2.猪野万太郎
嘉永元年3月3日を新暦の西暦で表すと1848年3月26日、猪野万太郎は筑後の国久留米通町でからくり人形師猪野小太郎とサヨの長男として生誕する。
その翌年には弟の千太郎が生まれた。
この時代は幕末の走りでまだ忍者が多く活躍している。
小太郎もその中の一人で甲賀衆に属していた。
更に猪野には隠し名がありそこには『異能』と書かれている。
からくり人形師とは表の顔で実は他国が持つ商業や工業の最新技術を取得するのを目的とする忍びの者だ。
甲賀の里に住む殆んどの忍者は小太郎が生まれる二百年程前、江戸幕府第三代将軍徳川家光に仕えるため江戸へと移り住んでいる。
猪野家は移住に同行しなかった数少ない甲賀衆の一団に含まれていた。
残った者達でそれまで通りに生活を営んでいたけれど特に目立った農産業を持たないが故に人の流入がなく村は衰退の一途をたどっていく。
小太郎は過疎化に陥り荒廃していく里を何とか立て直せないものかと考えた。
冴えない小さな村を発展させるためには何か興業を行わなければならない。
小太郎が成人を迎えて十六歳になると生産性を上げる商いを起業するための知識と技術を習得しようと腹話術のからくり人形を入れた背負籠を持って旅に出る。
京までの道すがらの道中で路銀を稼ぐために人形劇を演じると観覧してくれた人達は『すごいね、すごいね』と言って単純に喜んでくれた。
京に入って宿を取り神社の境内で腰を据えて演じていると、身分の高そうな貴人やメガネを鼻に掛けて腰には刀を差しているいかにもインテリ侍なんかが多く目に付いてくる。
彼らは他の演者が催す幾つもの舞台を観ているので猪野が演じるからくり人形腹話術に違和感を覚え出す。
それもその筈、猪野のからくりはからくりに非ず、隠し名前が示す通りの異能使い。
猪野の使う能力は『心』を扱うもの。
それは自分の心を相手の中へ投影してこちらの思いのままに操ることが出来ること。
それが例え最初から心を持っていない人形だとしてもだ。
猪野が見詰め話し掛け感情を移入させる事で無機物の人形にさえ心を宿すことができた。
心を与えられた人形は楽しく笑って歌いだしついには一人勝手に踊り出す。
観客の中で悪魔の所業だと騒ぎ出す者が出てくるかも知れない。
そんなことが起きたら説明に大変な手間が掛かる。
最悪、同心番屋なんかに連れ込まれようものなら二度と人形を扱えないような体にされてしまうかも知れない。
だから小太郎は芝居が終わった後に誰もが納得する様に種明かしと説明をして帰らせている。
それがどのようなものかと言うとオルゴールにヒントを得た物で、円筒形のドラムに刻みを入れてゼンマイで回し喋らせる様にした物。
これは蓄音器の原理になるものだけど完成品として世に出るのは十数年も後のことになる。
踊るような動きは小さくて精密な歯車とカムをやはりドラムを回転させることによって決まった順番でそれぞれの部位が動くようにしたもので人形の胸を開けると見える様にしていた。
このからくりの原理を見せるとだいたい全員が意味も分からないまま感嘆の声をあげて頷きながら帰って行く。
本当はこれだけでも十分にからくり人形としての役割を果たすことが出来る。
小太郎は京の見世物で旅の資金を十分に稼ぎ、そこから西へ向かい山陽道から長崎街道を通って筑後の国久留米に着いた時には十八歳になっていた。
年号も天保14年に出立したのだったのだけど翌年には年号が代わり今は弘化2年になっている。
西暦1845年のことであった。
現代の滋賀県甲賀市から福岡県久留米市までおおよそ700粁、普通に歩いても1ヶ月とは掛からないけど小太郎は、途中途中で路銀を稼ぐために人形劇を行って集まってきた人々を観察したり、知識を得るために滞在したりして・・・まあ、有り体に言えばスパイ行為をやっていた訳だけど…それは言うまい。
久留米で織物機械について学んでいた時に羽織娘のサヨと出会いお互いが一目惚れして交際を始め2年後に祝言を挙げる。
その翌年に長男の万太郎、次の年に次男の千太郎が誕生。
西暦1863年、文久3年季節が師走の初めになった頃、弟の千太郎が数え年で15歳になったのを機に元服させた。
それからまだ日も浅い内に猪野小太郎は万太郎を伴って上京したいとサヨに言う。
当然サヨとその両親や親戚中が集まって考え直すように説得してくる。
それら全てを万太郎が一人前の人形使いになるために必要な修行だからと言って説き伏せた。
その実それは方便で、今まで集めた知識と技術を甲賀の里へ持ち帰り伝授させるのが本当の目的。
欲を言えば長崎出島まで行って異国文化を見聞したかったのだけど諦めている。
だからせめて博多の正月祭り『どんたく』だけでも観ておこうと考えて出立をこの時期にした。
まあ確かに今まで集めた知識だけでも十分役に立つ、それでも知識は少しでも多いほうがいいに決まっている。
だけど早く故郷に帰って振興に役立てなければ村自体が消滅してしまうかもしれない。
筑後の国へ来て16年、まさか結婚してしまうとは最初の予定に入ってなかった事。
本当に恋とはままならない、どんなに強固な意思を持っていたとしても炎天下のかき氷の様に溶けて砂糖水となって流れてしまう。
しかし後継者が出来たことは喜ばしいと思っていた。
小太郎の代では里を発展させるための軌道に乗せるのが精一杯。
農耕事業は時間が掛かるものだから、その後は万太郎が引き継いでくれると信じている。
小太郎がこの16年で集めた知識は、筑後地方の農業について稲作からイチゴ栽培にいたるまでと機織の機械や技法、九州随一の大河筑後川で培われた造船技術など。
まだ万太郎には全てを教えていない。
これから行く先々とその道中で教えていくつもりでいた。
万太郎は上京を告げられた時、母や弟を始め残される家族のことをあまり心配していない。
この家の家計は母が作る織物で賄われていると思っていたからだ。
だから万太郎は織物職人になるものとばかり思っていたのだけど幼い頃よりからくり人形の事ばかり叩き込まれていた。
そして10歳を過ぎたあたりから万太郎は父に命じられて月の半分を五穀神社境内に出向き人形劇や紙芝居を行って小銭を稼いでいる。
空いた時間では人形の世話や見世物のチラシを持ってあちこちを回り世間話などをして情報を集めさせられていた。
万太郎はいよいよ師走が終わり正月も明けた出立日の朝、涙を流す母に別れを告げて父と2人で長崎街道を北へと進む。
小太郎にとっては18年前に来た道を戻って行くことになる。
初日は軽く太宰府天満宮まで歩き1泊することにした。
昼過ぎに宿屋に入り荷物を置き近くの茶屋で昼飯を食った後、参道の隅で人形劇をして路銀を稼ぐ。
太宰府天満宮は全国から集まってくる観光客で賑わっていてお客様の気前も良くて結構な金額が集まる。
ここにしばらく滞在して一儲けしたいと思う気持ちを何とか押さえ込んで3日で出立した。
もう明後日には博多正月祭りの初日が迫っている。
事前に連絡していた旅籠屋へ今日の夕方までには着かなくてはいけない。
いよいよどんたくの初日を迎え万太郎たちも境内隅に陣取るけど今回はいけない、確かに考えが甘かった。
観光客を含めた皆は松囃子を見に来てる訳であって、境内の片隅で行われている人形劇には目もくれず通り過ぎていく。
小太郎は決断するのが早かった。
一時も過ぎた頃には荷物を纏めるよう万太郎へ指示を出す。
そして当たり前のように二人揃って松囃子の見物客となってる。
まるで最初から計画していたかのよう。
だって端からどんたくに行こう何て言うとお上りさんと思われてしまうから。
あくまでも技術の習得が目的だという建前…いや事実を覆したくないからの行動だった。
祝い神を模した囃子を堪能して決して遊びで見てた訳ではないことを証明するために後日、小太郎が作ったからくり人形早変わりは博多松囃子にヒントを得たと記している。
どんたくを見終わった猪野親子はその後真っ直ぐ北上し関門海峡を手漕ぎ舟に乗船して下関へと渡った。
真冬の荒れた海の渡しだったので穏やかな日を待つ間は門司の町中で人形劇を行なったり、塩田の設備や造船所を見て回ったりしてる。
下関に渡ると直ぐに宮本武蔵と小次郎の決闘記念碑が目に入った。
それを見た万太郎が父に『名前が小次郎ではなくて小太郎だったら武蔵に勝てたかも知れないね』と言った…かどうかは定かではない。
文久4年1月20日のことである。
丁度この日から1月後の2月20日に再度の改元が行われ元治元年となった。
当時の改元は天変地異や災い事が起きる度に行われていた節がありこの年は甲子年になっていたので世の中が乱れるのを防ぐために行っている。
世の中が改元されようと二人には特に変わった事もなく何時も通りの人形劇をしながら路銀を稼ぎ、てくてく歩いて京へ入ったのは6月に入ったばかりの暑い日だった。




