第115話 目覚めの時は近い。
「雫ちゃん!!来るよ!!」
水瀬の声がダンジョン内へ鋭く響くと同時に、雫たちの正面に前回と同じゴブリンが四匹、その醜悪な姿を現した。湿ったような緑色の肌を震わせながら棍棒を握り締め、低く唸る魔物たちを前に、雫は一歩踏み出して槍を構え、水瀬もまた静かに杖を掲げて直ぐに戦闘態勢を整える。
「戦術は前回と同じね。私が雫ちゃんのサポートをしながら三匹はこっちで受け持つから、雫ちゃんは目の前の一体だけに集中して。」
「分かってる。」
いつものような荒々しい口調ではなく、短く、それでいて落ち着いた返事だった。その声音からは恐怖よりも目の前の敵へ全神経を集中させている様子が窺え、雫の呼吸も視線も一切ぶれることはない。
その姿を見たディアブロは、心身共に戦う準備は整っていると判断し、余計な言葉は掛けず、水瀬へ僅かに視線を送るだけで指示を伝えた。
その意図を瞬時に理解した水瀬は、雫に悟られぬよう自然な動作で杖を軽く傾け、静かに白魔法を発動させる。淡い白光が一体のゴブリンだけを包み込み、その肉体へ力を流し込んでいった。
「ぐっ!!ぐへへへッ!!」
魔法を受けたゴブリンの全身がビクリと震え、筋肉が音を立てるように膨れ上がっていく。
肩幅は一回り広がり、握る棍棒には先ほどまでとは比較にならない圧迫感が宿り、放たれる魔力も獣のような荒々しさを帯び始めた。そこに立つのは、先ほどまでの一匹のゴブリンではない。
モンスターとしての風格を一段階押し上げられた、より危険な存在だった。
これで全ての準備は整った。
強化したとはいえ、その度合い前回を少し上回る程度に留めてある。だが、それでも前回のような甘えや迷いを見せれば怪我では済まず、最悪の場合、その命を落とす可能性すら十分にあり得る。
それでも構わない。
人は、自分を殺し得る存在を前にして初めて、本当の意味で殻を破ることが出来る。追い詰められ、逃げ場を失い、それでもなお立ち上がろうと足掻いた時にしか見えない景色がある。
だからこそ――さぁ、お前の全てを出せ。
◇
雫は目の前に立つ強化ゴブリンを真っ直ぐ見据え、前回のような甘えや迷いは一切抱いていなかった。
槍を握る両手にしっかりと力を込め、穂先を寸分も揺らすことなくゴブリンへ向けながら、相手の呼吸や重心、僅かな足運びまで見逃すまいと神経を研ぎ澄ませ、自分が踏み込むべき一瞬だけを静かに待ち続ける。
「ふぅーーすぅーーふぅーー」
何度も深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出して高鳴る鼓動を落ち着かせると、余計な力が全身から抜けていき、視界の中には目の前のゴブリン以外の存在が消えていった。
――今だ!!
そう確信した瞬間、雫は地面を力強く蹴り抜き一気に間合いを詰める。
静から動へと切り替わるその踏み込みは鋭く、脱力した状態から一瞬で爆発的な加速を生み出したその一撃は、普通のゴブリンであれば反応する暇さえ与えず、いとも簡単に命を奪えるほどの速度と鋭さを備えていた。
――ドカッ!!
しかし、その一撃は振り抜かれた棍棒によって横から弾き飛ばされ、両腕へ鈍い衝撃が走る。
それでも雫は動揺することなく弾かれた勢いを利用して体勢を立て直すと、休む間もなく二撃目、三撃目と鋭い突きを連続で繰り出した。
だが、その攻撃はどれも紙一重で躱され、穂先はゴブリンの身体を掠めることすら出来ない。
細かな突きですら当たらないという現実は雫の心へ焦りを生み、その焦りは次第に苛立ちへと変わっていき、冷静だったはずの思考を少しずつ乱していった。
そして、その苛立ちに任せるように放った一撃は、今までよりも大きく振りかぶった大振りの突きとなってしまう。
細かな攻撃すら当たらない相手に、大振りの攻撃が当たるはずもない。
ゴブリンは身体を僅かに捻るだけでその一撃を避けると、大きく開いた懐へ一気に飛び込み、獲物を仕留める獣のような勢いで棍棒を振り上げながら襲い掛かってきた。
「ぐっ!!」
このままではゴブリンの攻撃をもろに受けてしまうと、そう本能が危険を告げたことで雫の口から苦しげな声が漏れるが、この場で雫を助ける者はいない。
水瀬はディアブロの指示が出るまで決して動かず、この戦いを最後まで見届けると決めたディアブロもまた一切手を貸すつもりはない。この状況を打開できる者は、この場には雫本人しか存在しなかった。
しかし、その雫は迫り来る恐怖に心を飲まれて‥‥ゆっくりと目を閉じてしまう。まだ勝負が終わってもいないというのに、自ら勝利から目を逸らしてしまっていた。
あぁ、俺は‥‥また負ける。いっつもそうだ。肝心な時になると力を発揮できないから、いつもバカにされて、色んな人に心配ばかり掛けてしまう。
お父さんにも、お母さんにも、そして‥‥叔父さんにも。
叔父さんは俺にいっつも優しくしてくれて、俺が少しでも辛そうな表情をすれば真っ先に「どうした?」と声を掛けてくれる。そんな優しい叔父さんに‥‥俺‥‥私は、ずっと甘えていた。
心の何処かで、叔父さんなら頼れば何とかしてくれるって思っていた。でも、ダンジョンへ入り、本物の探索者たちと一緒に行動してみて初めて分かった。
私は‥‥何も出来ない。誰かを守ることも出来ない。期待に応えることも出来ない。ただ守られるだけの‥‥無能なんだ。
‥‥あぁ、私の人生もここまでか。最後の会話があんな感じになったのだけは嫌だったな。
そうやって全てを諦め、意識が闇へ沈もうとした、その時だった。
『頑張って!!雫ちゃん!!雫ちゃんなら出来るよ!!』
『そうよ!!頑張りなさい!!』
『そうだ。まだ出来るだろ!?』
と聞こえるはずのない言葉が聞こえる。
それなのに、その声は驚くほど鮮明に耳へ届き、一つ一つの言葉が冷え切っていた心へ真っ直ぐ突き刺さっていく。
「そうだよ。こんなところでは‥‥終われない。私には‥‥いや、俺には‥‥まだ、やるべき事があるんだ!!」
その言葉と共に雫は強く目を開き、折れかけていた心へ再び熱が宿るのを感じた。胸の奥で何かが脈打つように鼓動が大きく鳴り響き、その熱は血液と共に全身へと駆け巡っていく。
すると次の瞬間、雫の胸の中から今まで感じたことのない"熱い物"が、まるで堰を切ったように一気に込み上げてくるのであった。




