第92話 環境の適応。
「21層は‥‥洞窟なのね。薄気味悪くて嫌な感じがするわ」
20層を越え、21層へ足を踏み入れた瞬間、水瀬は思わず顔をしかめながらそう呟いた。
肌にまとわりつく湿った空気は不快感を与え、鼻腔に入り込む土と岩の生臭い匂いが、この場所が今までとは全く異なる環境であることを嫌でも理解させる。
これまで探索してきた場所は、見通しの利く草原と森だけだっただが、この層は違う。進める道幅そのものが狭く制限され、足元には大小様々な石や岩が無造作に転がっており、一歩踏み外せば簡単に体勢を崩してしまうほど足場が悪い。
その上、光源と呼べるものは自分たちの腰に取り付けた電灯だけであり、その頼りない明かりが照らせる範囲も僅か数メートル程度で、少し先は完全な闇に飲まれ、その先に何が潜んでいるのかすら分からない。
「視界」「足場」「狭さ」その全てが探索者に牙を剥く最悪の環境であり、その中で21層のモンスターと戦わなければならない。
この21層から先は探索者の中でも特に攻略に時間が掛かる場所として知られており、ここを越えられる者こそ本物の才能を持つ者であり、逆に越えられない者はそこで限界を迎える。まさに、本物と凡人を振り分ける選別の層でもある。
そんな探索者の鬼門とも呼ばれる場所に足を踏み入れてなお、ディアブロは表情一つ変えない。周囲の闇も足場の悪さも意に介することなく、まるで平坦な道でも歩いているかのように自然な足取りで進み始める。
「行くぞ。こっちだ」
その短い声だけを残し、迷いなく奥へ進んでいくディアブロの後を、水瀬とベガも追うように続いた。
◇
21層へ入ってからそれなりの距離を進んでいたが、不思議なほどモンスターと遭遇することなく歩き続けていた。しかし、その静けさこそが逆に不気味だった。
岩壁の隙間から滴り落ちる水滴の音がやけに大きく耳に響き、足元の石を踏みしめるたびに乾いた音が洞窟内に反響する。
その一つ一つが余計に神経を逆撫でし、暗闇の奥に何かが潜んでいるのではないかという疑念を膨らませていく。
そして、その恐怖こそがこの層で最も厄介な要素だった。
強いモンスターがいつ、どこから襲ってくるのか分からない。だからこそ常に気を張り、全神経を研ぎ澄ませ、どんな僅かな気配も見逃さないよう警戒し続けなければならない。
その極限の緊張状態は精神をゆっくりと、だが確実に削り取っていき、集中力を奪い、普段なら絶対に起こさないような些細なミスを誘発する。そして、そのたった一つの判断ミスが命取りとなり、パーティー全滅という最悪の結末へ直結する。
だが、それは三流か二流の探索者に起こる話で、本物の一流は違う。洞窟程度の環境で感覚を鈍らせることもなく、地形に飲まれることもない。
現に、一流の中でも頂点に立つディアブロは、前方すらまともに見えていない状況でありながら、明かりを前に向けることもなく、足元を確認する様子すら見せずに進んでいた。その歩き方には一切の無駄がなく、足場の悪い岩場ですら木の床でも歩いているかのように滑らかで、躓く気配すらない。
だが、水瀬にはそれが到底真似できなかった。
足元の岩に何度も足を引っ掛け、転びそうになりながら必死に追い掛ける。視界の悪さと足場の悪さに神経を割かれ、それだけで体力以上に精神が削られていく。
「はぁ‥‥はぁ‥‥ちょっと待って!!進むのが速いよ。はぁ‥‥もう少しゆっくりにして!!」
荒い呼吸を漏らしながら訴える水瀬に、ディアブロは振り返ることなく鼻を鳴らした。
「はぁ‥‥この程度の地形でモタモタするなんて、本当に俺の仲間なのか?」
「そうは言っても、自分の足元すらろくに見えない状態でどうやっていつも通りに歩けっていうのよ。魔法で強化をできれば可能だと思うけど、自分の強化できないんだから‥‥少しぐらいゆっくりにしてくれてもいいでしょ?」
「ダメだ。このままの速度で進む」
その返答に、水瀬は思わず顔をしかめる。
だがディアブロが拒絶した理由は、水瀬に合わせるのが面倒だからでも、進行速度を落としたくないからでもなかった。この劣悪な環境そのものに慣れさせ、水瀬の適応力を底上げする為だった。
これからディアブロたちが向かう先には、この洞窟ですら生温く感じるほど過酷な地形が待っている。その時に環境へ適応できなければ、それだけで死ぬ。力があっても意味はない。生き残る為には、地形を読む感覚も、自分の体を制御する技術も必要になる。
それを教えられる者はいない。現場で、自分自身の感覚で掴み取るしかないのだ。
「前に俺が言ったことを覚えているか?」
「はぁ‥‥はぁ‥‥え?いきなりなに?」
「俺達はもっと先に進む。その場所は今なんかよりももっとキツイ場所になる。でも、俺の願いはその先にある。それを攻略しないことには目的地には辿り着けない。だから、その場所に行けるように強くなる必要がある。それは探索者が持つ力だけじゃない。人間としての根っこの部分の強さも求められる。」
「でた。また‥‥いつもの完璧ってやつ?」
「そうだ。俺が求めるのは完璧だ。だから慣れろ!!どれだけ時間が掛かってもこの環境に適応しろ。じゃないとお前は環境に殺されるぞ?」
「分かっている。ちゃんと自分の力で何とかするわ‥‥ほら、先に進みましょ」
「あぁ」
水瀬は歯を食いしばりながら再び前を向いた。何度も足を滑らせ、何度も体勢を崩しかけ、それでも足だけは止めない。転びそうになれば壁に手を付き、滑る足場の感触を覚え、踏み込む力加減を少しずつ調整していく。
その繰り返しの中で、水瀬の体はゆっくりとこの悪路に順応し始めていた。
足場の悪い場所での重心の置き方、力の抜き方、崩れそうになった時の踏ん張り方。その全てを体で覚えながら、水瀬は確かにこの環境を攻略する為の第一歩を刻み始めていた。




