第58話 原点。
「どうして、こうなった。」
夜風が静かに吹き抜けるベランダで、ディアブロは一人、夜空を見上げながらぽつりと独り言を漏らした。
水瀬家と関わり始めてまだ数えられる程度の時間しか経っていない。まともな会話ですら片手で足りるほどしかしていないというのに、気付けば家に泊まるほどの関係になり、さらには水瀬母から妙なまでの信頼を向けられていた。
その事実にディアブロは素直に困惑していたし、何より娘本人である結奈も、そこまで強く拒絶しないことが不思議で仕方がなかった。
自分がどんな存在なのか、水瀬は全てを知らないにしても、ある程度は理解しているはずだ。
ならば普通は、家族や大切な人とは会わせたくないと思うものではないのか、少なくともディアブロはそう考えていた。危険を呼び寄せる存在であり、普通とは程遠い自分を、わざわざ家族の輪の中へ招き入れる理由が理解出来ない。
だが、水瀬は違った。
何かあるたびに家族へ繋げようとし、当たり前のように自分をその輪の中へ引き込もうとする。ディアブロにとって、それはまるで理解不能な行動だった。
水瀬が何を思い、何を考えてそんな行動を取っているのか。
ある程度、恋愛という感情を知っている者なら、その答えにはすぐ辿り着くのだろう。だが当然、ディアブロにはその感情の正体など理解出来るはずもない。
故に――ただ、“謎”という答えだけが残る。
そんなことを考えながら静かな星空を眺めていると、不意に背後から声が掛けられた。
「眠れないの?」
振り返れば、そこには眠そうに目を擦る水瀬の姿があった。
「眠れないわけじゃない。体質的にというか、理由は分からないが長時間の睡眠が取れないんだ。いつも1、2時間で目が覚める。」
その言葉は淡々としていたが、その奥に刻まれている過去は決して軽いものではない。
ディアブロは、結ばれてはいけない存在同士の間に生まれた子供だった。
生まれた瞬間から祝福とは無縁で、周囲にあったのは嫌悪と殺意だけ。昼も夜も関係なく、自分を殺そうとする者たちと戦い続け、いつ敵が襲って来るかも分からない、眠った瞬間に死ぬかもしれない。
そんな極限の人生を生き続けた結果、ディアブロの魂から“深く眠る”という感覚そのものが失われてしまっていた。
それは春宮の肉体へ入った今でも変わらない。魂の奥底にまで焼き付いた傷は、肉体が変わった程度で消えるほど浅いものではなかった。
そんなディアブロの横へ、水瀬は何も言わず静かに並び立つ。そして、どこか気を遣うようにそっと同じ夜空を見上げるのであった。
「私も眠気覚めちゃったから‥‥もう起きるわ。」
そう言いながらも、その目は明らかに眠そうだった。欠伸を堪えるように小さく口元を押さえ、それでも無理に笑って隣へ立っている。
きっと気を遣っているのだろう。
静かな夜風が二人の間を通り抜ける中、並んで夜空を見上げていると、不意に水瀬がどこか遠慮がちに口を開いた。
「ね?聞いてもいい?」
「俺に答えられることならな。」
ぶっきらぼうに返すと、水瀬はふふっと小さく笑った。
「それじゃあ、遠慮なく。」
そう言ってから、彼女は今までずっと胸の奥に抱えていた疑問を口にする。
「何でディアブロは、“覇王”になろうと思ったの?」
その瞬間、ディアブロは僅かに目を細めた。
今、水瀬は“春宮”ではなく“ディアブロ”と呼んだ。それはつまり、春宮湊としてではなく“覇王ディアブロ”としての言葉を聞きたいという意思表示に他ならない。
その真意を正確に汲み取ったディアブロは、夜風に黒髪を揺らしながら、しばし無言で星空を見上げてから、ゆっくりと口を開いた。
「それしかなかったからだ。」
「それしかなかった?それは、覇王になるしかなかったってこと?」
「半分正解で、半分不正解だな。」
夜風に黒髪を揺らしながら、ディアブロは静かに続ける。
「お前は俺の過去を見た。だが、あれはあくまで断片に過ぎない。全てを知っているわけじゃない。だから、その答えになる。確かに俺は、覇王になるしかない場所にいた。だが同時に、俺自身がその運命を望んだ。」
その言葉に迷いはなかった。
運命に無理矢理押し付けられたわけではない。覇王という道を選び、その運命すら受け入れたのは他でもない自分自身だと、ディアブロは静かな声音のまま語る。
そこには後悔も躊躇もなく、生き方も願いも怒りも、その全てを己の意思で掴み取って来た者だけが持つ確固たる覚悟が滲んでいた。
「お前は前に『私の人生は辛い』と言っていたな。確かに、この世界の普通の人間から見れば、お前の人生も春宮の人生も十分すぎるほど辛いものなんだろう。莫大な借金、毎日ギリギリの生活、弟妹の面倒、自分の将来への不安と挙げればキリがない。」
そこでディアブロは一度言葉を切り、静かに続けた。
「だが、それでもお前には家族がいる。」
その声音はどこまでも静かで、まるで当たり前の事実を語っているだけのようにも聞こえた。
「自分を愛してくれる家族がいる。それは春宮も同じだ。どれだけ弱いと笑われても、馬鹿にされても、大切な友人に裏切られても、それでも信じてくれる家族がいる。」
夜空を見上げるディアブロの横顔は、どこか遠くを見ていた。
「その存在がいるだけで、人はどれほど救われているのか理解していない。人間は欲望と切り離せない。一つ願いが叶えば、また次を望む。そして、いつの間にか自分が既に持っている大切なものを忘れてしまう。」
水瀬は何も言えなかった。
軽々しく言葉を返せるような過去ではないことを、本能的に理解してしまったからだ。だからこそ、ただ静かにディアブロの言葉へ耳を傾けることしか出来ない。
そんな水瀬を横目に、ディアブロは再び静かに口を開いた。
「俺には何もなかった。」
その瞬間、夜風が強く吹き抜けた。
「俺を抱きしめてくれる人も、愛してくれる人も、言葉を掛けてくれる人もいない。俺を愛せるのは自分だけだった。世界の全てが俺という存在を否定し、排除しようとした。だから、俺は誰にも愛されない。」
淡々と語っているはずなのに、その言葉は異様なほど重かった。どれだけの孤独を抱えれば、こんな言葉が出て来るのか。水瀬には想像すら出来ない。
「だから俺は望んだ。」
ディアブロの瞳が静かに夜空を見据える。
「俺の全てを否定する世界を、この手で変えてやる。そして何もかも俺の思い通りにしてやるってな。それが――俺が覇王になろうと思った原点だ。」
そう。始まりは、ただ愛されたかっただけだった。
誰からも愛されず、誰からも認められず、存在するだけで世界から拒絶され続けた。やがて、その思いは世界そのものを変えたいと願うようになった。そして、その願いの果てに生まれたのが
――“覇王ディアブロ”という存在だったのである。
水瀬はそんなディアブロの横顔をじっと見つめていた。
表情だけを見れば、いつも通り淡々としているようにしか見えない。だが、水瀬の目にはそうは映らなかった。その瞳の奥には、どうしようもない孤独と悲しみが静かに滲んでおり、まるで長い間ずっと誰かに救いを求め続けていた子供のようにも見えたのだ。
その姿を見た瞬間、水瀬の胸は強く締め付けられる。
どうにかしてあげたい。支えてあげたい。そんな想いだけが胸の中で膨れ上がって行くのに、自分に何が出来るのか分からず、喉まで出掛かった言葉は震えて上手く形になってくれない。
それでも――水瀬は両手をぎゅっと握り締め、不安ごと振り切るように震える声を必死に前へ押し出した。
「大丈夫。」
その一言を、今度ははっきりと告げる。
「私が隣にいるから!!どれだけ世界が否定しても、私は味方だから!!もっと頼って欲しい!!今はまだ弱いけど‥‥もっと強くなって、支えられるようになる!!それは、私だけじゃなくベガちゃんもきっと同じ思いだから!!」
その言葉を聞いた瞬間、ディアブロはぽかんと目を丸くした。そして次の瞬間――
「アハハハハハハ!!」
夜空へ響くほど大きな笑い声を上げた。心の底から可笑しいと言わんばかりに笑い続け、やがて笑いが収まると、ディアブロはどこか納得したように目を細める。
「そうか‥‥確かに、その通りだな。」
そして、小さく笑みを浮かべながら続けた。
「なら、頼らせてもらう。さぁ、話は終わりだ。もう眠るぞ。明日もダンジョンに入るんだ。寝不足でまともに動けないなんて笑えないからな。」
そう言ってディアブロと水瀬は静かに部屋へと戻って行く。先程まで吹き抜けていた夜風もどこか穏やかに感じられ、その背中には不思議と重苦しさがなかった。
そして――この日。
ディアブロは人生で初めて”眠る”という感覚を知るのであった。




