第28話 諦めることが出来ない者。
静まり返った研究室の中で、男はただ一人、例の観測データを何度も何度も再生し続けていた。モニターに映し出される波形と数値は、既存の理論では到底説明のつかない異常を示しているにもかかわらず、その本質に辿り着くことが出来ないという事実が、じわじわと男の精神を蝕んでいく。
「‥‥どうして理解できないんだ!!」
ついに堪えきれず、男は机を強く叩きつけた。乾いた音が室内に響き渡り、その衝撃で積み上げられていた資料の一部が崩れ落ちるが、そんな些細なことに意識を向ける余裕など今の男には存在しない。
その怒りの原因は明確だった。
――「日本三大組織による緊急会議」。
男はあの縦穴に対して、即時に探索隊を派遣すべきだと何度も何度も提案していた。危険性を理由に否定されようとも、提示されたデータの異常性を根拠に食い下がり続けたが、その主張が受け入れられることは最後までなかった。
それどころか、その執着にも似た姿勢は“危険思想”と断じられ、観察対象として扱われた末に、ついには局長としての任を解かれるという処分を下されてしまう。
だが、それでもなお――男は止まらなかった。
何故なら、この男はダンジョンという未知そのものに魅了されていたからだ。自分の全てを賭けても、その謎を解き明かしたいと本気で思っている人種であり、理解不能という壁は挫折ではなく、むしろ強烈な衝動を生み出す起爆剤に過ぎなかった。
「これがどれほど革新的で、未来への可能性を示しているかを何故ッ!!理解できない。ダンジョンの可能性が広がれば、それだけで社会にどれほどの利益をもたらすか分からないというのに、人の死如きでその歩みを止めるなど愚かすぎる!!」
吐き出される言葉に迷いはなく、そこにあるのは純粋な合理と、常人には理解し難い歪んだ価値観だけだった。
その思考は明らかに常軌を逸している。だがそれは、ある日突然狂ったわけではなく、元よりこの男が持ち合わせていた本質そのものである。
幼き頃から天才少年として世間の注目を浴び、わずか十歳にしてハーバード大学へ飛び級で入学。そのまま世界でも有数のダンジョン研究機関へと進み、数々の論文と実績を積み上げたことで、その名は世界的に知られる存在となった。
やがて帰国した男は、政府主導の下で設立されたダンジョン研究機関――Government-Affiliated Dungeon Advanced Research Bureau――略して『D.A.R.B.』へと迎え入れられ、若くしてその局長という地位に就任するに至る。
だが、“天才と狂気は紙一重”という言葉が示す通り、その思考は次第に常識や倫理といった枠組みを逸脱していき、周囲の理解を超えた領域へと踏み込んでいった。かつては畏敬の対象であった視線も、いつしか呆れと諦めを含んだものへと変わっていくが、この男にとって他者の評価など取るに足らないものだった。
今の彼を支配しているのは、ただ一つ。
――この謎を解き明かしたい。
その強烈な欲求のみである。
しかし現実は非情だった。局長という立場は既に失われ、動かせる人員も権限もほとんど残されていない。正規の手段であの縦穴へと干渉することは、もはや不可能に近い状況にあった。
ならば、残された選択肢は一つしかない。
「政府やギルドが動かないのなら、自分が直接動くしかない。身銭を切ってでも裏ルートから、この私を護衛できる者を探し出し、強引にでも乗り込むしかないだろう。」
低く、確信に満ちた声でそう呟いた男は、自ら一線を越える決断を下した。
それがもたらす未来が破滅なのか、それとも新たな時代を切り開く希望なのか――その答えを知る者は誰一人としていない。
ただ一つ確かなことがあるとすれば、ディアブロという存在の行動を契機に、世界は再び動き始めているという事実だけだった。日本という枠組みを越え、その変化の波は確実に広がりつつある。
――静かに、だが確実に。




