第140話 変異体の正体は‥‥。
「ま、まさか‥‥ヘビークラブ!!」
目の前に姿を現した巨大なモンスターを見た瞬間、楓はその正体に気付き、驚愕に目を見開きながら思わず声を上げた。
ヘビークラブと呼ばれるモンスターは32層を主な生息域とする強力なモンスターであり、その最大の特徴は全身を隙間なく覆っている鋼鉄よりも硬い分厚い殻で、その強度は物理攻撃だけでなく魔法攻撃すらも弾いてしまうほどであった。
さらに、その両腕には人間の身体など容易く挟み潰してしまいそうな巨大なハサミが備わっており、その奥にある小さな口からはブクブクと大量の泡を吐き出しながら、岩肌を擦るような音を立ててゆっくりと身体を動かしていた。
そして何よりも驚愕するべきは、その大きさであった。
本来なら32層に生息しているはずのヘビークラブにとって、20層の洞窟はあまりにも狭く、その巨体を自由に動かせるほどのスペースなど当然ない。
それでもヘビークラブは構うことなく前へ進み、その度に分厚い殻が左右の壁をガリガリと削り、巨大なハサミを僅かに持ち上げただけでも天井にぶつかって岩や砂埃が降り注ぐほどの巨体を誇っていた。
「やばい!!やばい!!よりにもよって変異体がヘビークラブなんて‥‥あり得ないわ!!通常の個体でも十分にやばいのに‥‥いや、そんなことよりも‥‥早く逃げないと。」
楓は目の前の存在がどれほど危険なのかを知っているからこそ、一瞬で戦うという選択肢を捨て、隣にいる春宮を連れて逃げようと身体を動かす。
しかし、その手を伸ばそうとしたところで、楓は春宮が隣にいないことに気付き、慌てて視線を前へと向けた。
既に春宮はヘビークラブへ向かって歩き始めていた。
「ブクブク‥‥ブクブク‥‥」
ヘビークラブは口から大量の泡を吐き出しながら、こちらへ近づいてくるディアブロをじっと見つめていたが、それは決して相手の様子を窺っているわけではなく、自らの縄張りへ踏み込んできた敵に対する明確な威嚇行為であった。
それでもディアブロは足を止めることなく、むしろ何の警戒もしていないかのように真正面から近づいていく。
その態度が自らの威嚇を無視されたと感じたのか、ヘビークラブは巨大な身体を持ち上げると同時に片方のハサミを高々と掲げ、そのままディアブロ目掛けて凄まじい勢いで振り下ろした。
――ドン!!!!
まるで洞窟の中で爆発でも起きたかのような轟音が響き渡り、巨大なハサミが地面を叩いた衝撃によって足元の岩盤に亀裂が走ると、その振動は洞窟全体を地震のように大きく揺らした。
天井や壁から細かな岩や砂埃が一斉に降り注ぎ、辺り一帯が白く霞んでいく。
「春宮くん!!!!!」
その光景を目の当たりにした楓は、反射的に春宮の名前を叫んでいた。
だが、叫んだからといって今起きたことが変わるはずもなく、楓の目には巨大なハサミが確実に春宮を捉え、そのまま地面へ叩き潰したようにしか見えなかった。
あれほどの巨体から放たれた一撃を真正面から受けたのだ。
普通に考えれば、生きている可能性などない。
「どうしよう‥‥私が止めていれば‥‥彼は死ななかった。でも、私の魔法だけじゃ‥‥ヘビークラブにダメージは与えられない‥‥どうしたら‥‥いや、早くみんなの元に行かないと。」
自分がもっと早く止めていればという後悔が楓の頭を埋め尽くすが、今は立ち尽くしている場合ではなく、ヘビークラブをこのまま放置すれば他の仲間たちまで危険に晒されてしまう。
自分の魔法だけでは、あの鋼鉄よりも硬い殻を突破することはできない。
ならば一刻も早く仲間たちの元へ戻り、全員で戦うしかないと楓が踵を返そうとした――その瞬間。
砂埃の向こう側から、聞き慣れた声が聞こえてきた。
「‥‥軽いな。やっぱりカニ程度のモンスターじゃあ‥‥全然物足りないな。」
「‥‥え?」
聞こえるはずのない声に楓は思わず足を止め、ゆっくりと振り返った。
次第に砂埃が薄れていき、その向こう側にある光景が露わになっていくと、楓の目はこれ以上ないほど大きく見開かれた。
ディアブロは死んでいなかった。
それどころか、ヘビークラブが凄まじい勢いで振り下ろした巨大なハサミを、たった片手だけで受け止めていた。
身体が地面へ沈み込んでいるわけでもなく、苦痛に顔を歪めているわけでもない。
まるで上から落ちてきた軽い荷物でも受け止めているかのように、ディアブロは平然とした表情のまま巨大なハサミを片手で支えていた。
「なっ!!」
あまりにも常識から外れた光景を前に、楓は開いた口が塞がらず、その場から一歩も動くことができなかった。
ヘビークラブ自身も、自らの攻撃を止められたという事実を理解できていないのか、口から激しく泡を噴き出しながら何度もハサミへ力を込めるが、ディアブロの腕は僅かにすら動かない。
やがて苛立ったようにもう一方のハサミを振り上げると、今度は左右のハサミを交互に何度も何度も振り下ろし始めた。
――ドン!!ドン!!ドン!!
一撃が放たれる度に洞窟内へ轟音が響き、地面が揺れ、壁から岩が剥がれ落ちていく。
しかし、ディアブロは一歩たりともその場から動かなかった。
右から迫れば右手で止め、左から迫れば軽く腕を動かして受け流し、頭上から叩き潰そうとしても片手を掲げるだけで完全に受け止めてしまう。
どれほど巨大なハサミが振り下ろされようとも、ディアブロにとっては鬱陶しいだけの攻撃でしかなかった。
そして何度目かの攻撃が振り下ろされた瞬間、ディアブロは避けることも受け流すこともせず、その巨大なハサミをガシッ!!と片手で掴んだ。
「いい加減にしろ。何度も何度も俺に攻撃するな‥‥おこがましいぞ。」
次の瞬間、ディアブロは掴んだハサミを強引に横へ振り抜いた。
ヘビークラブの巨体が地面から浮き上がり、そのまま凄まじい勢いで洞窟の壁へと叩き付けられる。
――ドン!!!!
分厚い岩壁が大きく陥没し、蜘蛛の巣のような亀裂が周囲へ一気に走ると、その中心へヘビークラブの巨体が深々とめり込んだ。
それでもなお身体を動かそうとするヘビークラブへディアブロはゆっくりと近づき、その目の前で足を止める。
そして拳を握ることすらせず、その顔面を軽く小突いた。
ただ、それだけだった。
しかし次の瞬間、ヘビークラブの巨体は再び壁の奥へと吹き飛ばされ、衝撃に耐え切れなかった右のハサミが根元から千切れるように吹き飛び、重々しい音を立てながら地面へと転がった。
あれほど硬い殻を誇っていたヘビークラブは、もはや先ほどまでの威勢など完全に失っており、口から大量の泡と白い液体を吐き出しながら壁にめり込んだまま動かなくなっていた。
「‥‥何だ‥‥もう終わりか?」
ディアブロは心底物足りなさそうな声を漏らしながら、壁へめり込んでいるヘビークラブを上から冷たく見下ろすのであった。




