第19話 世界を統べた覇王の敗北――そして仲間を求める理由。
「ちょっ‥‥ちょっと、何これ!?一体、何が起こってるの!?」
水瀬の声は明らかに震えていた。それも当然だった。
ついさっきまで彼女は喫茶店のソファーに腰を下ろし、目の前のテーブルには飲みかけのコーヒーが置かれていて、周囲には他愛もない会話のざわめきがあったはずなのに、その全てが、まるで最初から存在していなかったかのように消え失せているのだから。
足元にあったはずの床は消え、壁も天井も、空間という空間を形作っていたものが一切見当たらない。それにもかかわらず身体は落ちることなく宙に留まり続けていて、支えもなく浮かんでいるという異様な感覚だけが現実として全身にまとわりついていた。
そんな異常の中にあって、ただ一人だけ、何一つ揺らぐことなくそこに“立っている”存在があった。
ディアブロである。
重力という概念すら意味を持たないこの場所で、まるでそこに地面が存在しているかのように自然に、そして当然であるかのように空に足をつけて立っているその姿は、もはや人間という枠組みから逸脱した異質さを放っていた。
「そう慌てるな。これは全て我の記憶世界であって、実際に空に飛んでいるわけではない。お前の意識を我の記憶へと接続しているに過ぎん。」
低く、落ち着き払った声音だった。その声には、この状況そのものを当然のものとして受け入れている絶対的な余裕が滲んでいる。
「ほら、下を見てみろ。」
そう促され、水瀬は恐る恐る視線を下へと落とす。その動作一つにもためらいが混じるのは、視界の先に何が広がっているのか分からないという恐怖があったからだ。
そして――視界に飛び込んできた光景に、息を呑んだ。
そこにあったのは、先程までの無の空間とはまるで異なる、圧倒的な存在感を持つ一つの“場”だった。
巨大な王座がある。ただ大きいだけではない。禍々しさと神聖さが同居したような、見る者の本能に直接訴えかけてくる支配の象徴としてそこに鎮座していた。
その王座に、悠然と腰を掛ける一人の存在。
そして、その存在へと刃を向けて立ち向かう四人の影。
剣を構える者、杖を掲げる者、全身から膨大な魔力を迸らせる者――いずれもただの人間ではないことは一目で理解できる。それでも尚、彼らが対峙している“王”は、それら全てを凌駕する圧を放っていた。
戦いはまだ始まっていない。だが、今にも空気が裂けて爆ぜるのではないかと思えるほどの緊張が、その場全体を支配していた。
「あれは一体なに?それに記憶世界ってどういうこと?」
戸惑いと警戒が入り混じった声だった。理解できないものを理解しようとする人間特有の、必死さが滲んでいる。
「言葉通りだ。この世界は我の記憶の世界で、実際に我が体験したものを具現化してお前に見せている。」
ディアブロはその光景を見下ろしながら、淡々と告げる。
「そして――あれが我だ。」
ゆっくりと指を差した先――そこにいたのは、王座に座る存在だった。
水瀬の視線は抗うことも出来ずにそこへ吸い寄せられ、息が詰まるほどの圧倒的な威圧感に呑まれながらも、その姿が春宮 湊とは似ても似つかないという決定的な違和感を覚えていた。
「どういうこと?さっぱり意味が分からないな。あれがあなたなら‥‥今のあなたは何なの?」
言葉を絞り出すように問いかける。理解が追いついていないことは明らかだったが、それでも問いを投げずにはいられなかった。
「この身は春宮 湊のものではあるが、その魂は春宮ではなく、あそこにいるディアブロの魂が入っている。」
静かに、しかし断定的に言い切る。
「つまり、側は春宮で中身はディアブロということになる。理解できたか?」
その言葉には、相手の理解を確かめるというよりも、試すような色が僅かに混じっていた。
「いや、言っていることは理解できるわ。でも、どうしてそんなことになっているの?」
「それは、春宮が魂の召喚を行ったからだ。そして、その召喚によって我の魂が呼び出され、春宮の魂を奪い、己の肉体とした。」
その言葉はあまりにも淡々としていたが、内容の重さは尋常ではない。
「つまり本当の春宮 湊の魂はあなたが消して、その体を奪ったということよね?」
水瀬の声にはわずかに非難の色が混じる。
「少し違うが‥‥まぁ、それでいい。」
否定しきらないその返答が、逆に事実の重さを際立たせていた。
「で、じゃああなたは一体何者なの?そのディアブロっていうのがあなたの名前なんでしょ?」
「そうだ。我の名前はディアブロだ。」
その名が告げられた瞬間、空間そのものが微かに軋んだような錯覚を覚える。
「何者か‥‥そうだな。我は覇王だ。」
その言葉を境に、景色が大きく歪んだ。
次の瞬間、水瀬の視界はまるで別世界へと叩き込まれる。
空は赤黒く濁り、大地は裂け、炎が至る所で噴き上がり、遠くからは咆哮と破壊音が絶え間なく響いてくる。それは単なる戦場という言葉では収まらない、世界そのものが戦い続けているような光景だった。
その中心に、ディアブロは立っていた。
無数の敵を前にしながら、ただ一人で。
「我はこの手に世界の全てを手にしていた。ありとあらゆるものをこの手で破壊し、力で全てを手にしていた。」
その言葉と共に、記憶の中のディアブロが腕を振るう。その一振りだけで大地が裂け、押し寄せていた軍勢がまとめて吹き飛ぶ光景は、もはや戦闘というよりも災害に近かった。
「世界も世界で、今のような秩序と平和が保たれていたものではない。弱肉強食が当たり前の世界だった。だからこそ、力で世界を統べることが出来た。」
だが、その“力”は常軌を逸していた。
「我の力は、あまりにも強力であった。軍隊も、勇者も、魔王であっても、誰一人として我とまともに戦える者はいなかった。」
押し寄せる軍勢は尽く消え、放たれる魔法は触れる前に霧散し、どれほどの存在が挑もうとも、その結末は変わらない。
敗北。それだけだった。
「だから、世界は共通の敵を討つために手を組んだ。」
本来であれば決して交わるはずのない種族同士が、長きに渡って積み重ねてきた憎しみも、血で血を洗ってきた歴史も、その全てを飲み込み、ただ“我を倒す”という一点のためだけに手を取り合ったのだ。
「あれほどまでに争い続けていた者達が、過去を捨て、戦いを捨て、それでも尚選んだのが共闘だった。そして、それが――あの四人だ。」
視界が再び王座の場面へと引き戻される。
だが先程とは違う。その光景に込められた意味を理解した今では、あの場に立つ四人がどれほどの覚悟と決意を背負っているのかが、痛いほど伝わってくる。
「だが、結局‥‥我には敵わなかった。」
ディアブロは、かつての自分を見下ろすように呟く。
「どれほどの力を束ねようと、どれほどの技を繰り出そうと、その全ては我に届くことはなかった。あらゆる攻撃は意味を成さず、我にダメージを与えることなど、一度として出来なかったのだ。」
圧倒的という言葉ですら足りない差。
その事実が、何よりも雄弁に物語っていた。
「結局、我と戦える者など存在しないのだと‥‥その現実に、我は心の底から落胆した。」
わずかに間を置く。
その間に滲むのは、誇りではなく、空虚だった。
「だから――世界を壊そうとした。」
その瞬間、流れが変わる。
四人の中の一人、勇者の身体に異様な光が宿り始める。
それは魔力とは明らかに異なる質を持っていた。
「思いなど、何の役にも立たないと、我はそう思っていた。」
低く、静かな声。
だがその奥には、かつての価値観を否定するような重みがある。
「だが、それは間違いだった。一人一人の思いは確かに小さく、取るに足らない物で、力にもならない。そう切り捨てていたはずのものが――その数が世界中に広がった時、その意味は全く別のものへと変わった。」
光が膨れ上がる。それは単なる力の増幅ではなく無数の願い、祈り、絶対に負けてはいけないという意思、その全てが一つに束ねられていった。
「世界に住む全ての者が、同じ思いを抱き、同じ願いを託した。その瞬間、勇者の持つ力は、我が知るいかなる力とも異なるものへと変質したのだ。」
そして――振り下ろされる一撃。
「その一撃に‥‥我は敗北した。」
ディアブロは静かに言い切り、その瞬間に放たれた閃光が視界の全てを塗り潰し、音という音が消え失せ、まるで世界そのものが一瞬停止したかのような静寂が訪れる中で、力だけでは世界を本当の意味で統べることは出来ないのだという事実を、否応なく理解させられることになったのだと続ける。
「その瞬間に悟ったのだ。力だけでは、世界を本当の意味で統べることは出来ないのだと。」
「勇者がそうであったように、自分を信じ、託す者達がいて初めて、その者は“世界を統べる存在”へと至る。」
その言葉を区切りに、ゆっくりと水瀬へと視線を向けながら、二度と同じ過ちは繰り返さないと決めたこと、そして次に目覚めることがあったならば、もはや一人で全てを背負うのではなく、自らの手で仲間を見つけ出し、そして作り上げるという確固たる意志を静かに語る。
「だから、我は決めた。二度と同じ過ちは繰り返さないと。次に目覚めることがあったならば、我は一人で全てを背負うことはしない。自らの手で仲間を見つけ出し、そして作り上げると。」
「それが‥‥私ってこと?」
「そうだ。お前には、その可能性がある。」
迷いなく言い切られたその言葉を、水瀬は真正面から受け止めることが出来ず、視線を再び足元へと落としながら、自分には魔法の才などなく、今を生きることすら精一杯な状態である以上、そんな可能性があるはずがないと、自嘲するように言葉を吐き出していく。
「知ってるでしょ?私には魔法の才なんてないし、今だって今日を生きるのに精一杯で、そんな状態なのに‥‥何の可能性があるっていうの?そんなものは‥‥もう、あのクズが残した借金で全部消えたわ。」
その言葉は、未来を語る資格すら自分にはないのだと断じるような、諦めと否定に満ちたものだったが、ディアブロはその姿から目を逸らすことなく見つめ続け、かつての自分が前しか見えていなかったのに対し、目の前の少女は足元が崩れることを恐れるあまり前を見ることすら出来ずにいるのだと理解する。
だからこそ――足元しか見えないのであれば、無理やりにでも前を向かせるしかないと判断し、一拍の間を置いてから静かに口を開いた。
「なら、お前は‥‥未来を捨てるのか?」
その一言は、逃げ場のない問いとして、水瀬の心の奥深くへと突き刺さるのであった。




