第59話 火神 紅夜。
時を遡って、ディアブロのお陰で縦穴から無事に脱出することに成功した池田たち一行は、地下深くで命を落としかけたとは思えないほど静まり返った研究所へ戻って来ており、白い照明だけが無機質に床を照らす空間の中で、綾小路は戻るなり資料を机へ乱雑に広げ、興奮を抑えきれない様子のまま縦穴で得たデータの解析を開始していた。
その一方で火神には、今回の依頼に対する報酬として膨大な金額が提示されており、池田から差し出された端末を受け取った火神は、そこに表示された金額を確認した瞬間、聞かされていた額とは比較にもならないほどの大金が映し出されていることに気付き、思わず僅かに目を見開いたまま池田の顔を見る。
すると池田は、最初から理解しているだろうと言わんばかりに静かに深く頷きながら、低く押し殺した声で口を開いた。
「分かっていると思うが、今回の依頼については口外は禁止だ。その為の口止め料だと思ってくれ。」
その言葉に込められた意味を理解するのに時間は掛からず、火神はすぐに返事をすることが出来なかった。
今回の一件を口外しない。それはつまり、自分たちを逃がす為に縦穴へ残った一人の探索者の存在を、この場にいる全員で“無かったこと”にするという意味だったからだ。
法外な報酬の依頼を受けている以上、危険が伴うことなど最初から理解しており、探索者として生きる中で死人を見ることも決して珍しいことではなかったが、それでも胸の奥に重く沈殿していく罪悪感までは消えてくれず、本来ならこの金を受け取るべきではないのかもしれないという考えが脳裏を過ぎる。
だが今の火神には、その選択をすることなど出来なかった。
病室で眠り続ける、たった一人の妹――その命を繋ぐ為には、どれだけ汚い金だろうと必要だった。
火神は苦虫を噛み潰したように表情を歪めながらゆっくりと唇を開き、割り切れない感情を滲ませた声で短く答える。
「‥‥分かったわ。」
そう言って火神は端末を強く握り締めたまま踵を返し、その場を後にしていき、池田たちもまた縦穴で別れたDという男が望んでいた報酬と、今回の件を外部へ漏らさない為の莫大な口止め料を合わせた金額を指定口座へ送金したことで、縦穴で起きた一連の出来事は誰にも知られることなく幕を閉じることとなった。
◇
――多額の報酬を受け取った火神は、その足で総合病院へと向かっていた。
夜も更けた病院内は静まり返っており、白い廊下には消毒液の匂いが強く漂い、一定間隔で鳴り続ける電子音だけが静寂の中へ淡々と響き続ける光景は、命を繋ぐ機械の存在を嫌でも実感させるほど冷たく無機質なものだった。
そんな空気にも慣れ切った様子で病室の扉を開けた火神は、白いベッドの上で静かに眠り続ける一人の少女へ視線を向けながら、どこか自分を責めるような声音で小さく呟く。
「‥‥ごめんね、朔夜。」
彼女の名前は火神朔夜――火神紅夜の妹であり、規則正しく上下する胸元を見なければ本当に生きているのか不安になるほど肌は白く、細い腕には何本もの点滴が繋がれたまま、まるで時間だけが止まってしまったかのように眠り続けていた。
この姉妹は二人だけで探索者パーティーを組んでおり、前衛を姉である紅夜、後衛を魔法を得意とする朔夜が担当していたのだが、姉妹だからこそ可能な阿吽の呼吸による連携は凄まじく、互いの動きを言葉を交わさずとも理解し合えるほど完成された戦闘スタイルによって、二人は探索者として着実に実力を伸ばしていった。
しかし、ある日の探索中に二人は突如として発生したダンジョン変異へ巻き込まれることとなり、空気が歪み、景色そのものが塗り替わっていく異様な感覚の中、本来その階層に存在するはずのない異形のモンスターが目の前へ姿を現したのである。
全身から禍々しい瘴気を撒き散らすその怪物は、これまで戦ってきたモンスターとは比較にもならないほど強大な力を持っており、ただ存在しているだけで周囲の空気を震わせるほどの圧迫感を放っていたが、それでも二人は混乱することなく、紅夜が前へ出て攻撃を引き受け、その隙を朔夜が高威力の魔法で撃ち抜くという連携を何度も繰り返しながら、傷付き、血を流し、それでも最後まで立ち続けた末に、遂にはそのモンスターを撃破することに成功する。
だが、本当の絶望はそこから始まった。
断末魔を上げたモンスターは死ぬ間際に『死の呪い』を周囲へ撒き散らしており、本来ならその呪いを真正面で受けるのは姉である紅夜だったはずなのだが、朔夜は咄嗟に紅夜を突き飛ばし、自らその呪いを受けたことで、それ以来こうして眠り続けることとなってしまったのだ。
呪いを解く為に出来ることは全て試してきた。
呪術専門医による治療、特殊な魔道具、違法すれすれの闇オークションで手に入れた解呪アイテムと、考えられる限りの方法を試したにも関わらず、どれ一つとして効果を示すことはなく、そして最後に辿り着いた答えこそが、ありとあらゆる病や呪いすら癒やす奇跡の秘薬『エリクサー』だったのである。
しかし当然、その価値は常識外れであり、一つ手に入れるだけでも数百億という莫大な金が必要になる為、火神は危険だろうと違法に近かろうと少しでも報酬の高い依頼を受け続けており、今回の縦穴の依頼を引き受けた理由も、全ては妹を救う為だった。
「これでも‥‥まだ足りないわね。」
そう呟いた火神は、眠る朔夜の冷えた手を両手で優しく包み込みながら、震えを押し殺すように唇を噛み締め、今にも壊れてしまいそうな表情のまま、それでも妹へ安心させるように優しく語り掛ける。
「朔夜‥‥もう少しだけ待っててね。お姉ちゃんが、何とかしてみせるから。」
そうして火神は、涙を見せることなくゆっくりと立ち上がると、妹の手を静かにベッドへ戻し、更なる金を手に入れる為に再び動き出すのだった。




