿だ。
咲良は急いで脇が破れたドレスを脱いだ。
「ええ、いいわ、もう着替えてる」
「僕が手伝うって言ってたのに。鍵もかからない部屋で一人で着替えは危ないよ」
鍵がかからない──
そうだ。この楽屋には、鍵がない。誰でも入れる。
「急がなきゃ、NDTの中東支社長にご挨拶しなきゃならないでしょ」
咲良は話しながら、脱いだドレスを足で端に寄せた。
「だから急いで来たよ」
駿がパーテーションの向こうから姿を現した。
「兄さんがもうすぐ着任する支社だ。いい印象をつけとかないと」
そう言いながら靴を脱いで絨毯に上がる。
「僕はドレスのことはわからないけど、これも義姉さんの見立てだし、話のネタにしてよ」
「ええ、そうね」
駿は話しながら咲良と一緒に鏡に向き合ってドレスを引き上げる。
こんな派手なドレスは気が引けるし、団員の噂のネタにされるのは目に見えている。だが義姉の勧めを断るわけにもいかなかった。
「これは僕からのプレゼントだよ」
駿は、持ってきた小さな箱からビロードのケースを出し、その蓋を開けて見せた。プラチナの台に揺れるダイヤがあしらわれたピアスだった。
「綺麗ね……」
「つけてあげる」
咲良がつけていたピアスを外すと、駿が代わりに新しいピアスをつけた。そして、鏡に映る咲良を見つめる。
「僕は幸せ者だよ。こんなに美しいトップヴァイオリニストが妻だなんて」
「そう?」
咲良はわずかに口の端を上げる。その顔に駿は表情を曇らせる。
「あんまり嬉しくない?」
咲良の脳裏に、〝祝砲で撃つ〟と書かれた五線譜のメモがよみがえる。
「うれしいけど……緊張してるのよ」
ドレスのことがなければ、あんなふざけたメモのことなど忘れてしまっていたのに……
「デビュー戦だからね、無理もない。でもいつもどおりに弾けば大丈夫だよ。僕も家族も見守ってる。アンコールは万鈴もステージに上がるし。楽しもう」
駿はそう言ってほほ笑み、左手首のロレックスに視線を落とす。
「さ、きっともう待ってるよ、支社長」
「そうね」
咲良はパンプスをはき、置いておいたヴァイオリンを手に取った。
そのとき──
「……?」
ケースの底に、折りたたまれた紙があった。それに右手を伸ばす。
「サクラちゃん!」
開いたドアの向こうから万鈴が顔を出した。咲良は手を引っ込めて振り返った。
「万鈴ちゃん、来たのね」
「うん、みんな来てるよ」
家族と支社長だ。あの紙を確認するのはあとにしよう。
咲良はそのまま駿について廊下に出た。少し進んだところにある談話スペースで、駿の家族とNDTの支社長が談笑しながら待っていた。
「お待たせして申し訳ありません」
頭を下げながら歩み寄る。
「いやいや、こちらこそ申し訳ない。大事な舞台の前に」
細身のスーツに身を包んだ四十代の支社長は、ソファから立ち上がった。
「本日はお忙しいところお越しいただきまして、ありがとうございます」
簡単に挨拶を交わし、駿に言われていたとおり、ドレスは義姉の見立てだということを話した。
その間、談話スペースの向こう側の大部屋前にいる数人が、こちらを遠巻きにチラチラ見て何やら話しているのが目についた。どうせまた噂話だ。
NDTは紛争地の防衛システムで高い評価を受けている。その中東支社長の存在はマスコミも追うほどだ。団員が注目するのも当然だろう。
「もう時間だ、我々は客席に戻ろう」
義父の言葉に一行は客席へと戻る。
「じゃあねサクラちゃん、頑張ってね!」
「うん、万鈴ちゃんもアンコールはよろしくね」
咲良は万鈴と片手をハイタッチして別れた。あと五分で第二部が始まる。
駿は楽器を取りに自分の楽屋に戻った。咲良も、落ち着くためにいったん自分の楽屋へ戻ろうと、廊下を進んだ。
「余計なことをするんじゃないよ」
男性の声が、裏口の外からかすかに聞こえてきた。
「するわよ! 私はそのためにここに来たのよ。あなただってそのつもりで私を呼んだんでしょ?」
感情的な女性の声は友梨奈だ。裏口のドアのすぐ横に姿が見えた。
ただならぬ雰囲気に、咲良は思わず、廊下の角に身を隠した。そっと、その二人の様子をうかがう。
「ねぇ……まさかあなた、あの女が好きなわけじゃないわよね」
甘えるような、拗ねるような。けれどどこか冷ややかで試すような声を出す友梨奈。
「そんなわけないだろう……」
「じゃあ、キスして」
……!
咲良は思わず、視線を外して廊下の角に隠れた。
「もう時間になる……」
「あなたが行かなくても人数は足りるわよ。ねぇ……アンコールにさえ出ればいいでしょ……」
「バカ言うな、もう行く」
男がそう吐き捨て、裏口から中に入って来る気配。そしてカツカツと足音をさせて廊下を楽屋の方へ歩いて行った。
行かなきゃ──もう時間がない。
咲良が廊下の角から一歩出ると、ちょうど友梨奈と出くわしてしまった。友梨奈はその大きな目をさらに開き、咲良の姿を上から下まで見た。
「あら、さすがコンサートマスターね。素敵なドレス」
咲良は友梨奈に頭を下げ、その横を通り過ぎようとした。
「アンコール、お願いします。もう時間ですので」
友梨奈の口の端がわずかに持ち上がる。
「袖で聴いてるわね、お得意の、チャイコン」
咲良はそのまま足早に自分の楽屋に戻り、ドアを閉めて大きく息を吐いた。
まさか、この楽団内に友梨奈がつきあっている男性がいるとは、思ってもみなかった。しかも、なにやら揉めている様子だった。
いけない、もう本番だ。集中しなければ。
水を飲むために、いったん楽器をケースに置こうとした瞬間、咲良の手が止まった。さっき拾い損ねたままの折りたたまれた紙が、ケースの底にある。
また、五線譜だ──
咲良はそれを手に取り、楽器をケースに置いて、恐る恐る、広げてみた。
〝今日でおしまいだ〟
その殴り書きに、背筋を冷たいものが走った。
「なにこれ……」
そう声に出したときだった。
「中川さん、お時間です。お願いします」
ステージマネージャーの声が聞こえた。咲良はそのメモも握りつぶし、ゴミ箱へと放った。
打ち合わせのメモなんかじゃない。悪質な嫌がらせだ。大きく拍動する胸に、右手の拳を当てる。
ここでやめるわけにはいかない。このコンサートにはNDT以外のスポンサーもいる。業界も注目している。潰されるわけにはいかない。
舞台の袖から、ステージに入っていく団員の後ろ姿が見えた。いつもと変わらないその光景を見送りながら、咲良は大きく深呼吸した。
落ち着くのよ。
私は、中川咲良だ。
この歴史ある帝都フィルハーモニー管弦楽団の、新コンサートマスターに就任した。
その名に恥じない演奏をするだけだ。




