第67話 慈悲と優しさは無くなった。
伊沢を全力で拒絶した水瀬は、まるで何事もなかったかのように静かな足取りで廊下を歩いていた。
だが、その胸の内では先程の出来事に対する嫌悪感と苛立ちが、未だ黒い感情となって渦巻いている。伊沢に触れられそうになった感覚も、耳障りな言葉の数々も、まるで肌に張り付いた汚泥のように不快感を残し続けていた。
そんな時だった。
「‥‥水瀬さん。」
背後から掛けられた声に、水瀬はゆっくりと足を止める。そして振り返った先にいたのは、先程まで伊沢と共に戦っていた西川だった。
「西川くん‥‥何か用ですか?」
その声音は普段通り穏やかで、表情にも大きな変化はない。だが、それはあくまでも表面だけの話であり、その内側では怒りが限界寸前まで積み重なっていた。
「その用って言うか‥‥」
西川は視線を泳がせながら、もじもじと落ち着きなく指先を動かしている。その煮え切らない態度が、水瀬の神経をさらに逆撫でした。
――元を辿れば、あなた達二人の力が無いせいなんです。
もし少しでもまともな戦いをしてくれていれば、自分がここまで悩む必要などなかった。なのに伊沢は「さっきの俺の戦い、カッコよかっただろ?」などと、到底現実を理解しているとは思えない言葉を口にした。
その時点で既に水瀬の中では限界が近かった。
そして今、西川までもが――
「僕の戦いはよかったよね。これで、一緒になれるね。」
地雷を踏み抜いた。
その瞬間、水瀬の頭の奥で――ブチッ!!という何かが千切れる音が響いた。
まるで今まで心の奥底に重く沈殿していた感情が、一瞬で吹き飛んだような感覚だった。同時に、自分の中で何かが決定的に壊れた。
そうですか‥‥そうですか‥‥私は、最初から間違っていました。そうですよディアブロも言っていましたね「俺には持っている力を色と大きさで見分けることが出来る」と。
なら、その時点で答えは出ていたんです。この人間達は選ばれなかった側の存在であり、才能も力も持たない無価値な人間だったです。
それなのに、自分は何とかしたいと思ってしまった。存在しない方法を探して、少しでも可能性を見出そうとしていた‥‥こんな人間の為に‥‥本当に馬鹿ですね。そんなもの、最初から無駄だったのに。
その事実を完全に受け入れてしまった瞬間、水瀬の中からクラスメイトへの情も優しさも綺麗に消え去っており、今の彼女の中にあるのは、主人であるディアブロへの絶対的な忠誠と、家族に向ける愛情だけ。
それ以外は、もうどうでもよかった。
水瀬は変わった‥‥いや、壊れてしまったと言うべきかもしれない。
先程、水瀬の中で砕け散った物は、それは他人に向けていた良心と優しさだった。そして、その最後の欠片を踏み潰したのは、伊沢と西川の無神経な言葉だった。
一度壊れてしまった感情は、元には戻らないし、もう止まらない。
「‥‥さっきから、何を言ってるの?誰が、お前みたいな無能な人間と一緒になるか。身の程を弁えたほうがいいですよ。」
その声は冷たかった。
今までの水瀬からは想像も出来ないほど冷酷で、感情の温度が完全に消え失せている。
当然、西川は突然向けられた拒絶に理解が追いつかず、呆然とした表情を浮かべた。そして冗談だと思ったのか、確認するように一歩、水瀬へ近づこうとする。
だが、それはこの場において最悪の選択だった。
他人への慈悲も優しさも捨て去った今の水瀬に近づくことは、猛獣の檻に自ら足を踏み入れるのと同じで、それが許されるのは主人であるディアブロと、その家族だけで
次の瞬間、水瀬は無詠唱かつ杖無しで白魔法を発動する。
白い魔力が空気中に淡く広がった直後、西川の身体が大きく震えた。
本来、白魔法は仲間へ恩恵を与える魔法だ。身体能力を底上げし、傷を癒やし、仲間を支援するための力だが、その逆も存在する。
強化の反転つまり――弱体化。
水瀬は西川に掛けられる限りのデバフを、一瞬で叩き込んでいた。
「グ‥‥ガハッ!!」
西川の身体が崩れ落ちる。
呼吸は上手く出来ず、肺が潰されるような圧迫感が喉を襲う。全身から力が抜け落ち、視界は急速に暗く染まり、手足には無数の針を刺されたような痺れが走る。
さらに思考すら鈍化し、自分の身に何が起きているのか理解することすら出来ない。
ただ苦しい。
それだけが全身を支配していた。
「私も鬼じゃないから命までは取らないけど‥‥死と生の狭間を行き来して、死よりも辛い数分間を堪能してね‥‥それがお前に対する罰だから。」
水瀬は苦しむ西川を一瞥することもなく、そのまま静かに歩き出す。
廊下には西川の掠れた呼吸音だけが響き続けていた。
そして西川は、水瀬が言った通りデバフの効力が切れるまで、生き地獄のような苦痛を味わい続けるのであった。




