第87話 街を見てみる。
雫をギルドへと送り届けると、入口付近で待っていた林は、想像以上に早い帰還に目を丸くしながらも、何か問題が起きたことを察したのかすぐに駆け寄ってきた。
事情を簡潔に伝えると、その反応は早かった。
林はまだ疲労で足元も覚束ない雫の手を強く掴み、ほとんど引きずるような勢いで病院へと駆け出していき、その背中は普段の落ち着いた姿からは考えられないほど余裕を失っていた。
「あの人‥‥姪っ子のこと好き過ぎでしょ。ちょっと、普通に引く。」
その慌てぶりを見送った水瀬は、呆れ半分、引き気味半分といった顔でそう呟いた。
確かに林のあの気にし様は、叔父という立場で考えれば少々度を越しているようにも見える。だが、水瀬も人それぞれ家族との距離感や接し方があることくらいは理解しており、それをわざわざ本人に言うほど無粋でもなかった。
そうして、慌ただしく林と雫が去った後、妙に静まり返ったギルド内にはディアブロと水瀬だけが取り残されることになった。
「それで、どうする? かなり時間が余っちゃったけど‥‥ダンジョンに戻る?」
水瀬が軽く首を傾げながら問いかける。
「‥‥いや、丁度いい機会だ。今の世界を見てみたい。」
ディアブロは椅子にもたれながら、低くそう答えた。
この世界へ転生してからというもの、彼の行動範囲は驚くほど狭かった。学校、ダンジョン、自宅、水瀬の家、そしてこのギルド。その限られた場所だけを行き来する日々で、まともに街そのものを見たことがなかったのだ。
「世界を見てみたいって‥‥行きたい場所でもあるの?」
「分からん。ただ見てみたいだけだ。自分がいた頃と今が、どの程度変わったのかを知っておきたい。」
その声音には懐かしさとも違う、確かめるような響きが混じっていた。
かつて自らが生きた時代と、今という時代。その差を知ることは、この先この世界を支配する上でも無駄ではない。王として、世界の流れを知ることは必要なことだった。
「分かったわ。じゃあ、私が案内してあげる。」
そう言って水瀬は自信満々に胸を叩いた。ぽん、と小気味よく叩かれた音と共に、まるで「任せなさい」と言わんばかりの堂々とした顔を向けてくる。
だが、その姿を見たディアブロの胸中には、安心よりも不安の方が大きかった。
何故なら、ディアブロと出会う以前の水瀬は、自分自身にすら無関心だった人間だ。遊ぶ余裕もなく、誰かと時間を共有することもなく、何より友と呼べる存在すらいない。そんな女が案内役として信用に足るのか?そう思うのは自然な疑問だった。
だが、こういう時に手下を使うのもまた王としての役目かと、ディアブロは半ば割り切る。
「なら、頼んだ。出来るだけ騒がしくなく、静かな場所がいい。」
「分かったわ。」
そうして先頭を歩き出す水瀬の背を追い、ディアブロもゆっくりとギルドを後にした。
◇
街へ出ると、昼下がりの街並みは人の流れと音で満ちていた。
車の走る音、信号機の電子音、店先から漏れる音楽、道行く人々の話し声。ディアブロにとっては、どれも自分の時代には存在しなかった異質な賑わいであり、その全てが妙に新鮮に映る。
そんな中、水瀬が立ち止まり、振り返った。
「私が最初に案内する場所は図書館よ。」
提案されたその場所は、ディアブロの希望に最も沿ったものだった。
世界の歴史を知ることができる上に静寂が保証されている。無駄に騒がしい場所を嫌うディアブロにとって、これ以上なく理にかなっていた。
だが、気になるのは場所そのものだった。
「‥‥図書館は賛成だが、どこの図書館に行くんだ? 有名な場所でもあるのか?」
そう問うと、水瀬は少し考えた後、思い出したように口を開く。
「私は行ったことないけど‥‥この国で一番大きい図書館は『国立国会図書館』っていう場所らしいわ。本の数も四千二百万冊あるって聞いたことがあるから、そこなら知りたいことも全部調べられるでしょ?」
「‥‥四千二百万か。」
その数字を聞いた瞬間、ディアブロの眉が僅かに動いた。
紙という貴重な資源で、そこまで膨大な情報を蓄えている場所が存在するなど、自分が生きていた時代では到底考えられないことで、知識とは権力であり、歴史であり、未来を作る礎でもある。
そういう意味では、そこはまさにこの世界の中枢の一つと言ってもいい。
「そんな途方もない数の本が存在する場所があるなんてな‥‥俺が生きていた頃では考えられないことだ。一旦、そこに案内してくれ。」
「分かったわ。」
そう頷く水瀬の横顔には、少しだけ得意げな色が浮かんでいた。
二人が最初に向かうのは、この国で最大規模を誇る国立図書館。
そこには膨大な書物だけではなく、情報検索用のPCや学習スペースまで完備されており、多くの人間が静かに知識を求めて集う場所でもある。
過去を知る者と、未来を生きる者の二人の足は、静かにその知の城へと向かっていた。




