第27話 母という存在。
ポチャ‥‥ポチャ‥‥と水が滴る音が静かに響き渡り、何気なく視線を落とすと、水面には自分の顔が歪んで反射していた。
「‥‥どうしてこうなった?」
思わず零れたその言葉は、今の状況に対する純粋な疑問そのものだった。
事の発端は一時間ほど前に遡る。ダンジョンから戻ってきた水瀬とディアブロが軽く言葉を交わしていたその最中、まるでタイミングを見計らったかのように水瀬の母が帰宅してきたのだ。
ディアブロと水瀬の母に直接的な面識はなかったが、水瀬家にとってディアブロは紛れもなく命の恩人である。借金の肩代わりに始まり、パーティーとしての報酬まで与えているという事実は、赤の他人に向けるものとしてはあまりにも大きすぎる好意だった。母としても本来であれば、もっと早く直接礼を伝えたいと思っていたが、娘である結奈がそれを頑なに拒んでいたため、その機会を得ることが出来ずにいた。
しかし、こうして偶然にも顔を合わせることになった以上、その想いを引っ込める理由などどこにもない。むしろこの機を逃すまいと、母として出来る限りの礼を尽くそうと考えるのは当然の流れだった。
軽く挨拶だけを済ませ、そのまま帰ろうとするディアブロの腕を、水瀬の母は迷いなく掴む。丁寧に辞退しようとするディアブロに対しても、その手が離れることはなく、柔らかな物腰とは裏腹に一切引く気配を見せなかった。
結果として先に折れたのはディアブロの方であり、「では食事だけ」と最低限の条件で妥協したはずだったのだが――
気が付けば、なぜか風呂に入っている。
「‥‥どうしてこうなった。」
再び同じ言葉が口から漏れるが、その疑問に答えてくれる者はいない。耳に届くのは、変わらず滴り落ちる水の音と、近くで丸くなって眠るベガの穏やかな寝息だけだった。
生まれてこの方、“親”という存在を知らずに生きてきたディアブロにとって、今回の一連の出来事はあまりにも未知であり、同時に圧倒的でもあった。かつて覇王とまで呼ばれた自分が、理屈ではなく雰囲気だけで押し切られるなど想像もしていなかったが、今日という一日でそれが現実として刻み込まれることになる。
これが――母の圧というものなのか。
どこか納得しきれないまま、それでも確かに感じ取った“強さ”に対して、ディアブロは内心でそう結論づけるのだった。
やがて風呂から上がり、ベガと共に居間へと戻ったディアブロを待っていたのは、思わず足を止めてしまうほどに豪華な夕食だった。
食卓いっぱいに並べられた料理はどれも手間がかかっていることが一目で分かり、家庭料理でありながらも温かさと気遣いが隅々まで行き届いているのが伝わってくる。
「さぁ!!さぁ!!春宮さん、座ってください。年頃の男の子なんですから、いくらでも食べてくださいね。それと、こっちはベガちゃん用ね。」
明るく手招きする母の声に促されるまま席へと着けば、用意されていたのはディアブロの分だけではなく、ベガ専用の料理まできっちりと用意されていた。
やがて全員が揃い、水瀬の母が場をまとめるように声を張る。
「いただきます」
その一言を合図に、食事は一斉に始まった。
娘と息子たちが我先にと皿へ料理を取り分けていく様子は、いかにも家族らしい光景であり、人数の多さも相まって一度の取り分けで料理はみるみる減っていく。しかし、それを見越しているかのように、母は絶妙なタイミングでキッチンから新たな料理を運び続け、食卓から料理が途切れることはなかった。
ここまで整えられた場で食べずに帰るなどという選択肢は、もはや存在しない。ディアブロは静かに皿を手に取り、近くに並ぶ料理の中からいくつかを選んで取り分けると、そのまま一口運ぶ。
口に広がった味は、昼に結奈から渡された弁当とよく似ていた。だが、それと同時に感じるのは、わずかに上乗せされた深み――積み重ねられてきた時間のようなものだった。
すると、その反応を見逃さなかった結奈が、隣から身を乗り出すようにして声を掛けてくる。
「お母さんの料理はおいしいでしょ!!」
「あぁ‥‥美味い。昼に貰った弁当の味に似ているが、こっちの方がより深みというか、歴史を感じるな。」
「そりゃそうよ。私はお母さんに料理を教えてもらってるんだから、似る味になるのは当然でしょ?てか、その言い方だと私の料理には深みがないみたいに聞こえるんですけどーー!!」
「そう言っている。だが、お前もこれから料理を続ければ同じ味になると考えれば、それはそれで面白いと思う。」
どこか噛み合っているようで微妙にズレている会話を挟みながらも、食事は終始和やかな空気の中で進んでいった。
やがて食事が終わり、ようやく帰る時間となって水瀬家の玄関を後にしようとしたその時、背後から静かに声がかかる。
「本当に、私達家族を救ってくれてありがとうございます。」
振り返ると、水瀬の母が深く頭を下げていた。その姿に、ディアブロは一瞬言葉を失う。生まれてからこれまで、こうして真っ直ぐな感謝を向けられた経験がほとんどなかったため、どう応じるのが正解なのか分からなかったのだ。
わずかな間を置いた後、ディアブロはとりあえず思いついた言葉をそのまま口にする。
「気にしないでください。自分の為にやっただけです。」
それは決して間違いではないが、同時にどこか不器用な返しでもあった。まだ“人としての振る舞い”に慣れきれていないが故の反応であり、経験不足を自覚するには十分な一言でもあった。
そうして一連の出来事を終えたディアブロは、ベガと共に自宅へと戻るべく、その場でテレポートを発動させるのだった。




