序章
〝帝都フィルハーモニー管弦楽団 第五十六回定期演奏会 〈チャイコフスキーの夕べ〉〟
コンサートホールの入り口に掲げられたその看板を、秋の夕陽が照らす。
「ヴァイオリニストの中川咲良が帝都フィルに入るとはな」
「驚きましたよ。チャイコフスキー国際コンクールの入賞者でしょう」
ホールに入り始めた観客は、パンフレットを片手に雑談する。
「海外でも弾いていたはずだ」
「それが日本に戻ってくるとはね」
ロビーに並ぶ祝いのスタンド花の列。その中でもひときわ目立つ一基に、観客は目を留めた。
〝中川ディフェンス・テクノロジー 代表取締役 中川 哲郎〟
「スポンサーの社長の息子が旦那らしいですよ」
「あぁ、なるほどな」
「旦那がここのトランペット奏者」
「へぇ」
観客の一人が腕組みした手を顎にやり、眉根を寄せる。
「でもNDTと言えば、あの事故をうやむやにしたよな」
「ああ、アフガニスタンのね。システムの欠陥」
「お偉いさんに死傷者が出てけっこうなニュースだったじゃないか」
「シッ、噂をすれば……」
観客たちの視線の先には、裕福なたたずまいの親子三世代の姿があった。
「まぁ、オレンジのドレスがかわいらしい」
「お孫さんね、楽器ケースを持って……」
そのころホールの奥では、リハーサルを終えた帝都フィルの団員が、本番までの時間を各自のルーティンの中で過ごしていた。
咲良は楽屋でヴァイオリンの弓を注意深く見つめた。松脂は十分に塗布している。毛の抜けや偏りもない。
開いた楽器ケースから、ヴァイオリンを左手で取り、肩当てを顎と鎖骨で挟んで位置を定める。一拍おいて、弓を弦に当て、滑らせる。音の立ち上がり、開放弦の響き、ポジション移動の滑り。どれもスムーズだ。
今日のコンサートは、今までこなしてきたステージとは違う。自分がこの帝都フィルハーモニー管弦楽団の〝顔〟となる第一回目のコンサートだ。
──いつもどおりやれば、大丈夫。
深呼吸したとき、楽屋のドアにノックの音がした。
「はい」
咲良は楽器を構えたまま答えた。
「咲良、月刊クラシックが取材に来てるよ。開けていい?」
ドアの向こうから聞こえてきたのは、トランペット奏者の夫、駿の声だ。リハーサル終了後に取材のアポを入れられていた。
「どうぞ」
大事な本番前に雑誌の取材など、気乗りはしなかった。だが、今日のこの日をお膳立てしてくれたのは駿とその父親の会社だ。その息のかかった記者とあらばしかたない。
ドアが開くのと同時に、咲良は楽器をケースに納めた。
「失礼いたします」
タキシード姿の駿と共に、グレーのスーツを着た小太りの中年男性が入って来た。
「お忙しいところ、お時間ちょうだいしまして、申し訳ありません」
ぺこぺこと頭を下げながらこちらへ近づいて来る。
「月刊クラシック編集部の渡部と申します」
差し出される名刺。咲良はそれをスッと受け取る。
「中川咲良です。どうぞ、おかけください。あまり時間がないので、早速始めていただけますか?」
正確には、あまり時間をかけたくない。そろそろ着替えもしなくてはならない。
咲良はテーブルに収められたパイプ椅子を引いて座った。
「では失礼して、早速」
渡部はパイプ椅子に腰を下ろすと、スーツの胸ポケットから小さなノートとペンを取り出す。
駿は咲良の隣に椅子を持ってくると、にこにこしながら腰掛けて、渡部の方を向いた。
「まずは、歴史ある帝都フィルハーモニー管弦楽団のコンサートマスターにご就任、おめでとうございます」
このところ、幾度となく耳にした月並みなセリフ。
コンサートマスター。
第一ヴァイオリンの首席であり、指揮者の隣で楽団全体をまとめる役目を担う。咲良はそのポストを用意され、帝都フィルに招かれた。
「ありがとうございます」
今日も月並みな返答をする。そして、次の言葉も予想はついていた。
「帝都フィル史上、初の女性コンサートマスターでしかも最年少。この快挙をどう受け止めておられますか」
初の女性。
まず、それが快挙と言う時点で気分が悪い。だがここは、今までのプロ生活で培ってきた穏やかな作り笑顔で冷静に答えた。
「私一人の力ではありません。ここにいる夫や家族の力添えなしに、今日この日を迎えることはできませんでした」
渡部はうんうんとうなずきながら笑顔を浮かべる。
「いやぁ、噂どおり、美人トップヴァイオリニストというだけではなく、夫や家族を立てるところが素晴らしい。あのNDT……中川ディフェンス・テクノロジーの支援も納得だ」
しょせん、この記者は、音楽的なことよりも、後ろ盾であるNDTにしか興味がない。
──本番前だ。
咲良は、渡部の言葉など聞き流すことにした。
駿がそんな咲良の横顔を見たあと、あらたまって渡部に話し始める。
「今日の演目は、彼女のヴァイオリンの魅力を存分に楽しめる構成で、多くのファンが足を運んでくださいます。だから父も出資してくれた」
あくまでも音楽的要素を主張する。
「特にチャイコン……チャイコフスキーのヴァイオリン・コンチェルトは鳥肌が立つ」
渡部はノートに視線を落とし、ペン先でメモ書きをなぞる。
「通常、ソリストは外部から招かれるものですが、今回、咲良さんがソロを務められるのは、コンサートマスターとしてのデビューを記念するものということですね?」
「そういうことです」
即答したのはもちろん咲良ではなく駿だった。
「彼女は今までも世界のオーケストラと共演してきた。自然なことです」
渡部はそれを聞いてか聞かずか、ノートに落とす視線を移動させる。
「第一部が、『エフゲニー・オネーギン』ポロネーズ、幻想序曲『ロメオとジュリエット』で、第二部がその、『ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 Op.35』ですね?」
駿がうなずく。
「エフゲニー・オネーギンはトランペットのファンファーレで始まる華やかな曲です。まさに記念すべきコンサートの開幕にふさわしい。そのあと、大衆人気の高いロメオとジュリエットを持ってきました」
日本人はチャイコフスキーが好きだ。〈チャイコフスキーの夕べ〉と銘打っておけばたいがい失敗はしない。
「そして……アンコールに準備されているのが、序曲『1812年』」
渡部のその言葉に、饒舌だった駿は口を閉じる。わかりやすい反応だ。咲良がここにきて初めて楽曲について口を開いた。
「エンターテインメント性が高くて好きな曲なんです。人数が必要なので、最後は客演の方にもステージに上がっていただいて、みなさんで演奏できたらと思いまして」
「ほぉ」
渡部はペンを握りなおす。咲良は淡々と説明を続けた。
「『1812年』は、ナポレオンのロシア遠征を題材にした曲です。ロシア側の勝利を描いていて、終盤では祝砲を撃つシーンがあります」
ノートにペンを走らせながら聞き返す渡部。
「祝砲、ですか」
咲良はうなずいた。
「チャイコフスキーは楽譜に〝Пушки〟と、ロシア語で大砲を使うことを指示していますが、たいていはバスドラムで代用されます」
渡部は視線をノートから上げた。
「それはその、実際の大砲が使われることもあるんですか。演奏会で」
「ええ、もちろんあります。日本では陸上自衛隊の音楽隊が、105mm砲を楽器として所有しているのは有名な話です」
渡部は目を見開いて身を乗り出した。
「そりゃ面白いですね、見てみたいな」
その反応に駿は苦笑いする。
「この曲は昨今の世界情勢に鑑みて、一時期は演奏を自粛するムードがあったんです。特に政治的な場での演奏や、実際の大砲を使っての演奏は、今でも避けられています」
「あぁ、なるほど」
どうやら理解したらしい。
「ロシア側の勝利を表現するものだから、ということか」
咲良は小さく息を吐いた。
決して、勝利を表現したくて作曲された曲ではない。だがこれ以上の説明を素人にしても時間の無駄のように思えてきた。
「ほかに、ご質問は?」
「ああ、はい、ええと……」
それから十分ほど取材を受けると、渡部は愛用の重厚な一眼レフカメラのレンズキャップを閉めて、満足げに立ち上がった。
「今日は最前席でバッチリ撮らせてもらいますよ。表紙候補ですから」
渡部が部屋から出て行き、ドアが閉まると、咲良はため息をついた。
「お疲れ様。なんかあの記者、好きにはなれないよね」
駿もそう言い、短く息をついた。
「マスコミはみんなセキュリティチェックを受けて入るのに、あいつだけ我がもの顔でスルー。兄さんは気に入ってる記者だけど、父さんや兄さんと僕とでは態度が違う」
咲良は肩をすくめた。
「しかたないわ、スポンサーのお抱え記者だから。着替えるわね」
「うん。着替えが終わるまでここにいるよ」
「ありがとう」
駿が、自身と共に父親の出資する楽団で活動を始める咲良に気を使っているのは感じていた。
だが、ソロでの活動に区切りをつけ、日本の楽団に所属して腰を据えようと思ったのは自分の判断だ。ソロでやりたいことはやり切った。結婚もした。これからは世界を飛び回るより、駿のそばで腰を据えて弾きたい。
「じゃ、僕は金管楽器の楽屋に戻るよ。本番、頑張ろう」
「うん」
着替えが終わって駿が出て行ったあと、床に落ちたメモのようなものが目についた。渡部が落としたのだろうか。
咲良はそれを拾い上げた。
白紙の五線譜の切れ端に、〝祝砲で撃つ〟と、書かれていた。渡部ではない。確かに彼と祝砲の話はしたが、彼のメモ帳は五線譜ではないはずだ。
「撃つ……」
その不穏な書き方に眉をひそめた。だが、『1812年』で客演を入れる演出などを考えたのは団員だ。その打ち合わせのメモの切れ端なのかもしれないし、単純に〝祝砲〟パートを担当する打楽器奏者のメモかもしれない。
咲良は自分を納得させ、そのメモをクシャッと握りしめてゴミ箱に捨てた。
今日の出演者は、エキストラも入れて総勢九十名ほど。それぞれ一部屋ずつの楽屋を使うのは到底無理だ。たいがいが楽器ごとに振り分けられるが、咲良には一部屋が与えられていた。それだけ自分が特別扱いされていることも、そのことを快く思わない団員がいることも承知していた。
もしかするとあのメモも、誰かの嫌がらせなのかもしれない──
ふとそんなことが頭をよぎる。だが、そんなバカげたことを相手にしていては、この帝都フィルのコンマスなど務まらない。
咲良は、水を買うために楽屋を出た。裏口から外へ出て自動販売機のある場所まで行こうとしたとき、喫煙スペースから自分の噂話が聞こえてきた。
「見たか、ロビーのあのデカイ花」
「見た見た。金を出してるのはウチの嫁のため、と言わんばかり」
オーボエ奏者の水田とクラリネット奏者の後藤だ。管楽器奏者にも、いまだに喫煙者はいる。だが本番直前に煙草をふかしながら、メンバーの陰口を叩く姿は、咲良には理解できなかった。
「だいたい、次のコンマスは浅井氏のはずだったじゃないか。それが突然、スポンサーの嫁が入り込んできたんじゃシラけるだろ」
「それだよ。結局──金ってことさ。アンコールには孫娘までご登場だと。この楽団も家族経営の宣伝道具だ」
ふふん、と浅い笑いと共に、水田の口から煙草の煙が吐き出される。
やはりここは、落ち着いた演奏活動ができる場所ではないのか──
「おいおい、本番前にやめろよ」
咲良の後ろから、第一ヴァイオリンの浅井拓也が姿を見せた。
「おい……」
水田が咲良に気づき、後藤に耳打ちした。咲良は短くため息をつき、腕を組んで横を向く。
「おっとそうだ、俺はリハでリード一枚ダメにしたんだった」
とぼけたような後藤のセリフに、水田は灰皿に煙草をねじ伏せながら突っ込んだ。
「なんだおまえ、本番用にリード取ってあるって言ってたじゃねぇか」
リードは一部の木管楽器のマウスピースに付けられる薄い葦で、消耗品だ。
「ああ、そういやそうだったな、さ、行こうか」
二人はそそくさと咲良の横を通り過ぎようとした。
「水田さん」
咲良は腕を組んだまま、オーボエ奏者の水田を呼び止めた。
「は、はい?」
「さっきのリハ、『1812年』のソロの出だし、ピッチが高かったですよね。あそこで決めてくれないと、あの曲は台無しです」
水田の表情は急激に歪む。
「……ハッ、そりゃどうも」
水田がそのまま歩きだすと、後藤が口を開いた。
「このご時世にあんな曲……お父上の会社の評判を落とさないことを祈るねぇ」
憎まれ口を叩き、二人は去って行った。
そんな二人の背中を見送ると、浅井は肩をすくめ、咲良のそばに歩み寄った。
「まぁ……才能ある恵まれた美女には、やっかみがつきものだから。気にするな」
言いながら浅井はミネラルウォーターのペットボトルを咲良に差し出した。
「水、買いに来たんだろ」
浅井は、咲良の本番当日の行動をよくわかっていた。音大の先輩で、さまざまな活動を共にし、悩みを共有した。そういう意味で、卒業後に出会った夫の駿よりも、咲良のことを理解しているかもしれなかった。
「ありがとうございます」
咲良は浅井が差し出したペットボトルを受け取った。
「……浅井さんは、私のことを噂しないんですか?」
そして自嘲気味に、わずかに笑みをたたえる。
「してるよ」
かるく答える浅井。
「妻とね。あなた本当は、咲良さんのことが好きだったんでしょう? って、言われる」
冗談とも本気とも言えない明るい口調だが、その視線は遠い昔を追っているようだった。
「おっと、噂をすれば……」
浅井の妻がヴィオラを抱え、彼を探している様子で廊下の突き当たりから現れた。
「じゃ、あとで」
咲良は表情を和らげて答えた。
「ええ、よろしくお願いします」
浅井はこちらにかるく手を上げると、咲良に背を向け、妻のもとへ行った。咲良も、裏口から中へ入り、自分の楽屋へ歩きだす。
──あなた本当は、咲良さんのことが好きだったんでしょう?──
その言葉が、咲良の胸に沁みた。




