終演
「おぅ、来たのか、お二人さん」
クラリネットの後藤は、病室に入って来た咲良と駿にかるく手を上げた。負傷した右大腿部のギプスが痛々しいが、ベッドで上体を起こして本を読んでいる姿は元気そうではあった。
「具合はどうですか、後藤さん」
駿の問いかけに後藤は肩をすくめた。
「どうもこうも……暇でしかたない。たまに来るのは警察だし。まぁ座れよ」
咲良は駿と共に、壁に立てかけてあったパイプ椅子を開いて座った。
「オレの脚は弾が掠っただけだったから、たいしたことないけど、あんた大変だったろ」
後藤は、咲良の包帯が巻かれた左腕を見てそう言った。咲良が襲われた状況は誰かに聞いているようだ。
「いいえ、私は……麻酔薬を吹きかけられて一時的に意識を失って、腕は、少し切っただけです。大袈裟に、こんな包帯は巻いてますけど」
友梨奈にガラスの破片で腕をなぞられ、五センチほどの傷を負っていたが、縫う必要もない程度だった。
後藤は大きく息をつき、肩を落とした。
「でもまさかなぁ、驚きだよな。あの浅井氏が、記者を使って駿の親父さんの銃撃を企んでたなんてよ……」
記者の渡部は、NDT社長を銃撃する代わりに、浅井から金を受け取っていた。ギャンブルで作った借金返済のためだったらしい。
「しかも、あの胡散臭いエキストラ女とグルになって、本番中に嫌がらせまでしてたんだって? 警察の話じゃ、あの女の親父さんの会社は、NDTと揉めて潰れたんだってな」
「警察の話を聞いて、僕も初めて知りました」
駿はうつむき、座った自分の脚に両肘をついて手を組んだ。
「七年前の事故が、全ての始まりだったんです」
そして話し始めた。
「江崎友梨奈の父親の会社は、NDTのシステムに不可欠な精密センサーを独占的に扱っていた貿易会社だった。NDT側のミスもあって起きたシステム事故を、納品された部品のせいにして、すべての責任を負わせたんです。賠償金の支払いで江崎友梨奈の父は自己破産。母親は自殺」
「で、浅井氏の親父さんもその案件に関わってたんだろ?」
後藤の問いかけに駿はうなずく。
「外務省でその部品を認可した責任を取って辞任したそうです。そのあと病死して、母親が認知症になって大変だったのは知ってましたが……」
「ああ、お袋さんの介護のためにヴィオラの奥さんと結婚したんだったよな、浅井氏。でも実は、友梨奈と関係は切れずに恨みを募らせた。友梨奈の方は、自分の不遇を成功したコンマスへの嫉妬に変えていった──ってわけか」
後藤は腕を組んで小さく息をついた。
「私が、嫌がらせに気づいた時点で運営にそのことを申し出るべきでした」
咲良は、後藤に頭を下げた。
「後藤さんにこんな怪我をさせることになってしまって、申し訳ありませんでした」
全体をまとめなければならない立場のコンサートマスターとして、賢明な判断ができなかった。怪我ですんだのは不幸中の幸いで、命にかかわることになっていたかもしれない。
「そんなことはいいって! 別に脚は動かなくても楽器は吹けるしさ。あぁそうだ、運営にもっとリードを買わせろって言ってくれない? 一箱あったって一枚も使えないこともあるんだからさ。ったく、いいリードがなきゃこっちは商売あがったりだってんだ」
咲良は後藤の言い分に苦笑いしてうなずいた。
「わかりました」
「後藤さん絶対そう言うと思って、お見舞い、リードにしましたから」
駿はそう言いながら、リードの箱が入った紙袋を後藤に差し出した。
「えぇ? なんだよ、高級メロンだろ、普通」
後藤はそう言って笑った。楽団ではめったに見せることのない素の笑顔が意外でもあり、同時に責任を感じていた咲良を少し安心させた。
ひとつ言えるのは、あの『1812年』の演奏中、万鈴のヴァイオリンの駒が倒れなければ、咲良は腕に銃撃を受けていた。皮肉にも、友梨奈が嫌がらせで駒が倒れるよう細工をしていたことで、咲良は銃撃されずに済んだ。
「……万鈴がいたから、救われたね」
病室を出て、病院の長い廊下を歩きながら、駿がぽつりと言った。
「うん。本当に、そうね」
咲良は包帯の巻かれた左腕をそっと抱きしめながら、窓の外に広がる青空を見上げた。
そして、事件から、二ヶ月が経った──
「実は……子どもができたんだ」
中川家の広い食卓に響いた駿のその言葉に、家族は驚きのあまり声を失った。
「え……? 子どもができたって、どこに?」
一時帰国していた駿の兄の発言に、彼は笑った。
「どこにって、咲良のお腹に決まってるだろ、変なこと言うなよ」
家族は一斉に湧き立った。
「まぁまぁ……」
駿の母は両手で口元を押さえた。
「……驚いた。だってあなたたち、子どもは作らないって決めてたじゃない」
義姉がグラスを持ったまま、唖然とした様子でそう返す。
「え……サクラちゃんのお腹に赤ちゃんがいるってこと?」
万鈴が目を丸くして隣の母親を見上げる。
「そういうこと」
「えぇ、やったぁ!」
万鈴のうれしそうな顔を見て、咲良は駿と目を合わせた。
「あれから……万鈴ちゃんみたいな子がいたら、きっと私たちを助けてくれるんだろうね、って話になって」
「そうなの? うふふ、万鈴はね、そばにいるけど、上の二人を見てよ、部活部活で今日も……あらやだ、もうこんな時間? 迎えに行かなきゃ」
「あらあなた、行って来なさいよ、ここはいいから」
そう言われて席を立つ義姉。
「じゃ咲良さん、またゆっくり話を聞かせて」
「はい、行ってらっしゃい」
「それにしても……」
駿の母は改めて二人を見て涙ぐむ。
「別に私たちは、あなたたちが子どもはいらないって言うんだったらそれで良かったのよ。でもやっぱり……良かったわ。ねぇあなた」
普段、寡黙であまりしゃべらない義父は、柔らかい表情で静かにうなずいた。
「雨降って地固まる、か」
その言葉は、家族のことだけではないだろう。
事件を機に再調査が始まった、過去の不祥事。その責任を認め、賠償を含めた抜本的な見直しを公表した、自社の中川ディフェンス・テクノロジーへ向けたものに違いない。
事実を直視し、清算すべきを清算する。その厳格な横顔には、新たな基盤を築こうとする経営者の覚悟が滲んでいた。
駿の実家で昼食を済ませ、二人は歩いて自宅へ帰る。冬晴れの、比較的暖かな一月の終わりだった。歩道のすぐ横を自動車が通り、駿は車道側に回って咲良の手を握った。
「咲良と初めて会った、ロシアのコンクール会場を思い出してたよ」
「ああ……あのとき?」
咲良はゆっくり歩きながら、隣の駿をチラッと見上げる。
「僕はさ、あのとき、楽器ケースを持った咲良を見て、この人と結婚するって直感したんだ」
駿が咲良に一目ぼれだった話は、これまでも何度か聞いていた。
「それなのにきみったら、〝私、結婚願望とかないもん〟とか言うからさ。こりゃもう今回も予選落ちだなって思ったのに」
咲良は、ふふふと小さく笑った。
「あのときが本当に、私たちの転機だったわね」
「そうだね」
二人の転機となった思い出のチャイコフスキー国際コンクールは、2022年、ロシアによるウクライナ侵攻を受けて、国際音楽コンクール世界連盟から除名された。あのコンクールが今も同じように若い演奏家の転機になれるかどうか、咲良にはわからない。
だが、咲良のキャリアを決定づけたコンクールが特別なのは変わりない。自身のコンサートマスター就任を記念する演奏会を〈チャイコフスキーの夕べ〉としたことは自然なことで、世界情勢がどうであれ、後悔はしていない。
「僕たちの赤ちゃんをみんな喜んでくれたし、今夜はあのときと同じカップラーメンで祝杯だね」
咲良は思わず吹き出す。この先、何かあるたびに祝杯はカップラーメンになるのだろうか。
けれど、あのときと同じように、声に出した。
「ブラボー」
駿も笑い返す。
「ブラボー!」
笑い合う二人が歩む歩道から、鳩の群れが飛び立った。
〈チャイコフスキーの夕べ〉 終演




